9.

   眠りの無い月の夜。小夜は建物の屋上からじっとマンハッタンのビル群を眺めていた。青白い照明の夜に物音に耳を澄ませる。強い風の音の中に聞こえてくる声をじっと待っている。その傍らでは黒衣の青年が上着の裾を風になびかせ、不動の姿で佇んでいた。
   今夜、歌が聞こえてくるという保証も、翼手が現れると言う保証も無い。けれどもこの街のどこかに何かが潜んでいることは確かだった。ひっそりと少女の瞳に赤の色がにじみ始める。匂いと、音と、気配と。同じ翼手であればこそ感覚すべてに行き渡る。
「小夜」
   青年の押し殺したような声が聞こえたとき、小夜にもそれは聴こえていた。
「歌が・・・・」
   歌が流れ始めている。あの男の作ったものとは異なったその『歌』。正確なディーヴァの『歌』。第五塩基の囁き。今度こそ突き止めなくてはならない。犠牲者が出ないことを祈りながら、少女は青年と共に摩天楼の青白い夜に跳んだ。人工の光が星々の輝きを追いやるこの世界都市の中で、高所の風の音を貫いて常人には聞こえぬ魔性の歌が響いていく。ビルの峰々を越えながら、足元にいくつもの千尋の谷を抜け、壁に振動して溶け込んでいる歌を小夜は追った。薄い星々が背に流れ、喧騒と風とが耳元を穿つ夜だった。立ち昇るように美しい声があの旋律を紡ぎだし、世界の中で不可視の枠を揺るがせていく。人間から翼手へ。その歌は誘いの歌であり、混乱の呪歌まがうたでもあった。響く歌声を求めて摩天楼の間を駆け抜けながら、時折足を止めては方向を確かめ合う。風がたびたび方角を惑わしたが、感覚と振動とが二人を導いた。
   焦りは足元に置き去りにされ、目的が前方を照らす。歌に導かれていくうちに、徐々に二人は自分たちがどこに向かっているのかを悟り始めた。最終ハーレムに程近い、大通りから二,三ブロックほども離れた場所。小さなスタジオや、工場などが点在している地区だった。一つのビルを目的に、壁を伝って器用に建物の上から降り立つと、少女の身体は既に全身神経のようになっている。響き渡る歌が、次第にヒステリックに変化を初め、同時に翼手の気配が漂い始めていた。少女は足を止めて目をつぶった。どこかで夕食の気配がする。人間たちの営みの物音。失って初めてわかる宝物のような日々の営みの気配がそこにはあった。その平凡な日常のヒトコマに乱入しようとしているモノ。日常に潜んでいる異形の気配。呼吸を整え、感覚を拡大させ・・・・。
「来る」
   少女は目を見開いた。歌が不意に途切れ。そのとたんに入れ替わるように気配が膨張した。人体の変形、思考の転位、感覚の拡散。翼手――。どこかで鋭い悲鳴が聞こえる。今度は近かった。反射的に少女は駆け出していた。助けられるかもしれない。二度、三度、その悲鳴は重ねるように上げられる。小夜の全身が翼手の気配を敏感に察知していた。血の匂いはまだしていない。
「ハジ!」
   うなずいて青年が少しだけ速度を速める。やや遅れて小夜が追いついたとき、古い建物の壊れた看板が道を半ば塞いでいる場所で。太った女が腰を抜かして地面を這いずっていた。庇うように青年がその斜め前に立ちはだかっている。すぐ傍には食料品の紙袋が投げ出され、そして女が逃げ出そうとしている対象がその正面にいた。
   醜く突き出された顎。異様に捻じ曲がった手足。腹が突き出ている体躯にはわずかに尾のようなものが見える。30年前によく見た姿だった。
――翼手――
「逃げて!」
   小夜は女の前に立ちはだかりながら刀を抜き放った。獲物を横取りされていらついたように翼手が咆哮する。その黄色っぽい目が小夜を見たとたんに赤色に染まったのを少女は確認した。取り出した刃の先に自分の血を落とし込む。30年前までやっていたのと同じように。
   だが小夜が刀を向けその刃を振るおうとした時、再び翼手の瞳の色が黄色く変化した。そのままじりじりと下がりながらその翼手は少女から逃げようとする。まるで少女の姿におびえたようだった。身体の中のディーヴァの塩基は磁石のように対なる女王である小夜に引き寄せられるはずなのに。今までに無いその反応に小夜の方も戸惑った。そして悲鳴を聞きつけた人間たちがこちらへやってこようとする気配を彼女が感じて視線を巡らせた瞬間、翼手の気配は消え失せた。先ほどまで確かに探知できた気配が欠片もない。前回と同様翼手そのものがいなくなってしまったようだった。
   少女は息を詰めて左右を見回した。どこにも何も無い。痕跡すらも。
「どういう・・・・」
「小夜」
   青年が促す言葉に少女ははっとして急いで踵を返した。いつの間にか助けた女性もいなくなってしまった。路地裏とは言え他人に姿を見られることは避けなければならない。大通りへの道を辿りながら少女はつぶやいた。
「なぜ私を狙ってこないの?」
   少女の声は細く頼りなかった。ディーヴァの塩基による変異ならば、対の女王である小夜の匂いに反応するはずなのだ。だが今回の翼手は小夜の匂いに反応しているというよりも、ただ気まぐれに出現しているとしか思えない。
「おそらくまだ翼手化されたばかりなのか、完全ではないのか・・・・」
「戻れる可能性は・・・・・」
「わかりません」
   だが人間を引き裂けるほど進んでしまった第五塩基には恐らく小夜の血清でも難しいだろう。気休めならばない方がいい、と小夜は思った。その結論がもたらす結果を痛いほど感じながら。
「切らなくちゃいけないんだね。今度こそ」
   暗い夜に少女の言葉は重く響いた。




