12.

   だがそのとき、苦痛をこらえていた男の身体がうずくまったかと思うと急に弾けるように大きくなった。細胞の急激な変化。拡大。そして縮小。変色していた人間の皮膚の下から硬い鱗のような翼手独特の外皮が現れる。みるみるうちにそれが硬い表皮に変化し、節々が太くなり腕のところで折れ曲がったと思うと翼手特有の二つの節になった。髪が後退して残りはほとんど固まりのように顔と一体化する。鼻がつぶれ、口が横一文字に引き裂かれ、歯茎がむき出されるとほとんど全ての歯が牙のように尖り切った。骨格の変化。口元と顎全体が前にせり出し、最早男の面影は見えなくなってしまった。その中で目だけが一瞬人間の知性のひらめきを宿していたが、徐々に高まる翼手の本能の内圧にその光は薄らいでいき、やがて本能の狂気を宿した、記憶の中の翼手そのものの姿になった。
   そうなってもまだ小夜は逡巡していた。戻る手段はどこにも無いとわかっているのに、今までそこにいた彼の存在の残滓を消し去りたくはなかった。ディーヴァからの第五塩基は小夜に対応するものであるというのに。翼手は小夜の匂いに惹かれる。それでも彼の思い出が少女を縛っていた。思い起こせば最初からとても親切な人だった。迷子に道を教えるように。子供におやつを与えるように。決しておざなりにせずに話を聴いてくれ、また聞かせてくれた。ディーヴァの『歌』を愛し、そのために人生を捧げディーヴァの『歌』をこの世に再現しようとした。夢を抱き締めるようにディーヴァの『歌』を想い、心の中に響かせ続けて。その終わりが翼手化なんて。
   目の前で翼手に変化している男の瞳が黄色になり、そしてまたそれが今度こそ赤く変化した。ついに完全な変態を遂げたのである。体内のディーヴァの塩基が命じるまま『翼手』が、対なる女王である小夜に向かって襲い掛かった。鋭い爪が少女に届く直前で頑丈な楽器のケースに阻まれる。青年が厳しい顔で翼手と対峙していた。
   次の瞬間、翼手となった男のすぐ前に少女が立ちはだかり、青年から翼手をかばった。
「お願い、やめて。ハジ」
   少女の真っ赤な瞳が苦悩に潤んでいた。だが翼手をかばった小夜の背中で、その当の翼手が少女に向かって、少女を求めて牙を剥き出しにする。唇が捲りあがり歯茎が現れた。鋭い犬歯が牙を鳴らし、唾液が口元から零れ落ちる。指と指とが大きく離れて鋭い鍵爪が錐のように長く伸びて少女に向かって伸ばされる。その瞬間、わずかな距離が青年の守護を妨げた。鋼鉄の槌のようなチェロケースが翼手の身体を砕くよりも、少女にその爪が届くのが早い。そして少女の手には武器がなかった。青年との対峙に完全に後ろへの注意が失われている。
「小夜!」
   華奢な身体を引き寄せるなりその身体を反転させて少女をかばったハジの肩がざっくりと裂け、小夜の頬に血が飛び散った。再生の能力は瞬く間に青年の身体を修復していく。
「大丈夫です」
   息を呑む少女の身体を再び背中でかばうようにして青年が言う。その右手がいつの間にか翼手の形を取っているのを少女は見た。
「やめて! ハジ」
「・・・・」
   ハジが自分の代わりにそれをしようとしているのがわかった。いつだってハジは苦しみに寄りそってくれる。だが今は30年前までとは違う。ディーヴァとの対峙は過去となり、そしてハジが負うべきはこんなものではない。それに・・・・。
「やるんだったら・・・・。やるなら、私が。私がやる・・・・」
   やるんだったらこの私の血で。もう自分ゆえにハジの手が血に染まるのを見たくはなかった。ディーヴァの歌で、ディーヴァの塩基で変化してしまった人間ならば、対の女王であるサヤの血がその滅びをもたらすことができる。首を切り落としたり、焔で焼くよりも、さらに速やかな死を。人間だった彼がどんな人だったか小夜にはわかっていた。少なくても自分には親切だった。やさしかった。何も知らないのに、同じように懐かしくあたたかな想いをディーヴァの歌に抱いてくれていた。それが小夜には人間である彼がディーヴァを、その本質を受け入れてくれたように思えたのだ。だがすでに「今の」彼にはそれらの記憶も無く、ただ翼手としての情動でのみ生きている。
   死の重みは降り積もっていく。もう百年も前から、それは変わらない。この身に流れるもの。それはハジにすら代わってもらえないもの。代わってもらってはいけないものだと小夜は知っていた。
   少女は近くに転がっていた日本刀を拾い上げた。抜き身の刃が手の平を切り裂いて、刃先を伝って地面に血が滴る。
「ごめんなさい・・・・」
