どこの国でも冬の夜空はきりりとして澄んでいる。


   星々の光が深く鋭く輝く様を見つめながら青年は思った。こんな夜空はあまりにも星が降るようで、思い出の彼方に霞んだ記憶さえ蘇ってくるようだった。
   彼の大切な少女はこの年30年の眠りの時期からついに目覚めて彼の元に立ち返った。闘いのない初めての目覚め。穏やかな顔で目覚めた少女は、目覚めの当初、一筋だけ涙を流した。
   それは最初の目覚め以来初めてのまともな目覚めだったのである。目覚めの血を与えられた後、手の甲を唇に押し当て嗚咽を噛み殺しながら、そうやって彼を見つめて彼女の赤い瞳には涙が盛り上がって零れて落ちた。柔らかな唇が震えながら彼の名を呼ぶ。その声を聞いた瞬間、彼は自分がどれだけそのやさしい響きに飢えていたのか自覚した。
「ハジ・・・・」
   闘いから解放された今、これから小夜が何を選んで生きていくか、青年にもわからなかった。気がつくと、今までに無く揺れる眼差しの少女がそこにいた。以前、頑なな意志を秘めていた瞳は今は儚げに揺らいでいて、少女をかぼそく頼りなげに見せていた。
   青年の目がわずかに細められる。目覚めてから覗き込む少女の目には癒えぬ悲しみと、自分自身のこれからに対する不安とがあふれており、ひどく脆いと感じられた。小夜が見つめる目線の先には、既にまったくの絶望はない。だが曇りのない希望もまた同様になかった。子供のように無垢な笑顔で眠りについた後、小夜には目覚める目的が無くなってしまった。かつての目覚めはディーヴァのためにあった。闘うために。共に滅ぶために。そのディーヴァも今はいない。
   使命感がなくなった今、小夜の瞳はこれまでにない淋しさに満ち、今にも壊れそうな弱々しさを露呈させている。青年の瞳が憂いに彩られた。小夜には今度こそ受け入れてくれる世界が存在するというのに。生きて、という言葉を手渡すことができたはずだというのに。――どれほど望んだことだろう、なんの見返りも無く受け入れてくれる人間の世界を。望んだことと現実と。あれほど望んだ明日に満ちた世界が目の前にあるというのに、その世界を前に少女は立ちすくんでいる。ただの戸惑いならば時間が解決するだろう。だが少女の心の中にある、ぽっかりと空いた空洞を青年は見ることができるように思った。
――空洞の名は、ディーヴァと言う。
   それでも最初に少女が発した言葉が自分の名前だったことに青年は深く慰められていた。


   多くに望まれて目覚めた後、しばらくの間小夜は暖かな時間をすごすべくカイの元に預けられた。少女ごと翼手という種族を受け入れた少年は変わらない心で歳月を過ごし、大人になった今もなお沖縄で父の店を継いでいる。30年の年月を過ごしても変わらないものがそこにはあった。短い命を燃やし尽くすように生きる人間の中に不動の心がある。今のジョエルも、この沖縄も。青年の胸の中には深い感慨が浮かんでいた。人間の世界を愛し、それを守るためにすべてを賭けていた少女の、その長い時間を共に過ごした青年だけが知る少女の秘められた願い。決して望むことなど許されなかったその希み。少女が守ったこの世界で、少女を受け入れ、慈しんでくれる人たちの、奇跡のような出会いがここにある。小夜に人間の暖かさを教え、家族の絆を教え。決して短いとは言えない年月、その心を保ち続けていてくれた。少女の心がその絆に少しでも慰められることを青年は祈っていた。心から。


   だが小夜にはそれだけでは癒すことのできない傷があることもまた事実だった。少女の辿ってきた血塗られた道のりのすべてを、この沖縄の人々は知ることはない。それは歳月の重さであり、存在の重さであり、そして血と闘いに彩られた運命の重さでもあった。恐らく小夜はそれを彼らに理解してもらうことを望んでいない。小夜が望むのは、ただ朗らかに存在を受け入れてもらうことだけ。自分の『今』を引き受けてもらうことだけ。そしてそれは正しいのだと青年は思っていた。長い年月の重さを、すべての者が背負うことはないのである。
   ほんの少し前、少女は兄の元を離れ、あの思い出の岩場の見える場所に住むようになっていた。30年の眠りにより不安定な自我同一性アイデンティティーを持つ小夜のため、穏やかな目覚めと精神の安定とを周囲の者たちは望んだ。ゆっくりとこの世界に馴染んでいくために用意されたその場所に、少女は今、一人で青年の帰りを待っている。
「来たかったら、いつでも泊まりにくればいいさ」
   ベッドも着替えも。食器だって何もかも揃っているんだし。少女の兄はそう言って、笑いながら彼女を送り出した。思いがけないことに戸惑う小夜に、カイは太くなった指で少女の頭をぐしゃぐしゃにしてから、そっと前髪に触れていき、青年に悪戯っぽく笑いかけて見せた。受け入れているのは小夜だけではないという意思表示をそこに見たように思えて、青年の口元をわずかな微笑がかすめる。そうやって新しい世界は小夜に馴染んでいくのだろう。
   そして小夜は・・・・。


