「ニューヨークに行ってみたい」
   そう少女が言ったのは、目覚めてしばらく経ってからのことだった。すべての闘いを終えたとき、それでもわずかなやさしさに目を開き生きたいと少女は願った少女は暖かな沖縄の大地で目覚めた後、もう一度終焉の地に立ち返りたいと望んだ。生きるために、そして妹の死を見つめなおすため、その生と死の意味を知るために。
   少女の痛みと共にその望みをもよくわかっていた青年は、黙って少女の願いに従った。




   ニューヨークの大地に降り立ったとき、その地には細かい雨が降っていた。しっとりと肌寒い気候の中、不安からなのか期待からか少女の手は細かく震えていた。
   目覚めて以来、今その地がどうなっているか少女は極力その話題を避けているようだった。向き合うことを恐れているのか、それとも実際その目で確かめることが重要だと考えているのか。ただ目の中の決意の色だけが深くなっていく。ニューヨークの記憶で小夜が覚えているのは大地にうがたれた大きな穴が最後だった。すべてのものが消滅して痛々しい大地が露出している場所となったメトロポリタンオペラハウスの周辺。腕の中の赤ん坊の重みと、胸の中の大きな空洞。集中してしまうと耐え難くなってしまう喪失の痛み。それがすべてだった。
   一瞬瞳を揺らめかすと、次の瞬間少女の目には意志の光が浮かび、唇を引き結んで一歩を踏み出す。ディーヴァの亡骸ごと呑み込んだその場所を再びその目に焼き付けるために。
   普通の人々と同じように、空港からトラムを利用してその後は徒歩で行くことを少女は望んだ。30年前と同様に様々な人種、様々な階層の人々。雑踏の中を歩きながら、誰も自分たちがあのテロと伝えられている惨劇の主要人物だとは想像できる者はいないだろうと考えて、その考えそのものにひどく後ろめたい気持ちを小夜は抱いた。
「小夜」
   時折道を示唆するハジの低い声が耳に心地よい。青年の声色は30年前と変わっていないはずなのに、あの時よりも深い響きを帯びているように聞こえる。それはきっと聞き間違いではないのだろう。30年は長い。その間の経験は人を変化させ、それはハジも例外ではない。変わらないのは自分だけ。眠りの間の意識と記憶をほとんど少女は持たなかった。その時間分だけ自分の方はハジを孤独(一人)にし、ハジの方は自分を置いて先に行く。外見は変わらなくても、何らかの変化があるのがその証拠だった。目覚めの目的を見失った少女は今初めてそのことに向き合い、畏怖と不安を共に抱く。おいていかれる心細さと取り残される恐怖。今まであえて感じてこなかったその感覚は少女をたじろがせる。
   けれども留まっているわけにはいかなかった。それよりも今。やらなくてはならないことが小夜にはある。