   震える声で小夜はつぶやいた。こんな風に未だに巻き込むなんて。いつだって自分は誰かを救いたかったのに。震える心を押さえつけるように覚悟を決めて少女は刀の握りを構えた。翼手が奇怪な野獣の声を空に向かって吼え上げる。次の瞬間、自分に向かって走ってくるその身体を待って、腰を低くするとぎりぎりのタイミングでその懐に潜り込んで左斜め下から上に向かって刃を深く切り上げた。最小限の体力で確実に刃を身体に入れられる技。その華奢な身体からは想像できない能力を持つ小夜だからこそ振るえる一撃だった。翼手の硬い皮膚を切り裂き、肉を断つ手ごたえがした。同時に刃物の軌跡に従って小夜の血液に触れた部分から早くも組織の石化が始まっていく。翼手がむせび泣くように大きなえずきを上げ血を吐き出したま硬直した。体内の細胞から、その表皮まで、死の硬化は瞬く間に広がっていく。硝子が割れるような音が大きくなり、そして無数の亀裂が入り始めた。あっけない最期だった。こんな時代になってまで、自分の剣技は健在なのだと少女は苦い思いを噛み締めた。幾たび眠りを超えようとも、悲しみも絶望も、記憶は身体に蓄積される。
   少女が一歩退くと、壊れかけの大きな彫像となった身体がぐらりと傾き、音を立てて道路に倒れた。衝撃で右腕の付け根と右足首が砕け散る。やがて倒れた右側から崩壊が始まり、自らの重みで石化の身体は粉々に崩れて一つの固まりになってしまった。この百年の間、見続けてきた光景だった。強い風が早くもその残骸を少しずつ崩し始めている。
――風に乗っていけばいい、と小夜は思った。苦しみから解放されて、執着から解放されて、もしかすると風の中のディーヴァの歌と一つになれるかも知れない。悲しみが肺の中を熱く鷲掴みにしたまま喉元に逆上がり、眼窩にたまった。いつの間にか身体が小刻みに震え始めていた。ハジが静かに小夜の傍らに歩み寄ると、その強張った手からそっと刀を取り上げて音もなく鞘に収める。拵えがかすかな音を立てると共に少女の目から大粒の涙が零れ落ちた。嗚咽を漏らすこともできずに少女は息を詰まらせた。唇だけがわなないて、震えが押さえられない。ディーヴァとの闘いから解放されて、だがこの血の巡り合せは止まらない。
   視界が不意に暗くなったかと思うとハジの腕の中にいた。
「小夜」
   ハジの静かな声が思いがけないほど深い慰めを少女に運んできてくれた。同時に無言のままに促されて小夜はその胸に顔を埋め、声を立てずに肩を震わせた。涙がとめどなく流れ落ちて青年の黒い上着に吸いこまれる。この百年と今と。ディーヴァがいなくなっても少女の持つ宿業は変わらないのだろうか。
「結局私は」小夜は上着の中に声をくぐもらせながらつぶやいた。
「殺すことしかできない・・・・」
「それは違います」
   思わぬ青年の声の強さに少女は思わず顔を上げた。同時に青年の青い瞳の、その清冽な揺るぎ無さにはっとする。
「彼は解放を望んでいました」
「解放・・・・。でもそれは救ったことになるの?」
   その問い。それこそがディーヴァとの闘いを通じ、そして今また再び小夜の心のうちに去来する、決して結論の出ない問いかけだった。翼手を切り続けてきた日々。この自分の手は、形は異なれディーヴァと同様に死と破壊しかもたらさないのか。それならば自分の生の意味は一体何なのだろう。そんな生に意味があるのだろうか。
「それでも、小夜・・・・」
   再び深く抱きこみながら青年が少女にささやく。
「あなたは今。生きている。生きているのです」
   いつもの静かな、吐息に乗せるような言葉。だがその奥に込められているある種の激しさ、力強さを感じ取って、小夜は青年の胸の中で再び涙を流した。それは瞼の裏に熱く染み入るような涙だった。いつもいつもこの生のある限り、自分の宿命はついて回る。誰も自らの運命から逃れることはできないのだ。だがそれでも。ハジの腕の中の確かさは、ここに自分が生きていることを感じさせてくれた。
   あの30年前に心の底から感じた、生きてみたいという想い。それが変わったわけではない。苦しみと共に生きることが、生を選択した自分の定めならば、それでもあのときの選択は間違ってはいなかったと思いたい。喜びも悲しみも苦しみも、一緒くたにして今日を生きてみたい。生きることを、微笑み合えるその明日を心から願っている。あの選択が間違っていなかったという確信を、心の底から望んでいる。――その今だからこそ、この腕の、その声の静けさが慰めとなって少女に浸透していくのかもしれない。青年の背に回された少女の白い指先が、その上着をしっかりと握り締めた。
   生きていくことは勇気が必要だった。それでもこの世に大切な人たちがいる。この世界に受け入れてくれた人たちが。そして今、この手で触れられるところに自分をこの世に繋ぎとめる人がいる。その事実こそが少女にとっての生きている意義だった。
「ディーヴァ・・・・」
   小夜はつぶやくと青年の胸から顔を上げた。最後の涙が一滴、少女の頬を流れていく。その美しい一雫を青年は右手でぬぐった。濃紺の夜の光をついて、うっすらと東の空がオパール色に染め上げられ始めた。夜明けが間近に迫っているのだ。朝の一雫が夜の帳を掃いていく。




