5.

  その歌に魅せられたと語る初老の男の言葉に胸を打たれたように小夜は黙り込んだ。多分、男の言っているのはディーヴァの歌だ。彼の手から失われたその顛末には人為が感じられる。そんなことをできる組織は唯一つ。そしてその理由も小夜にはわかっていた。
「悪かったな、こんなつまらない話しちまって」
  うつむいたまま黙って首を横に振る少女の仕草はどこか幼さを感じさせる。迷子になって途方に暮れて泣き出すのをこらえている幼い子供のように。
「とにかく、その歌は今ではどこにも存在しないものだということさ。――がっかりしたかい?」
「ううん。でも・・・・ありがとう」
「ありがとう?」
「憶えていてくれて、好きだって言ってくれて。そして話してくれて」
  男は少女が言っている言葉の意味の半分も理解できなかった。しかしこの黒い髪の少女が、出会ったときから印象的だった瞳の中の感情を揺らめかせて自分を見つめているのには多少驚きながらも感動していた。今まで誰にも語ることのなかった想いをこの娘は理解してくれる。
  彼は少女が自分の話に感動したのだと思っていた。それ以上の何かがあるとは思わなかった。ただ少女の様子に、彼女もその歌に自分と同じような深い思い入れがあるのだと思い、同じ痛みを持つもの同士の同調を感じただけだった。
「歌は。好きかい?」
「え?」
と驚いてから少女がうん、と頷いて見せると男は笑った。思い出の中に浸っているような少女の顔はやさしくて、少しさみしげだった。
「あんたは歌を歌うのかい?」
「ううん。私は・・・・」
「じゃあ、何か楽器でも?」
  再びこちらを見た少女の驚いた顔に、彼の方がびっくりした。
「なんだい、何か気に障ることでも訊いたのか」
「ううん」 少女の髪がさらさらと鳴る。
「・・・・昔、チェロを」
「チェロか。そいつはすごい」何となく口先だけで言ってから彼は思い至った。
「確か、あんたの彼も・・・・」
「彼? ハジのこと? ・・・・私には・・・・ハジが・・・・いつも私のために弾いてくれるから・・・・」
  私はそれでいいんだ、とつぶやく少女の伏せた視線のさみしさが彼の中の満たされない憧れへの虚しさに共鳴した。たまらなくなってつい軽口をたたいてしまう。
「そいつはご馳走様だね」
  何を言われたのか一瞬虚をつかれた顔をして、それから言われた意味に思い当たる。からかいの言葉に頬を染めている仕草が初々しかった。
「でも」
  少女の顔はすぐにさみしげになった。多分私はもう弾けない。弾こうとも思えないから・・・・。もう。まだ若いのに、何かをあきらめたように悲しそうな口調だった。
「チェロが好きなのに?」
「好き?」少女は首を傾けて少しの間考えてから答えた。
「昔は弾くのも好きだった、と思う。もう随分前のことで。でもハジの方が上手くなっちゃって・・・・。あの頃。それが気に入らなくて」
  おやおや、と彼は思った。意外に負けん気が強いところもあるようだ。少女の子供っぽい気の強さに不意に男は微笑んだ。
「でも、聴くのは今でも好き」
「本当は弾きたいんじゃないのか?」
「え?」
  少女の目が驚きに丸くなり、思ってもなかった彼女の心を映し出す。
「本当に好きなら。弾きたいなら、物事には頃合ってものがある。じっと待つんだ。今はダメでも、そのうちまた弾けるようにもなるさ」
「弾けるようになる?」
  首を横に振ろうとして、寸でのところでその行為を押し留め、小夜は遠くを見つめた。
「弾けるようになるかな?」
「なるさ」
  男の大きな手が少女の黒い髪をくしゃくしゃと撫でて去っていった。その仕草は昔、沖縄で記憶を無くしていたとき、娘として小夜を育てた男の仕草にそっくりだった。記憶は時折こうやって少女の心に細波を立てる。
「ありがとう」
  小夜は記憶を確かめるように、撫でられた髪を押さえながらつぶやいた。