   トラムから降りて地上に昇ってみると、そこは記憶とはまったく異なった風景が広がっていた。建物は統一感のある造りになっており、棟の連なりが遠近感を微妙に調整させるようになっている。以前よりもやや広くなっている道路際にはいくつか流線型のモニュメントが一定の法則で並べられ、それが建物に溶け合って小夜の中に新鮮な感覚を引き起こした。そして通りの向こう側に広がっている一連の施設が、30年前にD弾頭の下に消え失せたニューヨークオペラハウスを初めとする公共施設群のはずだった。
「あれがそうです」
   しばらく歩いた後、ハジの落ち着いた声に促されて頭を上げてみると、幅広の道路の両側にそそり立つビルディングの間を抜けて、ぽっかりとそこだけ空が開けているように一段低く、公共施設群が立ち上がっている。オペラハウス、音楽院。その裏手にはセントラルパークが広がっているためか背景が灰色にけぶっており、白い建物が溶け込んでいるように少女の目には写った。
   以前とはまったく異なった様式に一瞬小夜は別の所に来てしまったような錯覚に陥った。30年前に消失した建物は、今や当時のデザインではなく、20年ほど前に流行していた建築理論とデザインに基づいて建てられていたのである。
「小夜・・・・」
   どれくらい呆然としていたのだろうか。
「大丈夫ですか?」
   ハジの声に我に返ると小夜は彼を振り返り、安心させるように微かに微笑んで見せた。どこか痛々しい微笑みは青年の胸の中に小さな波紋を立てて消える。
「ちょっと驚いただけだから。前と全然違うなって」
   だが少女の様子は以前よりもずっと落ち着いて見えた。すべてを受け入れようとしている者特有の目。その中に希望の光があるのかそれとも虚無が在るのか、読み取れないうちに少女は瞳を巡らせて目的の建物の方を向いてしまい、青年にはその表情からも背中からも感情を読み取ることはできなかった。それは少女にとってもどちらともいえないような感情だったのかもしれない。目覚めたばかりの少女はこの30年後の世界を受け止めかねて、ひどく迷っているように彼には見えた。
   年月と出来事の重みをずっしりと受け取ったまま小夜は促されるように足を踏み出した。新たなオペラハウスに近寄ってみると、新しい建物の一角に一つの大きな句碑が築かれ、四角い石版にびっしりと人の名前が刻まれている。それがD弾頭で犠牲になった人々の名簿だと知ったとき、少女の中にはその中の何人があの時ディーヴァの歌声によって翼手に変えられてしまった人々ものだろうかという疑問が湧き上がり、純粋に巻き込まれて犠牲になった人々の名前とともにその事実の重さに胸がふさがれた。
   ディーヴァと自分と。二人の翼手がこの世に現れてしまったことによって、最初はボルドーの惨劇が、その後次々とディーヴァの血液により人間を翼手にする研究が行われることによって、実験体、人間問わず、多くの犠牲者が出た。それだけではない。アンシェルは明言してはいなかったが、彼らが人間の戦争に目を向けることによって、回避できるはずの多くの血が流されたのだろう。ここに列なっている人々はそのうちのほんの一部なのだ。
   少女は石碑の前で、黙祷を捧げるかのようにしばらくの間、目をつぶって動かなかった。心の底から生きたい、と思ったあのときの感情は目の前に突きつけられる悲しみと怨嗟の記憶にすぐに揺らいでしまう。あの激しいほどの生への希求を、もう一度確認することは少女にとってどうしても必要なことだった。たとえその前提に自分たちが生まれてきたがゆえに大勢の無辜の命が潰えた事実を見せ付けられるとしても。その事実の上に立って自分の命があるということを確認するためにも。
「中に、入りますか?」
「うん・・・・」
   ハジの言葉にはさりげない気遣いが隠されている。押し付けがましくは無く、抑揚の乏しい声に乗せると、ほとんどそれとは気がつかないほど微かに。だが小夜にとっては空気のように自然に届けられるハジの心遣いが心地よかった。ハジの存在そのものが、小夜にとって何よりも心落ち着ける居場所のようなものだった。30年前までは当たり前のように思っていたその意味が、今は改めて意識される。
   夜の公演とのはざかいの時間帯で観光客が目立つ劇場は、ロビーまでは常時開放されており、その奥の方にはメモリアルホールへと続く扉があって、消失した以前のMET資料の展示場になっていた。