   振り仰ぐと降り落ちるような星空だった。遠くの光に海がかすかにさざめいている。長い長い時間が経っていた。フランスに始まり、ロシアに、ドイツに、ベトナムに。そして日本。彷徨い続け、血を浴び続けた少女の道の果てが今ここにある。少女の瞳の中にある悲しみと不安は未だに晴れない。『あちら側』は小夜の心の中に潜み、絶えず小夜に呼びかけるのだろう。あの闇の中、失われていってしまった生命たちは。血と闇と焔の記憶と。そしてディーヴァ。小夜がその手で命を絶った彼女の妹。小夜の半身。共に滅びることだけを夢見て――。


――それでも、あなたは生きている。――
   青年の眼差しが強く天空を見つめた。生きていることは絶えず変化すること。そう語った誰かの言葉を思い出す。長い旅路の果てに集っていく、いくつもの心。いくつもの魂。それが少女の今を形作っていく。その記憶が少女を支えていくことになるのだろう。
   南の空には冬の銀河が薄く帯を巻いている。青年は蒼い目でそのうっすらとした輝きを見つめていた。思い出が星のように降ってくる。
――『動物園』の初夏の日々。小夜の笑顔。屈託のない笑い声。さんざめく木漏れ日。自分の名を呼ぶ少女の声。歌。そして焔。累々たる死体の山。訳のわからぬまま追い立てられ――。他人の恐ろしさを、小夜は初めて知ったのだろう。自分たちを翼手だと知る人々の目の中にある怖れと嫌悪。それがジョエルの庇護を失った小夜に向けられる。たまらなかった。責めを負うべきなのは誰なのか。彼らはただ犠牲の山羊スケープゴートを求めているに過ぎない。何も知らずに、それを自分たちと異なる存在である小夜に負わせているだけなのだ、と最初は思った。ディーヴァが小夜の妹であると知るまでは。そしてジョエルの一族の手。断罪を我が身に引き受けて、ただ武器として生きることを決意した小夜。朗らかな少女の笑顔は既にそこには無く。小夜の瞳が紅く輝くことを初めて知った。人間ではなくなってしまったことへの恐怖。血への渇望。喉の渇き。そして飢餓感。内圧に膨らんでいく翼手の本性。あまりの解放感に眩暈めまいがするほどの。あの快楽と嫌悪。この手は血塗られている。小夜が思い描く以上に。アンシェルの作り出した翼手の、怪物じみた様相。アレが自分たちと同じものだとは。いや、自分たちがアレと同じものなのだとは・・・・。小夜の悲しみと絶望――。そして、あの約束。それを解く術のない自分。ただ共に歩むことだけがすべてだった。小夜と共に歩く幾百の夜と昼。小夜の美しい刀。小夜自身にも似て。翼手を切るたびに暗くなっていく眼差し。悲しい目で眠りに就く小夜。零れ落ちてゆく運命。寂寞と孤独感。空虚さ。すべてのものから切り離され。それなのに。あの約束。待つことの意味。石畳の上に響く靴音。遠くの営みの気配。眠りのない夜の言葉。わずかな視界の先に、朝日に浮かび上がる美しいあの塔の影。光。存在。なぜ自分なのか。なぜこの生命なのか。光の中、震えとともに落ちてくる理解。想いと運命と。満たされていく感情。たとえ希望など無いとしても。繰り返し繰り返し。目覚めるそのたびごとに。
――目覚めるたびに重くなっていく小夜の定め。焔の中に響く遠吠え。浮かび上がる異形。悲鳴。そして銃声。冬だと言うのに、ベトナムの夜は暑かった。焔の照り返しが目を射貫き。血と狂乱の夜。小夜の怒りと悲しみが、周囲すべてに混沌と破壊をもたらしていく。言葉が届かない。言葉が――。疼く右腕。あのときの絶望。誓いが、封印が、すべて破られる。あの瞬間、小夜の心の奥底にあった自分自身を含む全世界への怨嗟が少女の心を突き破り、表出したのだった。女王の怒りが騎士の同調を生む。恐怖。惧れ。共に歩むということがどういうことか。それだからこそ、解くことの出来ない運命。矛盾。当惑。後悔とも言いえない自分自身への絶望。そして小夜の目。真っ赤な、血塗られたような瞳。あの焔と暴走の夜は、二人の運命の意味を決定的にした。
   あのときの怖れは今はない。理性をまったく失った小夜の目を思い出すと、その痛々しい運命を見たようでただ胸が痛むだけだった。だがそれよりも強い想いがある。沖縄で再開したとき、記憶を無くした小夜の朗らかな笑顔。ベトナムの夜を通り越し。星が巡るように運命が廻り、信じられない笑顔がそこに在った。そして運命。闘いが彼女に戻ってくる。与えられたものと失ったもの。再び闘いに立ち上がる小夜の、美しい赤い瞳。その目が意志を宿して輝いている。ディーヴァとその一族に対面するとき、より一層輝きを増す小夜の目。幻惑されるほどの艶やかさ。その眼差しの中にある哀しみ。あか。その美しい紅。忘れることなどできない美しい紅い瞳。
   胸を打つほどのいとおしさで、青年はその瞳を想った。赤色の奥に在るやわらかな眼差しを。いつもいつもかたくななほどまっすぐで。悲しみに曇り、憎しみに沈んだとしても、前を向こうとしていた少女の、不器用でやさしいその瞳――。


