10.

   そこはブロンクスの裏道だった。黒人街。どこかで音楽が聞こえていた。人生のエネルギッシュな部分と哀愁を帯びた部分が交錯する、喧騒と郷愁と怒りでぎとぎとした裏通り。少女は無意識に肩を引き寄せた。血の濃い匂いが漂ってきている。悲鳴は聞こえなかった。きっとクラクションの音や大音量の音楽にかき消されてしまったのだろう。薄暗い通りには消え入りそうな蛍光灯がじりじりと音を立てて点いたり消えたりしている。すぐ傍に匂いと気配を感じながらその源へと小夜は慎重に歩みを進めた。他の人々はまだ何かが起こっていることさえも気がついていない。それでいい。と少女は思った。翼手の存在は誰にも知られること無くあるべきなのだ。
   息をつめるような思いで慎重に小夜は足を進めた。翼手に、対の女王である彼女の匂いがなるべく届かないように、やんわりと青年が風下から近づくことを促す。そうすることによって漂っている血の匂いはますます強く鼻を刺した。本能と激情のせめぎ合いで喉がちりりと乾いている。一瞬だけ小夜は足を止めた。聞こえるか聞こえないかほどのかすかな物音がしている。規則正しく何かが動いているような。少女は眉をひそめた。何かを引っ掛けているような、打ちつけているようなそんな物音。全身の神経を張り詰めるようにして小夜はそちらの方へ向き直った。
   獣が獲物を安全なところへ運ぶように、薄暗い片隅にソレはいた。ソレの身体が動くたびにかつては人間のものだった、今は死体と成り果てている肉体がぐらぐらと動く。規則正しい物音だと聞こえたのは、ソレが獲物を咀嚼する音と、その振動で地面を叩いていた死んだ人間の身体の一部の音だった。狩りに慣れてきたとでも言うように、死体の形は綺麗だった。低い呻り声がソレの喉から洩れ出ている。喉笛をほとんど喰いちぎりながら、生き血をすすり、肉を喰らう異形のもの――翼手。まだ翼手としての変化は経過途中で留まり、人間だったときの衣服をほとんど身体にまとっており、それが醜く歪んだ翼手としての体型をグロテスクに際立たせていた。
   小夜は固く握り締めていた刀を抜き放った。白刃が蛍光灯の点滅に光をはじく。だが同時にその殺気に満ちた少女の気配を感じ取って翼手が振り向いた。口元を真っ赤に染め、その瞳を小夜のものと同じ真紅に染め。
「大丈夫」
   少女はつぶやいた。その手のひらが刃に触れ、女王の血が得物を変えていく。闘争が冷たい感情を少女に連れてくる。
「・・・・すぐに楽になるから」
   小夜は女王の赤い瞳で翼手の視線を受け止めた。だが、その少女の瞳を見つめたとたん、翼手の目の色が急に動揺を映し、突然元通りの黄色に戻った。同時にひどく狼狽したように辺りを見回す。翼手は少女と自分が殺した人間を交互に見比べて一歩下がった。かすかに首を左右に振る動作をしたような気がする。それからつい今の今まで貪り喰らっていた死体を、長い爪の伸びた手で引っかくように掴みあげると小夜に向かって投げつけた。まるで人間の動作のようだった。予想外の翼手の行動に彼女は身体を捻りながら飛んで来た遺体を避ける。
   その一瞬、少女が気をそらせた隙に翼手は逃げの一手を打った。だが小夜の傍らで呼吸を計っていた青年の方が一瞬早い。その手から短剣が放たれ、翼手が反射的に目の前でそれをなぎ払った瞬間。その場所へチェロケースが叩き込まれた。鋼鉄で補強されているケースは大きな音を立ててアスファルトにめり込んでから、ぐらりと傾きゆっくり倒れていった。ケースに入れ替わるようにして飛び込んできた小夜の刀が閃く。一線は鋭かったが女王の血に反応して向かってくると思っていた翼手は予想に反して後ずさり、その一歩だけ狙いがズレた。
   翼手の右手に薄く朱線が引かれる。だがそれだけだった。小夜の血は既にほとんど乾いていたのである。頑丈な翼手の皮膚組織の下にまで女王の血を届かせなければ翼手を死に至らしめることはできない。
   先ほど穿たれたハジのチェロケースの響きに気がついて、住人たちがざわめき始めていた。この翼手の姿を人に見られたらまずい。少女の視線が周囲の様子を探ろうとしたその一瞬の機。それを逃がさずに翼手の姿は宙に消え失せた。
「ああ」
   またしても逃してしまったことに小夜が悔恨の息を吐いたとき、青年の静かな声が響いた。
「小夜。急ぎましょう」
   自分たちも姿を見られることは避けなければならない。彼の声に従って、小夜は再び夜の街の中へ走り出した。




