7.

   いつものように淡々と仕事をこなし、味気ない夕食を買って帰路につくと、男はアパルトマンのすぐ前で一瞬歩調を緩めた。またあの少女が来ていないかどうか、どうにも気になって探してしまう。約束の日になったにもかかわらず少女の訪れはなく、それをさびしいと思う自分を彼は他人事のように驚きながら見つめていた。親子以上に歳の離れた少女。大きな潤んだ瞳。時折射す笑顔の晴れ晴れとした鮮やかさ。それは恋愛感情ではなく、家族というものでもなく、非常に近い他人のような感覚あるいは遠い親戚のような感情だった。ともすれば、長年心を捉え続けたあの『歌』と歌の少女のこともおざなりになりそうになる。きっと長い時間自分はあの歌に囚われ過ぎたのかも知れない。と彼は思った。だからあの生身の少女のどこかさみしげな、しかし生きて悩んで笑っている姿がこんなにも好ましいものとして感じられるのだろう。同じような歌を探しているというのも共感できることだった。そう言えばさみしいという感覚を長いこと自分は感じてこなかったのだと彼は思って、頭を振りながら自分の部屋へと入っていった。




   男が帰る姿を反対側のビルの屋上から眺めながら小夜はため息をついた。最初から関わりのある人のような気がしていた。その予感が外れることを願ってもいた小夜だったが、彼が関わっていることに対して納得もいっている。少女の覚悟は決まっていた。最初に偶然出会ったとき、彼の近くで流れていたディーヴァの歌がまだ焼きつくように頭の中に残っている。
「直接会って話をしなくて良いのですか?」
   多分あの人は話をすればわかってくれるだろう。少なくても理解しようとしてくれる。
「でも、どんな顔をして会えばいい? 直接会えば私、きっと・・・・」
   自分の中に憤りにも似たディーヴァの歌への感情があるのを小夜は自覚していた。その感情が彼に向くのが怖かった。
「あの人の持っている歌を、破壊してしまえばいいんだよね」 確認するように言う。
「マスターを破壊してしまえば、翼手化する被害者はいなくなる」
「理論上はそうです」
   あの大きな機材の中にディーヴァの歌を形作ろうとしているのならば、機材ごと破壊してしまえばいい。だが頭でわかっていることを実行に移すのがためらわれる。これも自分の心の弱さなのだ、と小夜は思った。
   30年前、デルタ計画の種子がまかれてしまってから、ディーヴァの歌は決してこの世に現れてはならないものになってしまった。呪われた歌は封印しなくてはならない。しかし小夜は心の奥底で感じていた。本当はディーヴァの歌を覚えてくれた人がいたことが嬉しいのだ。その彼がディーヴァの歌をもう一度この世に生み出そうとしている。その心を踏みにじることに心が痛む。いいや、本当はディーヴァそのものであるようなあの歌を再びこの手で滅することがつらいのだ。妹を屠ったその手の感触さえまだ生々しく憶えているというのに。
   再びハジから受け取った刀を小夜は固く握り締めた。
「やっぱり私の手はチェロよりもこれを求めるんだね」
「小夜・・・・」
「私は大丈夫」 少女はまっすぐに前を見つめた。
「明日。あの人が出て行ったらやろう」
   今度こそ迷いのない目をして少女はそう言った。そして本来ならばそこで終わるはずだった。けれども物事は少女の予想を裏切っていたのである。