   夜の時間をかけて、星がゆっくりと移動していく。青年の胸の中に静かな確信めいた想いが沸き上がってきた。たとえ今は少女が希望の光を見つけられなかったとしても、星の巡りというものが存在する。昔、二人だけの孤独な道程と思っていた世界に様々な人々がいた。時間の流れは異なっていても理解しあえるものがあった。沖縄の青い海。降り注ぐ強い日差しの中、小夜のあの笑顔。
   こうして闘いが終わってから30年の巡りが終わり、目覚めを迎えて少女はこの大地に生きて在る。約束を踏み越えて選び取ったものがそこにあった。不変のものなどこの世にはないのだ。
   頭を巡らせてみると、北の空にも輝く星々があった。青年の目がその一点に留まる。視界の真ん中にその星はあった。夜空には他に多くの星々があるというのに、その星だけは異なっていた。沖縄とは言え、冬の凍て付いた空に高々と上がっている灯火のような光。北極星。あの星を中心に星辰は巡っていく。青年は身体の向きを変えてその光を見つめた。取り立てて明るくはない。だが、その不動の一点を。


   今。宿命から解放され、サヤが戦う必要がなくなった今ならばはっきりわかることがあった。シュヴァリエだからではなく、彼女が必要としているからでも、彼自身が少女を必要としているということよりも深く。少年の頃から続く、存在の奥深くより湧き上がる想いがある。そこに在るだけで心を暖め、強くするもの。名付けられる前からその想いはそこに存在していた。唯一つの想い、終わることのない想い。変化していくこの世の中に、それだけは決して変わらないもの。
   一生に一度しか星の昇らぬ心もある。唯一つの恋しか知りえぬ心。青年の心がそれだった。夜の時間がかすかな波の音を立てて過ぎていっても、青年は飽きることなくその星を見つめ続けていた。たとえそこに彼女がいなくても、自分は彼女の存在を目指して、今この時と同じように、彼女の元へ向かうために歩き続けるのだろう。怖れも不安も絶望も、この道程の前に横たわっている一過点に過ぎない。心も、物事も、音を立てて過去へと流れ・・・・。そうして新しい未来がやってくる。絶望でもなく。希望でもなく。少女の新しい未来はまだ定かではない。
   だがここから新しい世界が始まっていく。


   青年は手を挙げて動かない星を見つめた。不動の星。夜の航海の導きの星。青年の目には今もなお、唯一つの星しか映らなかった。




――そうして私はあなたを愛し続ける。永遠にいつまでも愛し続ける。――





END



2010/02/10

 ハジ単体話。あるいはハジの決意宣言、とも言う。。。。
   以前、バレンタイン企画として『夜空』という小夜単体話を書きましたが、そのハジバージョン。実は同じ時に、ハジは・・・・。という話。
   『夜空』を書いた時点で、タイトルと内容=最後の一行だけは決まっていて、そのままずっと放置してたものです。
   私のサイト、小夜の単体話を書くときには、必ずと言っていいほど対になるハジの単体話が存在します。やっぱりこの二人は二人で一つの存在であるような面もあるから。。。ということで、何だかようやく2年越しの宿題を終えた気分です。。    バレンタインデー当日ちょっとだけ修正。。。

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