4.

  頼まれ仕事をやっとやっつけて、男はユダヤ人の雑貨店でベーグルとチーズを買いこむと家路に着いた。摩天楼の立ち並ぶビルの山間から少し離れた一角は、かつて新興住宅地として賑わっていたが、今では手入れもろくにされていない襤褸アパルトマンに移民と日雇い労働者が住んでいる。だが彼は概ね満足していた。しょっちゅう詰まる配水管と横殴りの雨が降れば水が染みてくる漆喰の壁さえ我慢すればそんなに住み心地は悪くない。あまり人気のない往来ではかろうじて街灯が追い迫る闇を退けていた。
  この二、三日彼は彼の『歌』を作り出すための音を探し行くでもなく、部屋に籠もってそれらを編集しようとするでもなく、ぼんやりと仕事の後の時間を費やしていた。この長い年月半ば習慣のように行ってきたことをやる気が起こらない。一体どうしてしまったのだろうか、と彼は自問した。胸の中を乾いた風が通り過ぎるようで、何をやっても味気ない。それがあの黒髪の少女と出会ったことと無関係ではないことを彼は知っていた。一瞬だけの邂逅に揺り動かされることがあるなど、あの『歌』以外ありえないことだと思っていたと言うのに。あの大きな潤んだ目の中に何か今まで知らなかった感情がある。それが気になって何にも集中できないのだ。
  だからアパルトマンの前の階段に腰をかけて、通りの方を見ているその少女を見出したとき、彼はひどく驚いた。彼女は彼に気がつくとにっこり笑って立ち上がった。
「こんにちは」
  少女は行儀よく挨拶した。そのとたん、彼の中にはまるで昔からの知り合いにあったような親しみの感情が湧き上がった。
「どうしてここがわかった?」
「ずいぶん色々と探し回って。でもやっと見つかった」
  まだうっすらと夕暮れの茜色は残ってはいるが、遠目では人の顔もわかりづらいほど暗くなってきている。そろそろ若い女の子の一人歩きは危険な時間帯だった。
「あの兄さんは一緒じゃないのかね?」
  そう言うと彼女はちょっと困った顔になった。
「私が一人で来たいって言ったから」
  彼はその答えを聞いて不思議に思った。青年と少女の雰囲気は随分親密で、どこか危なっかしいような彼女をこんな所に一人でやるようには見えなかったのだ。
「この間もそうだったけれど、女の子が一人で出歩くような時間帯じゃないな」
「どうしてもきちんと会って訊きたいことがあったんです。昼間じゃ会えなかったし」
  その答えに少女が留守をしている間に何度もここに来ていたのだろうと思い至った。黒目がちの思い詰めたような視線に、先日見つけた不思議な感情のひらめきがあった。
「それはすまなかった。仕事でね」
「わかってます」
  少女の強すぎる肯定に彼は戸惑った。黒い目が意志を映してきらめいている。そうすると、と彼は思った。探しただけではなくて自分の事を調べてきたわけなのか。どこまで自分のことを調べているのだろうか。うっすらと警戒心が沸く。対してこちらは彼女たちのことをまったく知らない。
「あの。なんのお仕事をしているんですか?」
  だが少女の問い掛けは無邪気なもので彼を拍子抜けさせた。
「音を作っているのさ」
  部屋の中に少女を招き入れるような状況の流れにいささか戸惑いながら男は答えた。実のところ少女には立ち話だけで早々にお引取り願うつもりでいたのだ。見知らぬ男の部屋に警戒心も持たずに入るその無邪気さに半分呆れ、半分心配する。だが少女にそれを言うと、彼女は小さく微笑んだ。
「大丈夫だと思ったから」
  少女のあけっぴろげの信頼に、不思議にいやな思いはしなかった。どうかすると茶色にも見える深い緑色の扉を開けて男は少女を部屋の中に入れてやった。男の部屋の中は半分以上録音機や良くわからない楽器のようなものやコンピュータが並べられ、人間の住処というよりは倉庫のようだった。少女よりも肩幅も横幅も大きな彼の身体が少女の横を通り抜け、部屋のスイッチが入れられると、薄暗かったその部屋の奥にコンピュータに繋がれた大きな機材が置いてあるのがわかった。かなり古びていたが良く手入れがなされていて、その機材はまるでこの部屋の主のようにどっしりとして見える。男は大事そうに機械の側面に触れた。