   行動範囲というものは2点だけでは掴みきれない。だがもう一箇所出現を確認すればある程度の行動範囲の予測度が高まる。先日は犠牲者が出なかったものの、翼手を逃がしたことには変わりなく、そのあいだずっと小夜は神経を張り詰めたままだった。それは30年前の少女を髣髴とさせ、こんなになってもみずからの宿業から逃れられない少女の定めを思い、青年は瞳を暗くさせた。
   小夜はほとんど眠らずに摩天楼の街を見つめていた。身体のどこかの神経が目覚めている。最初の犠牲者はまだ本人の戸惑いがあった。次のときには小夜たちが駆けつけてきたために未遂に終わった。翼手は餓えている、というのが青年の意見だった。次は必ず近いうち、生き血を求めて三度動く。見つけ出すまで決して気の抜けない状況が続いていた。翼手の吸血への欲求の強さはその身をもって知っている。
   無意識にこくりと小さく少女の喉が動いた。その気配を察して傍らの青年が身じろぐ。
「まだ。大丈夫」
   一瞬早く小夜は言った。同時に『まだ』という言葉に自分が血を、それも一番必要とするのがこの青年の血液であることに思い至り、冷たいさざなみが胸の中をわたっていく。だが吸血の衝動が大きいことも事実なのだ。『動物園』から出たときから血の宿業は小夜とともにあり、百年の闘争の間、小夜はディーヴァを倒すためという言い訳と共に受け入れてきた。しかしディーヴァをこの手で屠ったとき、その言い訳は小夜の中で意味を失い宙に浮いた状態になってしまった。あのときの自分は生きるという選択をなした。それはこの吸血の衝動をも受け入れるということでもあったはずなのに。
   小夜は息を吐いて刀を固く握り締めた。少女の手が白くなっていく。睡眠を削っている代償のように吸血の欲求は前回よりも大きかった。血。喉と身体を潤す甘美な液体。吸血のときにのみ長く伸びる牙。喉が。渇いている・・・・。前触れも無く血管の浮き出る白い首筋が眼裏に浮かんだ。幾度と無く唇を寄せ、その肌を噛み破いて血を飲み干してきたその場所。慣れ親しんだやさしい匂いに包まれて、そこに牙を打ち溢れる甘美な液体をこの唇に受け。少女は青年の首元を見つめそうになる自分を噛み殺すように退けた。吸血。そうしなければ生きていかれない種族。翼手。『赤い盾』の庇護下にあるときには、それでも少女は一番抵抗のない形で血液を体内に取り込んでいた。しかし今、小夜のことを知る者のいないこの土地ではそうすることが難しい。こんな風に彼に負担をかけたくないというのに。
   青年がなるべく『赤い盾』に依存しない道を選ぼうとしていることを小夜もうっすらと感じ取っていた。今はまだ安心していられる。現在の『赤い盾』は6代目ジョエルが実験を握っている。30年前のデヴィッドとルイスもまだ存命であり、何よりも沖縄にはカイがいる。しかし、自分たちの生命に比べて彼らの寿命はあまりに短い。人間は変化していく。そして次代、その次の代。小夜の苦悩を知らない世代が出現したときの保証はどこにもなかった。そして自分たちの生態。人間の生き血が絶対的な食糧となる。人間とは離れて生きてはいけない種族。しかし人間の方は・・・・。だからこそ青年は自分の血で小夜を補おうとする。
「小夜・・・・」
   いつの間にか青年が少女の傍らにひざまずき、気遣わしげにその顔を覗き込んでいた。たった今、その首筋が脳裡によぎったばかりだというのに。罪悪感に似た感情が少女の視線を斜めに逃がす。
「大丈夫。・・・・大丈夫だから・・・・」
   青年が黙ったまま少女の手を取った。冷たい手。その冷たさに胸が締め付けられた。時折不意に青年の翼手としての存在を思い知らされ胸を衝かれることがある。お互いに決して望んだわけではなく、それでもその運命を己がものと受け入れ、後悔したことはないと語ってくれる青年。その想いに胸が痛くなる。
   そのとき、やわらかく握りこんだその細い指先に青年が唇を触れさせた。体温のない、だがやさしい唇の感触。思いがけないその感触に少女は目を見開いた。冷たい体温だった。だが触れている指先から、唇の感触から、ハジの深い想いが伝わってくる。いつの日も変わらないその想い。そこから注がれるやさしさといつくしみとは、少女の中にあった苦しみの感情をやわらかくほどいていった。
   先ほどは凍りつきそうに冷たくなっていた胸の奥に、温かな想いが湧き上がってきた。
「ありがとう」
   吐息のような少女のささやき。ディーヴァの歌とはまったく別に。いつもいつも押しては返す波のように、打ち寄せてくるやさしい響きがある。少女の瞳がやわらかくうるんだ。それだから、生きていかれる。
   だがそのとき二人ともはっと身を硬くした。自分たちの体内で感知されるもう一つの響き。『歌』。遠くであの『歌』が流れ出している。力強く、呼びかけるような歌声。すべての第五塩基に語りかけるあの・・・・。ディーヴァの、目覚めの歌。そうして歌が第五塩基を目覚めさせようとしている。『歌』あるところに翼手あり。とうとう三度目が始まろうとしていた。
   目線を合わせると瞬時に青年と少女の姿が消え失せる。風の名残が夜に舞った。




