11.

   翼手の匂いは確かにその向こう側、海へと向かう方向からしていた。だが不思議なことに今まで翼手の匂いが出現すると入れ替わりのように消え失せたディーヴァの歌が、いまだにこの空の下、空気を振動させている。目線でうなずき合うと少女が駆け、その後ろを青年が続いた。翼手の覚醒が完全になされたからなのか、あるいはさらに仲間を殖やそうとしているのか。ディーヴァの歌と翼手の匂いとは距離が近づくにつれ、ますます強くなってくる。今やディーヴァの歌の影響だけでなく、何かが起ころうとしているその予感に少女の皮膚の下がざらざらとした悪寒にざわめいていた。
   そのとき風の音を貫くようにそこにさらにもう一つの音が重なった。細く流れだしているその音は嘆きのこえにも獣の遠吠えのようにも聞こえ、それが響いているディーヴァの歌よりも一際抜きんだ美しさで共鳴を発していた。その声に促されるように少女は河沿いの倉庫が立ち並ぶ場所で一旦足を止めた。海風が強い。気配が満ちている。潮の香りと翼手の匂いと。大きく息を吸い込んで目をつぶる。そうすると感覚が一層研ぎ澄まされた。流れるように気配が空気を運んでくる。二拍ほどおいて、少女はある方向を向いて大きく目を見開いた。翼手の目だからこそわかる。河の縁に並んでいるいくつかの廃ビルのシャッターの一つがちょうど人一人がかがんで通れるほどの高さにこじ開けられていた。
「ハジ」
   青年がうなずくのを見て瞬時に少女はそこまで跳んだ。いつも小夜は最初に飛び出す。その小さな肩の細さを青年は目の隅にとどめてわずかに眉をひそめた。だが跳躍力で女王に勝るシュヴァリエは一歩早くその倉庫の前に飛び出していた。流れるような動作で青年がこじ開けられていたシャッターをさらに大きく引き上げる。同時に少女は刀の鞘を抜いた。
   暗い倉庫の中に、夜の光が差し込んだ。その奥に、光から身を隠すようにしてソレはいた。背中を向けてうずくまりながら、何かを庇うように持っている。まだ完全に変態しているわけではなく、変色が始まった人間の手足、そしてやや長い胴と不自然に長く伸びる曲がった四肢。
   手に持っていたものをその場に置いて、ソレはゆっくりとこちら側に向き直った。顔が見える。少し白いものが混じった短い髪。見開かれ黄変している瞳。すでに筋張り始めている顔の造作。
   にもかかわらず、少女にはそれが誰なのかわかった。
「あなたは・・・・」 驚きのあまり少女は目を見張り、唇をわななかせた。刀を持つ手が震える。
「そんな・・・・」
   それはあの男の顔だった。




