6.

  ドアのブザーが押されたとき、男は作業の手を休めてぼんやりと窓の外を眺めて物思いにふけっているところだった。作業と言っても仕事の続きで音響の加工の請負部分である。男の多重音の積み上げ方は職人技でどうしてもコンピュータでは再現できない部分まで色をつけて加工できる。この技術のために何人かの固定客がつき、彼はかろうじてこの齢まで食べることだけには困らなかったのである。
  灰色の空は今日の気分のように重苦しく圧し掛かっていた。早くこの仕事に片をつけて、自分の『歌』。想い出に響いているあの声を再現したいと思っているのに、このところ全く気が乗らずに全く進んでいない。彼はため息をついた。こんなことは今までなかった。たとえ一時にせよ『歌』への希求が薄れることがあるなどとは。
  その代わりのようにあの不思議な黒髪の少女の瞳の色が頭の中に浮かんでくる。たった一人でやってきて不器用に言葉をつむぎ、それからじっと真剣な目でこちらの言うことを聞いていた少女。さみしげなその瞳の色が何かを言いたそうにしているのを彼は感じ取っていた。あの雄弁な瞳の色が言いたかったのは何なのか。
  そんな折だった。滅多に訪れることのないこの古いアパルトマンのブザーが鳴らされたのだ。思考の波間を漂っていた男は現実に引き戻され、間に横たわる軽い浮遊感に身体の感覚を圧されながら重い腰を持ち上げて、ドアのところに行ってみた。小さなのぞき穴から外を見てみて彼は無意識に息を呑んだ。短い黒髪。大きな目、ふっくらとした唇の少女。たった今、考えていた当の相手でありながら、これ以上ないほど思いがけない人物の顔がそこにあった。
「こんにちは」
  今日の少女は一人ではなかった。背の高い、細身の青年は目が合うと、礼儀正しく目礼してくる。目礼を返してから男は少女に目を戻して言った。
「どうした? 他にまだ何かわからないことでも?」
「あの・・・・これ・・・・」
  差し出されたものは小さな花束だった。どこで買ってきたのか、ピンクの薔薇が何本かが可愛らしく紙にくるまれている。男は目を丸くしながら破願した。大きな身体で肩をゆすると、その仕草がほんの少し沖縄の父に似ている。
「花をもらうなんて何十年ぶりかだな」
  およそ殺風景な部屋の中を眺めて男は礼を言った。
「何を持っていいのかわからなかったから」
  小さな声で少女がつぶやく。
「まあ、立ち話って訳にもいかないから」
  そう言って男は二人を部屋の中に招き入れた。キッチンを探して端のかけた硝子の水差しに花を突っ込んでからリビングにいる二人を眺めてみると、少女は機材に興味津々の目を向けていたが、青年は入り口付近に楽器のケースを立てかけると邪魔にならない程度の距離で少女の傍に留まっている。親密な雰囲気はするが恋人通しのような甘さがなく、青年の少女を見つめる眼差しにはいたわりと優しさはあるが強引さは無く、この二人が一体どんな関係なのか、少々興味をそそられた。
  男は冷蔵庫からビールの缶を取り出そうとして手を止めた。
「歌のことを訊きたいんだろ? でも先日話したことの他には何も知らない。知っていたらこちらの方が教えてもらいたいくらいだよ」
  青年に向かってビールを訊いてみたが予想通り断られ、彼は一人でビールをあおりながら言った。
「それはいいんです。でももうちょっと別のことも訊きたくて。確かめたいことがあるの」
「なにを?」
「あなたが忘れられないと言っていたあの歌。あの歌をみつけたとき、何か変わったことが起きませんでしたか? 例えば身近で獣化症候群が起こったり、それを聞いた人がおかしくなったり」
「いいや。そんなことはなかった」 というのが彼の答えだった。
「少なくても俺の周りにはそんなヤツはいなかったね」
「そうですか」
  良かった、と小さくつぶやく声が聞こえる。それから少女は目を上げて彼を見つめた。
「もう一つ、訊いておきたいことがあるんです」
「なにかな?」
「あなたには、今でもあの歌が聞こえているんですか?」
「どういう・・・・?」
「憶えているんですか? こんなに経っても忘れられずに全部。本当に、音のひとつひとつを忘れないで憶えていられるの?」
  少女の問い掛けには存在を貫き通す鋭い響きが含まれていた。逃げ出すことを許さずに突き詰めることを求める強い意志が。それが初老の男にうわべだけの答えを許さず、男は息を呑んでまだ年若い少女の瞳を見つめた。あどけないほどの瞳になぜそんな力強さが存在しているのか。その目は不思議にも赤い光を帯びているようにも思えて、彼は黙ったままその瞳を見つめていた。
――結局あの時、少女の問いには答えてもらうことはできなかった。彼自身もどのように応えたらよいのかわからない答えであったし、何故この少女がここまでこの『歌』にこだわるのかも彼にはわからなかった。彼は自分の追い求めている『歌』と、少女が探している『歌』が同じだとは思っていなかったからである。しかし彼自身も何十年に亘ってこの記憶の中の『歌』にこだわり続け、求め続けている。少女の思いにすり合わせるように自分の思いを重ね合わせて彼はため息をついた。
  だが小夜はと言うと男の沈黙に萎れるように次第に自信を喪失し、うつむくようにして両手をぎゅっと握り締めていた。肩にかぶさるような沈黙が重い。それが耐えられない重さになったとき、少女は顔を上げた。もう十分だと思った。これ以上どうすればいいと言うのだろう。彼を責めているわけでも、傷つけたい訳でもない。知らなければ知らない方がいいことがこの世の中には沢山あるということも小夜にはわかっている。ほんの少しでも、一旦心を寄せた人たちを大切にせずにはいられない。それがいつの時代も人間に心を寄せ、自分自身をすり減らすように生きてきたこの小夜という少女だった。
  青年が楽器を担ぎ上げたと同時に少女は彼に向き直った。
「ごめんなさい・・・・。もう。帰ります」
「ちょっと待った」
  少女が帰ろうとしたとたん、男は思いがけず狼狽している自分に気がついた。これでこの少女は行ってしまい、二度と会えないだろう。自分と同じような思いを抱いている少女。『歌』に囚われている者同士。彼女が求めている『歌』が自分の求めるそれと同じとは限らないだろうが、なぜ少女に自分の作っているあの『歌』を聞かせてやれないのか。そうすればもしかすると何かの助けになってやれるかもしれないのに。それなのに男の中には自分だけのものを他人に触れては欲しくないというわずかばかりの独占欲が、未完成の歌を手の平を開くように見せてやろうという踏ん切りを邪魔している。男は眼前の少女を前に逡巡していた。
  男の中の葛藤を知らず、少女の目が問いかけるように向けられる。
「今度、聞いてもらいたいものがある。準備しておくから。三日後にもう一度、訪ねてきてくれ」
  そうして彼は二人の背中を見送ったのだった。