「映像の世界ではいつでも新しい刺激が求められるのだが、それを支えているのが実は音の世界なんだ。ちょっとした俺しかできない技術もあってね、御蔭でなんとか食いつないでいかれる。
  コーヒーでいいかい?」
「あ、私は――」
  言いかけるのと同時に少女のお腹が盛大に鳴って、彼女は真っ赤になった。
「あの・・・・」
「仕方ない。そこで待ってな」
  男はそう言うと、非常食用に取っておいた冷凍ピザを冷蔵庫から取り出してオーブンに放り込んだ。30年経ってもこの辺りの技術は大して変わっていない。電波がかすかなうなり声を上げている間に男はコーヒーメーカーからコーヒーを取り出してありあわせのカップで少女に渡した。
  こういう時はつくづく自分の親切心が嫌になる。
「あ、ありがとう」
「で。何の用かな?」
  少女はカップにちょっとだけ口をつけてから横に置き、まっすぐに瞳をこちらに向けてきた。
「歌を探しているんです」
「この前も同じことを言ったね、どういうことかな?」
  答えながら男は自分の職業気質が疼くのを感じる。
「30年くらい昔。ニューヨークに爆弾テロがあったと言います。昔のメトロポリタンオペラハウスを知ってますか?爆弾はその場所に落ちたって」
「ああ。知っている。有名な話だからね。今じゃ記念碑も建てられている」
  そう言いながら、彼はオーブンからピザを取り出して、少女の前に押しやった。少女はピザを眺め、それから問いかけるように男の目を見つめた。
「腹が減っているんじゃないか?」
  少女は再び真っ赤になったが、きちんと頭を下げてお礼を言うとあっと言う間にピザ一枚を平らげてみせた。外見に似合わない健啖家ぶりに男が目をむいていると、その視線に気がついた少女はうつむいて小さな声で
「ごめんなさい」
と謝る。自分が男の分まで食べてしまったのに思い至ったのだろう。そのいかにもすまなさそうな様子に今度は男の警戒心が無くなった。
「いいさ。そんなに食べっぷりがいいと却って気持ちがいい」
  そう言いながら男の方は買ってきたベーグルとチーズを冷蔵庫から取り出したビールで流し込んだ。心地よくかすかな安堵。
「さてと」お互いに栄養補給を終えると、男は居住まいを正した。
「METがどうかしたのかな?」
「あの爆弾が落ちた時に歌っていた歌手の歌を探してます」
  お腹がくちくなったのか少女は先ほどよりも幾分リラックスした様子で話し始めた。男は黙ったままじっと少女の話に耳を傾けている。ニューヨーク。オペラハウス。爆弾テロ。歌手。そして30年前。
「オペラハウスで演奏されるものはそれこそ無数にある。どの歌なのかわかるかい?」
「歌っていたのは私くらいの女の子で、そして歌は・・・・」
  あの至高の歌をどのように表現したら良いのか、小夜は急に黙り込んだ。心に響く、美しい。崇高さに満ちた。呪われた歌。翼手を目覚めさせるあの歌声。
「わかっているのは、あのときのオペラハウスで一番最後に歌われた歌というだけです」
「まさか爆弾が落ちる直前ってことか?」
  少女が頷いたのを見て、彼は首を横に振った。
「それじゃあ無理だ。あれは衛星で全世界に中継されたらしいが、その爆弾テロの影響で録画も残っていないというのも有名な話でね」
「その歌が聞こえたような気がしたの」
  必死な思いで少女が言った。
「ちょっと待った。もしかして、それはあの出会った時の路地裏でってことか。あの時だって俺には何にも聞こえなかったが」
「でも」
「あそこに戻ってみたのかい? どこかで別の歌が流れていたのを聴き間違えたとか」
  だが少女は首を振った。