   ディーヴァの歌が流れている。あの翼手の体内から。血の流れに乗って、細胞核の振動に乗って響き渡っている。美しく、呪わしく、懐かしいディーヴァの歌が。
   翼手は少女の方に振り返ると、暗がりから出てゆっくりと倉庫の中からこちらの方へやってきた。夜の波止場の倉庫街には薄暗い明りしか灯っていない。その白っぽい明りの中で、翼手はまぶしげに目を細めた。
「どうしたんだね・・・・?」
   そのとき、翼手が声を発した。彼の声で、あの父親にも似たやさしさで。
「なんでこんな時間にこんな所にいる? 女の子がこんな所に来るもんじゃない」
   いつかと同じような言葉をいつかと同じ声色で。言いながら片足を踏み出して、彼は膝を折った。翼手の身体が自分の身体感覚に合わずに困惑している。ひどく不思議そうにしながら彼は身体を起こして自分自身を見た。その長い手足と、指先と。そして長く尖った爪。
「これは・・・・?」
   彼は自分の手を見て、それから小夜の方を見た。少女の頬に伝う涙を。青年が少女の肩を支えながら、痛ましいものを見るような目でこちらを見つめている。なぜ二人ともそんなに遠くで自分を見ているのか――。
   理解と記憶は両方とも一拍遅れてやってきた。彼は自分の手にこびりついている血糊を見つめ、破れた衣服から覗いている自分のものとは思えない身体を見た。同時に浮かんでくるのは真紅の血の滴りとその甘美な味。引き裂かれた人間の断末魔の叫び。すべてが遠い夢のようにも、目を背けたくなるほど呪われた現実にも思える。快楽とおぞましさ。その狭間で荒波のように揺さぶられながら、彼は喉をのけぞらせて野獣の声を上げた。遠くの海に響く汽笛にも似たその叫び、既に人間のものでは無い声を。
「俺は・・・・」
   ディーヴァの歌は益々輝きに満ち溢れ、少女にも青年にも、そしてここにいる男自身。音源である男自身にもささやき呼びかけ、揺り動かそうと語りかけた。そこかしこにディーヴァの歌が響き渡っている。決して在ってはならない歌声が。小夜にはそれがわかった。
「な・・・・ぜ・・・・」その中で少女はむせび泣いていた。
「だって・・・・あなたの歌はディーヴァの歌ではない、はず・・・・でしょう? ディーヴァの歌はあなたの歌とは別のところから流れていて・・・・。それで翼手が発生していて・・・・」 その声色には混乱と深い絶望とが渾然となって滲み出ていた。
「あなたの『歌』では翼手になんてならないはずなのに――」
   なぜここに響いているのが彼の造った『歌』ではなくて、あのディーヴァの『歌』なのか。彼の中からなぜディーヴァの歌が聞こえてくるのか。彼の中の第五塩基はなぜ歌っているのか。
   だが混乱の極みにいる少女に向かって、戸惑っているはずの当の本人はむしろ穏やかに話しかけた。
「ああ・・・・。そうか・・・・。あんたは俺が何になってしまったのか、何が俺に起こっているのか、知っているんだな」
   少女が黙って首を振る。少女の手には刃物があった。自分を見つめる少女の姿。泣き濡れてはいても彼女が手にもっているそれが何を意味するのか、彼にはわかった。
「俺を・・・・殺しに来たのか・・・・」
「ちがう・・・・」
「隠さなくても、いい。俺は・・・・俺は化け物に・・・・なってしまったんだな」
「ちがう。化け物なんかじゃない。化け物なんかじゃないよ」
   少女の叫ぶような悲しげな声はむしろその事実を浮き彫りにした。その声に今まで黙って傍らに佇んでいた青年の方がはっとする。動物園のジョエルにしろ、沖縄の宮城ジョージにしろ、少女はいつも父親を失う定めにあった。
   だが少女の言葉は男に自分自身の行く末を納得させた。すでに最初から、自分のこの運命は定められていたのだろうか。『歌』に囚われ、そのために生きてきて。少女が必死な思いで首を横に振っている。
   不意に内側から大きな圧力を感じて男は自分の身体を抑えた。何かの衝動を抑えているように、その大きく変形した身体は小刻みに震えている。
「嘘を、つかなくても、いいんだよ」
   声が、出しにくくなり始めている。身体中がみしみしと音を立てているようだった。
「嘘じゃない。違うの」
「いいんだ、よ」
「違うの、聞いて。私、歌を――」
「歌?」
   彼の動きが止まった。そうだ、初めて出会ったとき、この娘は『歌』のことを訊いてきた。まだ完成もしていなかった、自分の部屋以外どこにも流れたことのなかったあの『歌』。自分の人生の歌。
「歌を聴いたの・・・・。だから」
   その時の少女の目は潤んだ美しい赤い色をしていた。
「だからあなたの所に来た。私にとって、私たちにとってあの『歌』は特別だったから」
――記憶の中の歌。人生の歌。未完成の歌。完成された歌。身体の中を巡る、この血が今、歌っている『あの歌』。
   少女の不思議な赤い瞳を見つめながら、彼はそれを奇異に思うことも恐れを抱くこともない自分を感じていた。出会ったときからその瞳の奥に何かを感じて惹き付けられていた。その正体が今やっとわかったような気がする。
「『歌』、か・・・・」
   結局自分の人生は歌に始まって歌に終わった。その最後を同じように歌を求め続けている少女の手で迎えることも面白いようで納得がいく。運命というのはこのようなことを言うのだろうか。
   少女の頬に涙が次々と溢れ出て、それが顎に伝わってほとほとと地面に落ちていた。
「そうか・・・・」
   この傷ついた目をした少女が自分を殺す定めを負い、だが殺したくなくて泣いている。自分を殺す相手だというのに、彼の心には少女に対する同情と憐みが浮かんだ。
「さあ・・・・。もういいんだ。苦しまないように・・・・、やってくれ」
「何を・・・・」