  その日、小夜は青年と二人で向かいのビルから彼の住んでいる部屋を見つめていた。今日は行かなくて良いのかという青年の視線に首を振って小夜は答えた。
「まだあと一日あるし。あんまり親しくなっちゃうと後がさみしいから――あ、帰ってきた」
  少女の言葉どおり男が階段を上がる姿を見かけると、すぐに部屋の明りが灯りカーテンの向こう側に動いていく影が映る。
「ねえ、ハジ。細かい音の一つまで正確に憶えていられることって本当にあると思う? 記憶にある、とかそんなレベルじゃなくて、いつも頭の中に響いているように。そんなことがあるの? 何十年も前のことなんだよ」
「音楽にそういう記憶と才能を持っている人がいるというのは良くあることです」
  自らも奏者としてはかなりの腕前を持っている青年はそう言った。
「そういうことがあってもおかしくはないと私は思います」
  少女は黙り込んだ。
「ハジ。それならば、あの人の心の中でディーヴァの歌はいつも響いているってこと?忘れられないってそういうことなの?」
「小夜、それは――」
  青年が答えを返そうとした時。
「ハジ・・・・これって」
  小夜は耳を押さえた。黄昏のニューヨーク。薔薇色と金色の入り混じり、そこに夜の紺碧が筆で刷かれたように流れている空に向かって、立ち上っていく響きがあった。人間には聞こえない響き。翼手の女王の、ディーヴァの歌。
  小夜は鋭く周囲を見回した。そうではないかと半ば以上予測していたくせに、そんな馬鹿なという思いが少女の中には沸き起こっていた。彼のはずはない。もう30年経っているのだ。あの人は無関係のはずなのに。
  それなのに、少女にはわかってしまった。その響きの出所が。見守っていたアパルトマンのガラスの窓を震わせて、空気に流れていく歌声。いや、それは正確には歌声とは言いがたかった。それは言うなれば音の集合体だった。様々な音の寄せ集めと言ってもいい。だが小夜にも、そしてハジにも、それが確かに翼手の女王の持つ独特の響きをはらんでいることがわかってしまった。たどたどしく、未完成であってもそれはディーヴァの歌の再現だった。
  反射的に小夜は手を差し出して、ハジから刀を受取ろうとしていた。
「小夜」
  ハジの鋭い声が少女の動きを止めた。
「ハジっ。あの人・・・・」
  やはりディーヴァの歌を持っていたのだ、自分たちには知らないと言っておきながら。
「小夜。いけない。落ち着いて」
  少女の目が真っ赤に染まっているのを見て青年はその腕を強く掴んで離さなかった。小夜は少し抗うようにしたが、青年は益々腕の力を込める。頭の中のどこかが真っ赤に染まりきる直前で少女は立ち止まった。自分を見つめる冷たいほど蒼い瞳の力強さに少しずつ冷静さを取り戻していく。
「でも、あれは」
  まだ流れ続けているその『歌』を聞きながら小夜は真っ赤な目で男の部屋を睨みつけた。だが青年は首を振った。
「あれはディーヴァの歌そのものではありません」
「でも!」
  あれは翼手の女王の歌。第五塩基に語りかける歌。息が詰まるほどの焦燥感が小夜を襲っていた。
「元来のディーヴァの歌にはほど遠い」
  小夜にも分かっていた。声質も歌の技巧もまったく違う。ディーヴァの歌はあのように拙くは無かった。聴くものすべての心を捉えるような、翼手の女王の歌とはかくあるものかと思わせるような美しいものだった。にもかかわらず、それはディーヴァの歌でもあった。第五塩基に直接はたらきかける、翼手の女王の歌。たとえ未完成なものであっても第五塩基の保有者には危険な代物だった。そして、ディーヴァからの塩基の持ち主ならば、女王であるサヤの匂いに反応する。