「だから、あのとき会ったあなたに会いに来たんです」
  大体30年前に歌われた歌と、少女がそれを聞いたように思ったところに偶然居合わせた自分とがなぜ彼女の中で重なるのか。矛盾が大きすぎて頭がついていかず、彼は頭を振った。
「いいや。これでも耳はいい方なんだ。あんたのそれはあれだ。きっと思い込みってヤツだよ。聞きたい聞きたいと思い詰めていると何でもそんな風に聞こえてきてしまうというのはよくある話だ」
「思い込みなんかじゃない!」
  思わぬ少女の激しさに男がはっとなった。
「思い込みなんかじゃない・・・・。私はあの歌を何度も聞いているから――」
  間違えることはない。少女は唇を噛み締めるようにして下を向いた。両手をぎゅっと握り締めている。今まであった無邪気で明るい少女の雰囲気が突然ひっくり返って痛々しいほどの感情が剥き出しになる。
  その必死な様子を見て男はため息をついた。
「せっかく探してきてくれてがっかりさせちまって悪いが俺はあんたの力にはなれないよ。音楽で食いつないでいる訳だから少しは役に立つようなことを言ってやれたらよかったんだが・・・・。映像もなんにもないのに探すってのは無茶だ」
「・・・・残っていない訳じゃないかもしれない」
  ポツリと少女が言った。今までハジと二人、その可能性を話し合ってきた。
「ニューヨークでの公演の前に二回だけ。みんなの前で歌う機会があったはずなんです。一回は実現しなかったんですが、ロンドン公演。もう一回は米軍基地の慰問で。ロンドン公演の前にはコマーシャルで歌声だけ流されてました」
  映像つきならば、基地慰問の折のものがきっとあったはず。あのときのディーヴァサイドにはこちらの攻撃を十分受け流してあまりある余裕があった。
「知りませんか?」
  男は黙って少女の説明を聞いていた。聞きながらこの符号がどういう意味なのかを考えあぐねていた。少女と同じ年齢。中止されたロンドン公演。そして基地慰問。彼の「歌の少女」は軍と関わっていた。失われた歌。突然の失踪。この符号はなんなのだろうか。
  男の沈黙を肯定と取ったのか、少女が真摯な目で問いかける。
「知っているんですね」
「いや。俺が知っている『歌』があんたの探している歌と本当に同じなのかはわからない。だけどもしかして・・・・」
「もしかして?」
  少女が促すとようやく男は重い口を開いた。今までと打って変わったその重々しさと、微妙な答えに少女が眉根を寄せた。
「あんたと同じように、俺も歌を探していたことがある。素晴らしい歌声だった。一度耳にしたら忘れられない歌だった。魂を揺さぶられるというのはまさにあんな感じだったんだろう。だが、あの歌は失われてしまった」
「失われた?」
  男はどのようにしてその歌に出会ったのか、どんなにそれに惹きつけられたか、そしてそれをこの世に出すためにした努力と全てが失われた行程を物語った。
「あれはまるで歌そのものがこの世に出る事を嫌がっているようだった。一旦は受け入れられても、すべてのものに拒否されているようで。俺はそれが不憫でならなかった」
  もうどこにも残っていない、誰からも忘れられた歌。
「今ではあの歌は俺の記憶の中だけにある。忘れられっこない。だけどもう聴けない歌なんだよ」
 男の言葉の中に喪失の痛みを感じ取り、少女は黙ったまま目をしばたいて男の顔を見つめた。







以下、続く。。。



2009.07.10

今回もオリキャラには名前をつけておりません。一応ハジ小夜ではオリキャラ出すのにもちょっと抵抗があるので、せめてもの名無しの権兵衛。
   10話以内を目指そうと思ってましたが、もうちょっとだけ長くなる、かもしれません。ハジ小夜要素を入れようとすると長くなることに気がつきました~。
   遅筆なので、少しずつ、少しずつ頑張っていけたらいいなあ。と思いながら。。。。

Back