   そのとき、男が置き去っていった機材の一部が倉庫の片隅で小さな音を立てた。こんな所で彼が何をしようとしていたのか。いつの間にか再生機と音声機(スピーカー)と接続され繰り返し繰り返し、小さな音を流し続けていた。男自身が発するディーヴァの『歌』にかき消され、今の今まで気が付かなかった。それほどまでにそれはか細く、今にも途切れそうな弱々しい響きだった。彼の中のディーヴァの『歌』。最後まで彼は自分の記憶の中のディーヴァの『歌』を追いかけ続けたのだろうか。いつの間にか自分自身が本物のディーヴァの歌の発生源になっているのにも気がつかずに。
   少女は青年の腕の中から機材に歩み寄り、再び刃を引き抜いてその中央に突き刺した。再生機の真ん中、その中心の心臓部に。甲高い音がして機械が停止する。それから踵を返してハジの処へ戻ろうとした。その瞬間、何かが途切れる音がして、どういう訳か再び再生機が廻り出した。音楽が流れ出していく。
   小夜ははっとなった。それは今まで繰り返し流されていた、ディーヴァの歌を模したモノとはまったく異なった音色だった。音楽とも歌とも言えず、静かに繊細に響いていく一つの音。だがそれはディーヴァの歌が蠱惑の響きに隠してその奥底に密かに保ち続けていた響きに酷似していた。揺り動かすのではなく独り立ちすくみ、存在の純粋性を一人で固く纏っていたような。小夜にとっては懐かしい、思い出すことも忘れ果てていた遠い響き――。
   それはあの彼が採った、最後の音だった。自分自身の、翼手になりつつある不安と怖れのすべてを吐き出し、それをも自分のディーヴァの歌に組み込もうとして。小夜は最後にディーヴァの歌を貫いて響いていたその響きを思い出した。最後の最後で彼はこの音を録音していたのだ。人知れぬ、高い峰の間、縹渺と吹く風の中に立つ化石のような音。
   少女は唇を震わせた。
   記憶が甦ってくる。美しかったディーヴァの歌。降ってくる青い薔薇。サヤ・・・・と囁く、ディーヴァの繊細な声の響き。あのときの交流のやさしさは嘘ではなかった。たとえ間に百年の決別と血の闘争が横たわっていても。今流れている響きのようにディーヴァはその瞳の奥に、余人にはうかがい知れぬ孤独と純粋性と存在への不安を抱え込んでいた。ディーヴァの歌に魅せられた男は、そのディーヴァの本質をも本能的に再生しようとしていたのだろうか。小夜は目をつぶって音に聞き入った。
   遠い『動物園』の時代。小夜の訪れを待ちわび続けたディーヴァ。けれども造られた『動物園』の安寧の中で何も気がつかなかった少女が、その「友達」の心の中で何が次第に育っていったのか、どうして知ることができただろうか。その想いも、愛おしさも憎しみもすべて歌に昇華させてディーヴァは歌い紡ぎ、その『歌』は天を貫き、人を動かし、翼手の第五塩基たちを揺り動かし・・・・。




   やがて黄金の輝きがやわらかく差し染められ、少女の瞳を射た。夜明けだった。薔薇色が頭上一杯にひろがり、次に雲の切れ間から太陽の最初の矢が届く。
   その瞬間、青年の腕が少女をすくいあげ、その場から立ち去った。瞼の裏に白い光の筋を感じる。また新しい一日が始まろうとしているのだ。すべてを後ろに置いていきながら、それでも生きている限りは歩みを止めることができない。


   青年の腕の中で目をつぶったまま誰に言うでもなく少女はつぶやいた。
「あれはディーヴァ。ディーヴァの歌だった」










END



2009.09.04

  終わった!終わりました~~。長々と読んでくださいまして、ありがとうございました。いや、話的には5話くらいで終わるような大したことのない話だったはずなんですが。。。。なぜこんなに長くなったのだろうか。
   それともプロットと長さを図るのが苦手なんでしょうか。そのうちのもっと長い話を作るつもりで、その習作くらいの労力で書こうとしていたはずなんですが。。。おかしい。。
   でもとにかく終わりました。。毎週更新を決めてやっていきましたが、結構辛かった、定期更新。ともあれ、読んでくださいましてありがとうございました。最後の方、ちょっと蛇足かとも思ったのですが、またちょっとわかりにくいとも思ったのですが、私が話を創るときには最後のフレーズから創るので今更変更効かずに入れてしまいました。意味が明確に伝わらなかったのならば、私の力量不足によるものです。。。。すみません。
   ある意味辛かったですが、またある部分とても楽しかった。ありがとうございました~~。

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