   真鍮のように黄色い朝の光が、昼間の白い光に取って代わられ、存在すべてが昼の力強さに満ち始める。男が仕事に出て行くのを向かい側のビルの上から確認した少女と青年は、音も無く人気のない路地に飛び降りて男のアパルトマンに近づいた。人々はいつもと変わらず活気に満ちた生活のリズムを刻み始めていたが、翼手である小夜たちにとって人間の目にほとんど留まらずに移動することは雑作も無い。目立たない足取りでアパルトマンの玄関を入った後、小夜たちは階段を昇って何度か訪れたことのある部屋をめざした。ペンキで暗い緑色に塗られた木製の大きなドアに近づいて、青年が勢いよく鍵のかかった扉を押すと翼手の力に難なくドアは鍵ごと壊れてしまった。物取りに見せかけるためにわざとらしく部屋の中を散らかして、引き出しという引き出しをこじ開けながら部屋の半ばを占領している機材を見つめる。この部屋の主のようにどっしりと腰を落ち着けている鈍い金属の凹凸を観ていると、男が如何にこの機材を大切に扱っているかが良くわかった。この中に何十年分もの彼の努力とその想いが詰まっている。それを知っていながらどうしようもなかった。
「ごめんなさい」
   それでも翼手が発生してしまう方がずっと罪深い。少女は刀に手をかけた。青年と二人で決めてきたのだ。せめて少女の手で。そうすることによってきっと自分の中の弱々しい想いと決別できる。
   だが少女がその刃を抜き放ったそのとき、その耳に異様な音が飛び込んでいた。身体の奥底から揺さぶられるような響き。昼間の光を貫いて濁った夢の向こう側へと導く声なき声。今壊そうと思った機材に内包されている『歌』とは全く次元の異なった・・・・。
「ディーヴァ・・・・」
   思わず刀を取り落としそうになった。胸の底に溜まった衝撃が息を詰まらせる。
「そんな・・・・」
   言葉が出てこない。その歌がこの機材からではない、外の、別の場所から聞こえていることの意味に小夜は身体が固く凍りつきそうになった。
「小夜」
   よろけそうになる少女の身体は切羽詰ったような青年の声に踏みとどまる。鋭い視線が絡み合い、うなずく暇も無く二人の姿はその場から掻き消えた。そのまま屋外へと走り出す。
「どうして・・・・」
   刀を握り締めたまま、少女は憔悴したように辺りを見回した。あれではなかった。あの聞こえていた歌は、彼が造っていたものではなかったのだ。見張っていたようで自分たちは実は見当違いをしていたというのだ。自分たちが彼を見張っていた間に歌は益々世に放たれて・・・・。
「じゃあ、あの歌はどこから――」
   疑問が小夜が彼に出会ったとき、確かに彼から歌が聞こえてきたような気がしていたのに。小夜は混乱していた。ではあの機材を壊そうとしたのは間違いだったのだ。彼の想いを壊すこと。ディーヴァの歌を破壊すること。やらなくて良かったことに心の奥では真の自分がほっとしている。だが一方で小夜にはわかっていた。一刻も早く、今聴こえている『歌』の主を突き止めなくては。
   そのとき並んで走っていると思ったハジが急に跳躍した。女王である小夜よりも遥かに身体能力に勝るシュヴァリエは、少女よりも風を掴める方向へ跳んだのだ。後を追おうとして一瞬足を止めた少女の下へ、一拍おいて次の瞬間彼は飛び降りた。青年が冷たいほどの強い瞳で小夜と視線を絡ませた。迷いの無いその目を見たときに、少女は彼が正確に場所を把握したことを知った。かすかにうなずく間も惜しく、小夜はハジと並んで駆け出した。尖塔のようなビルの間を文字通り跳んでいく。本来昼間は目立つ事を避けなくてはならないはずだったが、今は『歌』の主を見つけるのが先決だった。その『歌』がどのように流れ出しているのか、誰が流しているのか、意図してなのか、偶然なのか。まずはどこから流れてくるのか発生元を見つけておかなくては対処のしようがない。翼手化される者が出ることだけはどんなことがあっても避けなくてはならなかった。自分たちだけではない、ディーヴァの忘れ形見である双生児たちにも関わる、これは少女の義務であり責任でもある。小夜は急いだ。
   歌声は流れ続けている。恐らく人間の耳には聞こえないはずの音域で、けれども翼手にとってはこの上もなく魅惑的な響きで、夜虫における誘蛾灯のように呼びかけている。本能の覚醒。第五塩基の響き。狂騒と混乱。人間と翼手。その均衡を揺るがせる女王の歌。
「ディーヴァ・・・・」