   夢と現の境目というものを男は覚えていなかった。このところずっと寝苦しい夜が続いていたためかどうも目覚めが悪く、逆に寝台に入っているときでさえ身体の中のどこかが常に起きているような奇妙な感覚が取れないのだ。
   だがその夜は深い眠り後に夢を見て、いつ目が覚めたのか覚えていないという奇妙な体験をした。気がつくと寝台の上に起き上がって髪を撫で付けている。男はほうっとため息をついてから眉間に皺を寄せた。何だか奇妙に身体中がべたべたしている。何かものが腐ったような悪臭が鼻をつく。夢の続きなのだろうか。嫌な夢だった。同時に彼は底なしの沼に落ち込んでいくような奇妙な恐怖を感じていた。目覚めたはずなのに悪夢の名残の徒労感が身体のあちこちに張り付いている。
   男は眉間に深い皺を刻みながら寝台から降りようとして、自分がまだ衣服を着たままであることに気がついた。時間の感覚がおかしくなっているのだろうか。けれども異様な違和感があった。湿っているような衣服。手足の強張り。顔にもなにやら張り付いているような気がしている。
   男は頭を強く振ると枕もとのスタンドのスイッチを入れた。そのとたん、信じられないものが目に飛び込んできた。
「なんだ、これは・・・・」
   一面の赤だった。いや、乾いた血のどす黒い赤色が男の周囲を満たしていた。男は血にまみれている自分の手をぎょっとしたように見つめた。次に自分の胸元を、身体を。どこもかしこも血まみれだった。部屋の中には彼が歩いてきたらしい道筋に従って血の痕が筋をつけて残っている。
「そんな馬鹿な・・・・」
   男はつぶやいた。同時に今見ていた夢の内容がこれ以上無いような形で鮮明に脳裡に甦ってくる。あれは単なる夢。夢のはずだった。衣服は着ている。身体もなんともない。自分は自分だ。しかし、この血。男は自分の両手を見つめた。手のひらを見て、裏返して手の甲を見て、さらに手のひらを見つめる。今は人間の手に戻っている男の手。だが浴びてしまった血糊は消えようがなかった。夢の中で、自分のこの手が醜い化け物の手に変わっていったのを憶えている。人間の皮と肉を一緒に引き裂くえも言われぬ感触の記憶も。そして吹き上がる血の甘い香りと喉を通る血。それが渇きを癒してくれるその快感。この衣服のごわつきは乾いてしまった人間の血潮なのだと、自分がその血を欲していたのだと奇妙なささやきが身体の中から響いてくる。
   この感覚は初めてではない――?
「馬鹿な」
   男は震える身体を引きずるようにして衣服のままシャワーを浴びた。思い切り温度を熱くして、そしてすぐに冷水にする。血糊が筋を描いて排水溝に流れていく。
「違う・・・・。違う。俺は違うんだ・・・・」
   何が自分に起こっているのか、不明の恐怖が男を苛み畏怖と疑念が胸を突き上げる。耳に残っている記憶は切り裂いた人間の恐怖の叫びだった。それがたまらなく心地よかったこととそれがもたらす満足感も覚えている。そうだ。あれを録音してやれば・・・・。そう思いついてから、そんなことを考えている自分に愕然とした。まさか、まさか・・・・。そう思いながらびしょびしょのまま這うように録音機能付きの携帯機のところまで行って震える指でスイッチを入れてみる。
   入っていたのは悲鳴だった。
   まるで悪夢だった。自分の知らない所でもう一人の自分が悪魔の所業を行っているのだ。物語の中のジギル博士とハイド氏のように。足元にぱっくりと大きな穴が開いていてこの自分を招いているように感じる。自分が自分でなくなってしまう。それは想像したこともない恐怖だった。自分の存在が裏返される恐れ。生まれてから今日まであった自分自身が消え失せてしまう予感。魂が、自分の意図しないところで弄ばれ、穢されて闇の中へ引きずり込まれるような底無しの不安。今まで彼に対して何も言わなかった現実が、いきなり牙をむいてくる。
   悲鳴と嘆きの声を求め続け、それを収集してきた自分。それらに対する同情も敬虔な感情も、『歌』を作り出したいと願う想いにかなわなかった。欲望が何か大切にしなくてはならないものに勝ってしまう。もしかすると人々の嘆きと絶望を心待ちにしていたのではないだろうか。いつの間にか人間の一番柔らかな精神の部分がおざなりになってしまっていた。こんなになってまであの『歌』の響きを求め続けた自分への、これが報いなのか。