「なにかわかりましたか?」
  少女が戻ると青年は立ち上がり、彼女に休むように薦めながら問い掛けた。何気ないように聞こえたが、隠していても彼の心配が伝わってくる。
「なんにも」
「・・・・」
「ただ、音楽が好きかって訊かれた。ハジのことも言っていたよ。チェロが上手いのかとか・・・・」
  次第に青年の沈黙が重くなってきて、小夜は訊かれていないことまでやたらとしゃべった。そうしなければ間がもたないと思った。
「小夜」
  本当はこんなことを話したい訳ではなかった。話すこともできない感情もある。言葉にするのが苦しいときも。だがハジは。いつも自分の心の動きを読み取ってくる。声色に促されるように一瞬息を止め、それから小夜は言った。
「あの人、ディーヴァの歌を知っていた」
  憶えていてくれたのだ。無くなってしまった歌、失われた歌と言っていたが、彼の中でいまだディーヴァの歌は生き生きと息づいて、純粋に美しい歌として残されているのだ。
「私、そのことを嬉しいと思った。とても嬉しいと思ってしまった・・・・」
  だがディーヴァの歌は翼手の覚醒を促す不吉な歌だった。その歌声にこそ小夜たちの百年は苦しめられ、戦ってきたのだ。それを忘れた訳ではない。――ディーヴァが好むのは死と破壊と絶望の歌。ディーヴァのシュヴァリエの一人はそう言った。事実、その歌は翼手を目覚めさせ、人間に嘆きと絶望をもたらした。凍る大地に蠢く異形の影。赤々とした焔の中に歓喜の咆哮を上げる奇怪な姿。翼手たちが跋扈するたびにあの歌は空に流れ、混沌の解放を歌い死と破壊を呼び起こした。焔の中に佇む、美しくも禍々しい翼手の女王。
――ディーヴァ――
  しかし小夜には他の誰にも無いディーヴァとの懐かしい思い出があった。『動物園』で初めて聞いたあの歌は、ただ美しかった。はかなさと、さみしさと、自覚のない悲しみ。繊細な響きが『動物園』の中に流れていく。それは夢のような楽園に響く、夢のような歌声だった。ジョエルも知らない少女だけの歌姫。扉越しの交感ではあったが、小夜の言葉にディーヴァは応え、そうして二人の交流は始まったのである。無邪気に心を分け与えた。初めての、友だち。歌声。かすかな微笑。返される言葉。ディーヴァとの闘いの記憶とともにその記憶も少女の中に存在している。惨劇の前の穏やかな記憶。
――だがこんな郷愁を感じて、ハジに対してどんな言い訳を持つことができるのだろうか。あるいはデルタ計画の犠牲者に対して。それは大きな裏切りのように思える。どんなにあの歌が美しくても。血にまみれた翼手たちの間を響き渡っていったあの歌。その翼手たちを切り裂き、命を絶つだけに存在していた自分の手。産み出す手があり、滅ぼす手がある。そこに何の違いがあるのだろうか。何の価値が。
  うつむいたまま両手を握り締める少女の傍らに青年はひざまずいた。
「小夜。ディーヴァはあなたの妹なのです」
  いつの間にか青年の手が少女の右手を握りこんでいた。そして左手でその頬にやさしく触れる。何も言わず、だが30年前の闘いと同じようにハジが自分の感情すべてを穏やかに包み込んでいるのを感じた。人間の精神を持つ小夜が、妹へ持つ複雑で悲しい感情。それをまるごと包み込もうとするように。けれども穏やかな肯定に少女は首を振った。
  こうしてハジに甘やかされてすべての感情を許されてしまったら、自分が不幸に陥れた人々はどうなるのだろうか。そしてハジは――。
「そうじゃない。私はあの歌を認めてしまったらいけないの。認めたらディーヴァに殺された人はどうなるの? 翼手にされてしまった人たちは?
  ハジ。私があの歌を探すのは、あれが人間たちに作用しないようにするため。ただそれだけ。そうでなくちゃ私はディーヴァと同じになってしまう」
「小夜、私も。ディーヴァの歌を美しいと感じるのです」
  少女は目を見開いて青年を見つめた。あの呪われた歌に対してハジが自分の心情を語るのは初めてだった。ディーヴァの歌声に忌々しげに右手を押さえていたハジ。小夜と同様にディーヴァの歌に影響を受けずにはいられないはずなのに。すべての元凶であるとも言えるあの歌を肯定するような言葉をハジの口から聞くとは思わなかった。だが少女のシュヴァリエは闘いから解放された後の穏やかな声色そのままの声で彼女に語りかけた。
「私があなたのシュヴァリエだからそう感じるのかもしれません。それでも何がもたらされるにしろ、ディーヴァの歌は美しく、彼女があなたの妹だったことには変わらないのです」
  悪いことでも良いことでもない。それはそこに存在する単なる事実だった。それを静かに受け入れていると言ってくれているのだ。だからこそ自分自身の心を、自分自身の存在を否定しないで欲しいと。青年が言外に語りたいことが小夜にはわかった。握られた手に力を込める。
「ハジ・・・・」一瞬ためらうようにして小夜は言った。
「・・・・ありがとう・・・・」
  こうしてハジの言葉ですべてが許される訳ではないとわかっている。それでもその言葉に篭められたいたわりの気持ちが感じられた。悲しみにそっと寄り添ってくれる。ハジのその心を受け取りたい。それすら本当は自分には過ぎたことなのかもしれないけれど。たとえディーヴァと自分との係わり合いで多くの人の運命が変わってしまったとしても。そしてディーヴァの歌を受け入れることができない自分がいたとしても。
「もう一度、あの人に逢いに行ってみる。あの時は確かにあの人の周りから『歌』が聞こえたもの。本人が意識していないだけかもしれないけれど、何かを知っているのかもしれない」
「まだ何もわかっていません」
「そうだよ。未だ何もわかっていないから」
  だからこそ用心しなくてはいけないのだ。たとえ、あの人がどんなに良い人だったとしても。自分の言葉に、言った当人ですら暗澹たる思いを感じて身を震わせた。







以下、続く。。。



2009.07.17

少しずつですが、話が動き始めているような。とは言え、この話自体そんなに長い話ではないので、仕掛けも何も全然無い。
  淡々と、話が進んでいるようないないような。でも頑張ってハジ小夜シーンを入れているのがわかるという感じが。もっとさらっと入れたいのですが、なかなか難しいものです。
  この話は小夜のお話なので、あまりハジの活躍シーンが無くてすみません。前半はあまり動きが無いシーンなので、書いている自分も消化不良です。本人がそうなので、読んでくださっている方々はさぞや・・・・。申し訳ありません。。ですがもうすぐ後半戦。後半戦には少しは二人を動かしたいのです。二人が街を駆けるシーンを書きたいのです。(そういうシーンが好きなので)。そうなるとその部分を書くのが今からとても楽しみ。上手く書けるかどうかは別問題ですが。。。

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