   皮膚の下からむず痒いような感覚が競り上がってくる。小夜は焦っていた。翼手の出現の刻が迫っている。予感めいた確信が身体を突き動かしていた。あの歌を追っていかなくては。
――ディーヴァの歌を・・・・。――
   瞳を青く輝かせ、血と嘆きの声に恍惚となりながら、ディーヴァはこの世界に君臨する。ディーヴァ自身の本当の心の内とは別に、それが翼手としてのディーヴァの意味であり存在であった。人間の存在を自分の存在の基盤とした小夜とはまったく反対の存在。それが翼手という存在の二面性をあらわしているのかもしれない。遠い百年。追いかけずにはいられなかった。そして今また、ディーヴァの歌を追いかけている。ディーヴァを追っているのか、それとも『歌』を追っているのか、いつしか小夜はわからなくなるような錯覚に陥っていた。青い常夜の摩天楼の空の下を、あの日々が夢なのか、今このときが夢なのか。ディーヴァの一族を狩り続けてきた百年の夜。憔悴と哀しみと慟哭と。
   だが水を入れた器から液体がこぼれるように、予感が膨張して現実に折り重なる。女王の歌の呪われた響きに導かれて一つのモノが存在を現そうとしていた。人間から翼手へ。第五塩基が歌を歌い始める。小夜は片手で頭を抱えてその感覚にうめいた。
「小夜!」
「ハジ・・・・・。翼手が・・・・」
   息が詰まるようだった。そしてその切迫した感覚が肌を刺すように高まった時、あのときの翼手の匂いが突然出現した。小夜には翼手の上げる咆哮が聴こえてくるようだった。存在の変化。活性化した第五塩基。人間を捕食するモノ。そして。一拍遅れてどこかで血の匂いを感じる。小夜ははっとなった。
   翼手は餓えている――。その瞬間。今まで濃い鳶色だった少女の瞳が真紅に染まった。ディーヴァの歌が導くものは、死と絶望の響きのみ。すべての禁忌が破られて、ついに再び翼手の犠牲者が出たのだ。少女は焦りと悔悟に胸をかき乱され、左手に愛刀を握り締めながら青白い夜の街をただひたすらに急いだ。
   翼手の身体能力は人間を遥かに凌駕する。人間の時間感覚から言えばほんの数分だったかもしれない。マンハッタン島の南東部から少女と青年は闇の中を貫いてまっすぐに翼手の気配へと向かって移動して行った。ビルからビルへ。屋上をほとんど人間の目には見えない速度で移動する。人間の建物など二人にとっては大した障害物にはならなかった。感覚を研ぎ澄ませ、匂いと振動を辿りながら屋上伝いに北上していく。目指すところがわかった時点でわずかに青年と視線を合わせた後、最後に建物の上から壁を使って速度を殺しながらアスファルトの地面に降り立って、少女は身構えた。









以下、続く。。。



2009.08.14

  今回は走りのシーンが書けて幸せでした。。。
   繊細なものよりも、こういうシーンの方がもしかして好きなのかも。です。今回が終われば怒涛の最終話3部。(つまり残り3話です)一気に・・・・、というわけにも行きませんが、毎週更新を頑張って続けていこうと思ってます。よろしくお願いいたします...

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