   狂った果実。狂ったような時間。歪んだ目的。その果ての、破滅の足音。
「こんなものを取りたいんじゃない。造りたいんじゃない」
   しかし、心の奥底からあの歌にはこの悲鳴がぴったりと響くではないか、とささやく声がする。そしてそれに同意している自分も確かにそこには存在していた。
「違うんだ・・・・」
   思い余ってこぶしで机を打つと、思いがけない力に机がぐしゃりとひしゃげた。まるで紙細工でできているようだった。
「こんな・・・・」
   男は震えるこぶしをじっと見つめた。自分という存在の、何か決定的なものが変化している。あの『歌』。あの美しい歌が耳から離れない。今やあの『歌』はまったく別の存在感で男の中に存在していた。それまで記憶の中に留まっていたものが、今では自分の身体全体に広まって、細胞一つ一つ、血管一本一本に脈づいている。その歌は今や自分の内部を食い破って表に出ようとしていた。
「夢だ・・・・。これは夢なんだ」
   男はつぶやいた。彼は携帯端末をしっかり握り締めると、よろめく足で部屋の奥にある機材に歩み寄った。データの収まっているそれを、無理やり引き上げると何本も繋がっていたコードが抜けてその残骸が床に散らばった。彼は一抱えもある機材を腕に巻き込み、水に滲んだ血のついた衣服のままふらふらと部屋を後にする。切れ掛かった電灯の薄暗い通りに出てみると、月が皓々と光を放っていた。冷たいその光が男の中の何かを冷まし、何かをたぎらせていく。これが夢ではないのだという認識が頭の隅にこびりついていた。
「俺は・・・・」
   身体の中であの『歌』が轟いていた。血潮と共にそれは体内を廻り、歌を歌い、脈動と共に振動して男の意識を奪いそうになっていた。熱く渦巻くものが胸の奥にたまっていく。身体の奥からの衝動に従って男は咆哮を上げた。それは獣の叫びだった。腹の底からの叫び声は既に人間のものではない。自分が何に変わろうとしているのか。だが衝動の排出に、逆に男の中にはいくらかの正気が戻ってきた。はっとしたように周囲を見回すと、野獣の咆哮を聞きつけて周囲のアパルトマンの窓が開けられようとしている気配がする。その直前に男はその場を逃げ出していた。
   その遠吠えを遠くの方から聞き取った者たちがいた。少し前から少女はディーヴァの歌が再び流れ始めているのを感じていた。犠牲者が出た直後のこんなときに、再び流れていく歌に少女は愕然とする。だが二人には選択肢はなかった。ディーヴァの歌を追わねばならない。重なるように響いてきた咆哮がさらに小夜の焦りをあおった。それは悲鳴のようにも存在の誇示のようにも聞き取れる。
「呼んでいる・・・・」 少女は小さくつぶやいた。
「私に来いと言っている」
   少女は再び摩天楼の峰を駆けた。月が天上近くに昇っている。地上の青白い光と天上の白い光と。少女は二つの光の中間にいて、そのどちらにも憩うことを許されない。ただ翼手を、自分を呼ぶディーヴァの歌の響きを追って、小夜はひたすらに急いだ。
   声は南下していた。セントラルパークを通り過ぎ、繁華街を素通りして、南の海岸べりへと向かっている。まっすぐに『歌』と匂いを辿っている少女が、あの男のアパルトマンを通り過ぎたときはっとなった。周囲の様子からは人間が襲われたようすも犠牲者の血の匂いもせず小夜はほっとしたが、一瞬彼の様子を見に行きたいと焼け付くように思った。
「小夜」
   低い声で青年がうながす。今は一刻を争うのだ。男に起こっていることも知らずに小夜はただその無事な眠りを瞬間的に願った。その場所に翼手の匂いが一瞬濃く漂っていることにも気がつかずに。










以下、続く。。。



2009.08.21

  ここまでくると、もうどういうラストか手の内を見せているようなものです。。。。
   と言いますか。。。この話以降のラスト3話は元々が一つの回で終わらせるつもりだったのですが、流石にラスト。長くなりました。。。で、3回にちょん切った訳です。
   もう少し、人間が人間以外になっていく怖さも書きたいと思ったのですが、この話は「小夜の話」ですので割愛~~。それにしてもヌルイ表現でごめんなさい。バランスを考えてこうなってしまいました。。すみません。。。。

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