   そのとき、それまでゆるやかな流れのように空気を震わせていた『歌』が突然ヒステリックな響きを帯び始めた。旋律はそのままに何かが変化している。同時に小夜には感じられた。都会の雑多な空気が別の何かを運んでくる。あるはずのないもの、人間以外の異形のもの。翼手の匂い。汗の匂いのように最初はうっすらと感じ取られるだけだったそれが、急にしっかりと主張し始め、さらにははっきりとした存在に変化した。ついにどこかで翼手が発生したのだ。車の騒音を貫いて、獣の雄たけびに似た咆哮が響いた。何人かの人が手を止めて、それがどこからしてきたのかと頭をめぐらせて聞き取ろうとしたが、すぐにそれは喧騒に紛れて消え失せてしまった。気がつくと翼手の匂いと入れ替わるように『歌』が消えていた。誘いの歌は誘ったものへの目的を果たして満足したのか。紛れもなく翼手の匂いが強くなっている。それが小夜たちに目的が近いことを教えていた。禁断の翼手化がなされてしまった今、翼手が人間を襲う前に封じ込めることが最優先課題となる。強烈な、自己の存在を主張するかのような翼手の匂い。そしてその存在感。
   だが突然。唐突にそれが途切れた。
「!」
   糸が解けるように翼手の匂いが薄らいで、やがて辿れなくなるほど消えてしまう。喉元に押し込められた冷ややかな憔悴と共に小夜は立ち止まり、素早く周囲を見回した。掴もうとして掴みきれなかった予感を引き寄せるように少女は胸に手を当てて翼手の気配を感じ取ろうとしていた。わずかな時間の差異が少女と翼手の間を隔てている。
   一瞬遅れて少女の鼻腔に感じられたのは温かい、流されたばかりの血の匂いだった。
「ハジ」
   考える間もなく匂いを辿った。翼手の匂いでなく、生暖かい血の香りを。翼手の匂いの起こった方向に、翼手の匂いが消えたとたんに漂ってきた人間の血の匂い。翼手と人間。少女には目に浮かぶようだった。翼手の姿に驚く人の姿と、その人間の血を欲している翼手の姿が。その異形の醜い姿に立ちすくむうちに人は翼手の牙にかかり、自分に何が起こったのかもわからぬうちに身体中の血液を吸い尽くされて死に至る。
   少女は大きく頭を振ってその考えを退けた。まだ何もわかっていない。30年前と今とは違うのだ。しかしどれほどその予想が当たっていないことを願っていたとしても、嫌な予感ほど良く当たるのが常とも言える。
   少女が青年と共に足を止めたのは、イーストハーレムの奥、通りから一歩離れた小さな路地裏だった。百年もの戦いの間に数多くの血の汚濁を見つめてきた小夜であったが、見たとたんその惨状に目を背けたくなった。あんなことはもう二度と味あわないと思いこんでいたからだろうか。
――目に飛び込んできたのは鮮やかな緋色だった。路地裏の罅だらけのアスファルトに、薄汚れた建物の壁に、塗料を叩きつけたように血糊が飛び散っている。辺り一帯血まみれだった。血溜まりの中に引き裂かれた手足が転がり、千切れた胴体部分は腹だけが大きくえぐり取られて内臓(はらわた)とその内容物が半分ほど飛び出していた。血と体液の強烈な匂い。頭部には鋭い爪あとが何本か斜めに走っており、食いちぎられたような首はほとんど身体とは切断されていた。目をむき出して恐怖に顔をゆがませたまま絶命している人間の表情。半分ほど抉り取られていて性別すらほとんどわからない。幾度も見てきたこの胸をえぐられるような惨状に少女の呼吸が怖れと怒りに早くなった。こんな風に人体に損傷を与えることが可能な存在など、翼手しか考えられない。そのくせ血を吸い取るというよりも、まるでどうしたらいいのかわからなくなって、力任せにバラバラにして投げ捨てたという感じだった。人体から流れ出したばかりの温かな甘い人間の血の香りがする。
「ハジ。これって・・・・」
「翼手化したばかりなのでしょう」
   それにしてもひどかった。翼手がここまで遺体をバラバラにすることも珍しい。恐らく悲鳴を上げる暇もなく殺されたのだろう。それに対象の翼手の気配は既にどこにもない。
「歌を探さなくちゃ。もう一度」
   これ以上犠牲者が出る前に。暗澹たる思いで無意識に少女はつぶやいていた。








以下、続く。。。



2009.07.31

ディーヴァの歌の物語。
   二つの歌。ここが一番重要ポイントな筈なのですが、今ひとつ説明が上手くされているかどうか・・・・。
   分量を考え始めると、すぐに短くしてしまうのは(つまり説明不足)私の悪い癖なのです。
   この辺りから奇妙な展開になっていきますが。。。なるたけハジ小夜を・・・・(そればっかり)

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