  興奮が収まると小夜は膝小僧を抱えるようにして蹲った。いつの間にか『歌』の流れは止んでいた。感情の高波が収まると同時に砂のような空虚と憔悴とが少女の心を満たしていた。サンクフレシュの製品を取り込んだ者たちに関して翼手化を防ぐには、小夜の血清から作られた薬が何らかの効果があることだけがわかっている。ディーヴァからの塩基の影響を受けた細胞とサヤからの塩基で影響を受けた細胞がそれぞれ塩基(遺伝子)レベルでその働きを抑制するのだ。
「私の血がまた要るんだよね」
「まだ・・・・。わかりません」
  ハジの目の中にある自分に対する痛みを見たくなくて、少女は顔を伏せたまま問い掛けた。
「『赤い盾』の本部は、今どこに――」
  不意に青年が跪いて少女の頬に触れた。
「急がないで」 いつもの深く穏やかな声で囁きかける。
「まだ、何も起こっていません。あの歌声がディーヴァのものと決まった訳でも、あれによって人々の隠れた第五塩基が活性化されていくのかも、それに彼が第五塩基の保有者なのかも、まだ何もわからないのです」
「でも・・・・」
  確かに自分の中の何か本能的なものが危険を感じ取ったことには変わりない。
「彼は何も知らないのです」
「知らないからって済む問題じゃない。ディーヴァの歌が流れれば――」
「彼はディーヴァの歌が第五塩基を目覚めさせることを知りません。目覚めた第五塩基が歌うことも」
  翼手の女王によって目覚めさせられた第五塩基は女王の歌に共鳴して、共に歌声を上げる。それはサヤやハジのような対なる女王とその眷属においても例外ではなかった。
「でも、ディーヴァを止めなくちゃ・・・・」
「サヤ」 と青年は言った。
「ディーヴァは・・・・死んだのです」
  その言葉は少女に劇的な変化をもたらした。少女の中の焦りが消え失せ、代わりに深い悲しみの表情が表れる。少女がどれだけディーヴァと結びついていたのか、思い知らされる一瞬だった。ディーヴァの死は少女に一種の解放をもたらしたが、一方でディーヴァは少女自身の分身とも言えるべき存在であり、彼女を失った少女は存在そのものがひどくはかない様子に見え、青年は胸を痛めていた。
「ディーヴァ・・・・」
  小夜がどれほど自分たちの血によって引き起こされる現象に責任を感じ、未だに深く憂いているかも青年は知っていた。
「今はあの歌がどのようにして流れていたのか、手がかりがつかめただけでも良しとしましょう」
  少女は硬く拳を握り締めた。爪跡が残るまで握り締められたその手を青年のひんやりとした手が優しく覆う。何も言わずにその指が少女の頑なな指を一つ一つほどいていって、やわらかく握り締めた。すると少女は握られた自分の手ごと、青年の手を自分の頬に摺り寄せて目を閉じた。その穏やかな冷たさに多少なりとも冷静さが戻ってくる。30年前には見られなかった少女からの親愛の行為に、青年の目の中に一瞬だけ仄かに戸惑いと喜びとが浮かび上がり、次の瞬間消え失せた。
「ハジ。あの人から目を離さないで」
  少女は赤い目を見開いた。
「あの人だけじゃない。あの『歌』が聞こえる範囲。いつ目覚めが行われるか、わからないから」。







以下、続く。。。



2009.07.24

ちょっと長くなってしまいました。
  小夜とディーヴァの歌を書こうと思ったときから、小夜にとってのディーヴァがどんな存在なのかじっくり描けたらと思ってました。
  本当はオリキャラをいれずにそれだけで展開していればまっとうな二次創作なのでしょうが、アニメの登場人物だけで展開されるのは私の力量に余る事でしたので、仕方がなくオリキャラ出場。ごめんなさい。
  これで大体半分は行きました。。。これ以降が後半戦。二人を格好良く描けるかどうかがポイントです。。。。

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