   入りますか、と尋ねる前から青年には少女がそこを素通りできないだろうとわかっていた。少女の足はほとんど周囲を見ることもせずにまっすぐ展示場に入っていった。そうして少女は意を決したかのように前を見つめる。だがどんな悲惨な事故の様子をも自分の起こした出来事として受け止めなくてはと思っていた少女の予想に反して、内部はほとんどがきらびやかな往時の様相をフィルムで再現したものだった。主要な催し物の紹介。設計者の豊富やら苦労話。国賓級の来賓の写真。以前のオペラハウスがニューヨーク市にとってどんな意義を持っていたのかという有識者の考察。もちろんテロへの悲劇の記事もあったが、メモリアルホールと銘打たれているだけあって、ほとんどが華やいだ記録の羅列だった。平面展示だけではなかった。所々立体映像が投射され、通り過ぎるだけで当時のホールの再現がなされる。少女は時間の向こうの思い出に目を細めた。
   あそこも、あちらも、30年前にひとつだけの想いを抱えて走り抜けて行った。どうしようもない哀しみと、運命に対する苦しさと。すべてが集約される一瞬。少女の中にディーヴァとの最後の闘いの記憶が甦ってきた。
――私たちはともに元いた世界へ戻る。すなわち滅びの世界へ。遠い昔。動物園が消えた時に、私は私たち翼手がこの世から消え失せてしまうことを選択した。私たちがこの世に生まれ出たことが間違いだったと。だから私は・・・・。私たちがいなかった世界をこの世に残すために――
   少女の長い百年に及ぶ闘いの結果。その世界がここにあった。ディーヴァがいなくなり、意図的に翼手を産み出す者がいなくなった世界は、静かに『翼手』という種族そのものを忘れ去ろうとしていた。ただ小夜たちとディーヴァの娘たちの四人を除いて。彼らは一様にひっそりと人間の世界にくるまれて生きることを選択した。こうして人間たちは翼手そのものを忘れ去っていくのかもしれない。そのことは少女にとって肩の荷を降ろしたような安心感を与えたが、同時に不安定な淋しさをも与えていた。ディーヴァと自分たちの歴史がこうやって時間の流れに薄れていくことが、自分の存在そのものをあやふやな虚像に変えていくような気がしたからかもしれない。あんなに望んでいたことだったのに。そんな自分の矛盾がおかしくて、少女はほんの少しだけ微笑を浮かべた。ハジの気遣わしげな気配が感じられる。
「大丈夫」
   小夜は青年に微笑んで見せてから、再び首を巡らせて展示室を眺めた。舞台設計、椅子の配置、壁の共鳴効果。そしてロイヤルボックス。30年前、ジョエルのボックスをここでの拠点として小夜たちはディーヴァを迎え撃つべく発った。あのときのジョエルの瞳、デヴィッドの抑えた温かい励まし。初めての『仲間』という言葉。人間と翼手と、この二つの間に立って常に苦渋を強いられてきた少女にとってその言葉は受け入れられた最後の喜びとなった。だから、終わることができる――。大切なものを守るために。そう思ってディーヴァを倒すために駆け出したのに。
   あの闘いは、ただディーヴァと二人滅びの世界へ行くためだけの道のはずだった。すべての苦しみも哀しみも自分たちが連れて行ってしまえばいいのだと思っていた。人間の穏やかな営みが守られればそれが自分の満足であり、自分の苦しみは死によってのみ終わることができるのだと。死を望むことしか許されない自分の運命。けれども他にどの道が許されていたんだろう。人間の間に在って、ただ混迷をもたらしていたディーヴァ。自ら混乱を引き起こすか、人間に利用されるか・・・・。翼手である小夜自身も生きていれば、人間の戦争の道具に利用されることになるだろう。そうなれば望んでいなくても少女の存在は混迷をもたらす。ディーヴァのように。そんなことは嫌だった。許せなかった、どうしても。
   だけどディーヴァの子供たちの、無邪気な笑いを見てしまったから。カイの言葉と、ハジの長い年月抱えていた想いを知ってしまったから。いつでもすべてを理解して受け入れてくれていたハジ。そのハジの吐き出すようなあの言葉。
――笑顔が欲しかったのです――
   すべてを引き換えにしてもいいと言ってくれた。今でもそんな価値が自分にあるとは思えない。でもあの時、すべての沈黙を脱ぎ捨てたようなハジの、翼手の拳の感触があんまりやさしかったから。カイの言葉に立ちすくんでいた私に、生きて欲しい、と語ったその声があんまり深くて強かったから。守るのでもなく庇うのでもなく、ハジの方から近づいて私に触れた。あのときのハジの深い目の色と、哀しみともいつくしみとも取れる表情を忘れない。ハジの静かなやさしい体温。決してそんな思いなど抱くまいとしてきたのに、促されるように心の奥底から噴きあがってきてしまった「生きたい」という感情。生のままの衝動に、自分自身圧倒されて――。
   あの奇跡のような一瞬が少女を今この世界に存在させている。本当にそれが正しかったのかどうか、まだ少女にはわからなかった。だが、あのときの皆の心を享けて自分はここにいるのだと・・・・。そのことだけはようやく胸に落ちるようになってきた。