   言われている意味がわからないと言うように少女は首を振る。その手に握られているものが、日本刀だという知識は彼の中にもあった。撮影で使われるようなちゃちなまがい物とは異なって、よく切れそうに光っている。さぞ切れ味もいいだろう。
「俺を、化け物を・・・・殺しに、きたんだろう?」
   既に声がかすれ始めていた。稲妻が閃くように意識が時折途切れそうになる。身体の奥からの衝動が自分の精神を圧迫し始めていた。
「いいんだよ。あんたになら、やってもらっても。いいと思っている」
   少女の目から涙が後から後からこぼれてくる。男はそれを見て微笑んだ。赤い瞳から流れ落ちるそれは、とても美しいものとして彼の目には映った。それはただ純粋に綺麗だった。
「そんな・・・・。そんなのってないよ。だってディーヴァの歌を覚えていてくれただけじゃない。あの子の歌をもう一度聞きたかっただけじゃない」
   くず折れそうな膝を震わせて、少女は嗚咽を漏らした。記憶の中。頭の中に響いていたディーヴァの『歌』が、彼自身を変えてしまった。変えるほど『歌』を愛していたのか。彼が特異な体質だったのか。今や共鳴によって彼自身の体内そのものがディーヴァの『歌』の発生源であり振動機だった。小夜の腕からいつの間にか力が抜け、力を失くした少女の手から日本刀が滑り落ちていった。
   そのとき男が小さくうめいた。それまで小刻みに震えていた身体が、がくがくと大きく振動している。
「苦し・・・・いん・・・・だ。悪・・・・いが、頼む。早く・・・・。早くしてくれ。助けて、くれ。何かが、俺の魂ごとどこかへ持っていこうとして、いるんだよ。引っ張られ・・・・る・・・・・。俺は、抵抗できない・・・・。もうすぐ・・・・持ち堪えて、いられなくなる。もうすぐ・・・・。お願い・・・・だ。変わりたく・・・・ないんだ。早・・・・く」
   だが少女は取り落とした刀を拾うこともせず、首を振るばかりだった。すると彼は今度は青年のほうに視線を向けた。
「あんたに・・・・なら・・・・できるか?」
   青年の眉がひそめられる。
「ハジ。やめて」
「お願・・・・いだ。もう・・・・時間が、無い・・・・。もう・・・・。もうすぐ・・・・。早――く。たの――む」
   だが次の瞬間、男は大量に何か茶色い液体を吐き出してぐっとうめいた。その身体全体が波打つように痙攣する。思わず駆け寄ろうとした小夜の腕をハジが引きとめた。
「危険です」
   普段は乱れることのないその声が緊迫したものになっている。
「でも」
   だがそのとき、一声吼えるように叫んだ後、男の身体は大きく変化をし始めた。今まで男がまとっていた衣服が裂け、皮膚の色がさらに濃い褐色になっていく。胴体、それも胸部が長くなり、押された形で腹部が膨らんだ。足は曲がって鉤爪が伸びる。首と肩の付け根部分は太く変化して特殊な筋が発現していた。それでもまだ完全な翼手の変態は終わらず、這いずるような姿で男が、いや今まで男だったモノが顔を上げた。
   その中で男の顔の造形だけがほんのわずかに本人であることを留めている。小夜は息を呑んだ。
「早く・・・・。あんたの・・・・手で――」
   声帯の変化によってほとんど声がつぶれ、その言葉は聞き取りづらくなっていた。人間の声が奪われつつある。言葉が音にならずにうめき声になり、それが次第に翼手のうなり声に変わっていった。だがまだその瞳には人間の意識があることを示す苦悩と恐怖が映し出されている。苦痛をこらえるようにして男がこちら側に這い寄ろうとしていた。
「いや。いやだ。こんなのはいや」
   純粋にディーヴァの歌が好きだといってくれた。何十年も、ずっと憶えていてくれた。追いかけていてくれた。ディーヴァの思い出が、こんなに嬉しい事はなかったのに。それなのに。
   戻らなくなった身体を抱えて、男は少しでも小夜の方へ近付こうとあがくように手足を震わせていた。その痛々しい苦痛に満ちた様子に小夜は顔を伏せてハジにすがりついた。ハジが無言で抑えるように肩を支えてくれる。それから入れ替えるように小夜の前に出た。
「ハジ。駄目!」
   青年の意図を察して少女が叫ぶ。わかっている。こんなになってしまったら、もう元(人間)には戻れない。それならば、いっそ殺してやる方が親切なのだ。そうやって過去、数え切れないほど何人も、自分は切ってきたではないか。でも。
   ディーヴァの歌を知っていた。憶えていて、ずっと心に抱いてきてくれた人が、そのディーヴァの歌でこんなになってしまう事実。自分たちの存在の呪わしさはこうして異なる形を取り、未だに少女を苦しめる。あのときにした「生きる」という選択は正しかったのか。
   それは少女にとって存在の根本的な苦悩だった。ディーヴァと自分。二人の翼手がこの世に生まれてことによって、数多くの人々の人生が変わってしまった。未だにそれが続いている。この世に一旦生まれ出たことを取り消すできない。あの人はその厳然たる事実の犠牲者なのだ。ディーヴァの歌を理解した者さえも、そのディーヴァの歌によって、ディーヴァの血から作られたデルタ計画の残存物によって、こうして彼女が亡くなって30年経った今でさえ運命を狂わせていくなんて――。 それではディーヴァの対たるこの自分の存在は一体何なのだろうか。
   少女は唇をかみ締めて、空の手を握り締めた。










以下、続く。。。



2009.08.28

  微妙に一般的な二次創作とはズレタ話になっている様な気がする今日この頃。。。。。
   ですが自分の考えたストーリーの中であの二人がどういう風に動いてくれるのか、観てみたかったのです。。。
   いよいよラスト1話!来週には終了します!!! ありがとうございました~~!!!

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