   30年前の世界を見つめたまま、じっと動こうとしない少女の肩に青年がそっと手を触れさせた。不安定な視線のまま、少女は振り返って青年を見つめる。
「ハジ・・・・」
   その声はまるで過去から響く遠い潮騒のように感じられた。少女の目が赤みを帯びたままゆっくりと瞬きする。夢の世界から目覚めるように。
   その目が過去ではなく、今のこの世界を認めるように青年の方を見つめていた。
「30年、経ったんだね」
   重い言葉だったが、悲しみに沈みこんだ声ではなかった。幾重にも覆われた過去の薄幕から、少女はここに戻ってこようとしている。その少女の強さを青年は今はっきりと感じ取っていた。この世の間、人の間で幾たびも絶望に陥りながらも刀を手に何度でも立ち上がってきた少女。泣き虫で心柔らかい、この少女のこれが強さだった。
   過去は変えることができない。しかし未来ならば。これまでやってきたことではなくて、これから何が出来るのか。その可能性が、あの闘いが終わったときに、小夜が「生きたい」と望んだときに生まれた。まぶしくて、何も見えなくなるほどの可能性。あの時、手渡されたのはその可能性だったのだと。想いと言葉すべてをかけてハジが指し示してくれたのが、その可能性だったのではないかと小夜は思った。
   青白い立体映像の光が少女の白い頬に反射する。少女は潤んだ瞳で青年の透明な蒼い目を見つめた。感謝の言葉も、謝罪の言葉もこの場にはそぐわないような気がした。そうではない。もっと別なものを――。
   どこまでも包み込むようなハジの瞳を見つめながら、言葉にしたかった気持ちを引き止めるように抱き込むと、代わりに小夜の心の中にはある種の強さが生まれる。それまであった頑なな強さではなく、明日に向かおうとする強さ、未来を信じる強さだった。ジョエル、カイ、彼らが小夜に手渡してくれたもの。そして今もずっとハジが見返りを求めずに与え続けてくれるもの。生きることに必要なそれらを、受取ることの大切さを少女は理解し始めていた。
「もう。大丈夫・・・・」 不安定な笑顔を目の輝きで補い、小夜は微笑んで見せた。
「30年前と今は違うから。まだ、なんのために生きていけばいいのか、なんにもわからないけれど――」
   大きな目が少女の感情を映している。
「私、ここで。この世界で生きていってもいいんだよね?」
   青年が静かにうなずいた。少女はゆっくりと目をつぶり、それから開いた。見るべきものは見終った。これからはこの道の先へと歩いていかなくてはならない。そこに何があるのか、思い出以外の何を抱いて生きていけばいいのか、まるで裸になってしまったように心細くひんやりとした心許なさを感じる。どこに向かえばいいのか、思うように生きていくというのはどういうことなのか。それを考えるとひどく恐ろしい。しかしそれが明日へ向かって生きていく、少女にとってのひとつの対価だった。
   メモリアルホールを後にして新メトロポリタンオペラハウスを出ると、灰色の小雨交じりの空はいつの間にか晴れ。雲の切れ間に青空がのぞいていた。薄墨を溶かしたような空の向こう側に確かに真っ青な空がある。思わず立ち止まって振り仰いぎ、小夜は空を見つめた。少女の足に従って、青年もまたその場にとどまり、穏やかな目で少女を見つめる。
   すべての可能性を振り切り、自分の未来は滅びの世界だけと思い詰めて走り続けてきた。長い時間だった。でも。翼手にも、人間にも可能性はある。混迷をもたらすだけの存在でも、生きていれば何か意味が見つかるかもしれない。もう一度、歩いてみよう。30年前カイと二人で、心の底で明日との別れを決意して美しいと眺めたこの街を。今度は隣に佇むハジと一緒に。二人で、この人間たちの光景を、誰も知らない二人のままで心行くまで楽しんでみよう。何かがわかるまで。
「ねえ。ハジ」
   意識の外からこぼれるように少女は言った。
「朝焼けが見てみたい」
   自分の言葉の脈絡の無さに一瞬押し黙る。それからその言葉が自分の心の奥底から湧き上がってきたものなのだと気がついた。あの過去の最後に見た夕焼けの替わりに、今。ハジと共に見つめていたいもの。一日の始まりをのぞむ・・・。
「ねえ――」
   明日はきっと晴れるよね。




END



2009/10/29

 ぎりぎり10月にアップが間に合いました~~。
 『絶唱』の後日談ならぬ前日譚です。こうして前を向いて歩いていった先が、『絶唱』で語られる事件だったり。。。『絶唱』でも小夜を泣かせている私。
 小夜の人生は『BLOOD+』のお話のなかでも、こうやって希望と哀しみが交互に押し寄せている様な気がしてます。頑張ろうと思った矢先に、心砕かれることに遭遇したり。それが小夜の生まれ持っている巡り合わせのような・・・。
 でもきっと二人ならばそれらすべてを乗り越えて生きていけるのではないだろうか??? と思っていたり。
 最後の言葉は。。。。TVアニメシリーズで、ニューヨーク決戦前にカイと二人で街中デートしていたのを観ていて、どうしても同じようなシチュエーションをハジで!と思ってまして。ロープウェイの中で見た夕日が綺麗だったからこそ、今度30年後はその思い出の上に立って、ハジと一緒に一日の終わりを示す夕焼けではなく、明日を示す朝焼けを見て欲しくて半ば無理やり入れました。自分的には大変満足・・・(自己満足、とも言う・・・)
 どうもありがとうございました~~。。。

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