3.

  夢の中だった。何かが近づいてくる。影のようにひっそりと、小鳥のさえずりのように軽やかに。彼は身震いをした。慕わしいものが近づいてくる。影。それともそう見えるだけなのだろうか。だがそれは同時に波乱と破滅を含む存在だった。自分のあるべき姿と反対のものを表している存在。磁石のようにひきつけられてはまた反発するような、相対する意味を孕んだ存在だった。その予感は裳裾のように現実の苦味を引きずってやってくる。胸の上に石が乗っているように重苦しい。彼は目を覚まそうと焦ったが、悪夢の常で夢とわかっていてもどうしてもそこから逃れることが出来ない。
  急にそれが実態を持ち始めた。行き先にわだかまる黒い翳り。まるで人間の似姿を模ったように細長いシルエットを延ばして――。目線を合わせてはいけない。見つけられたらもうそこからは逃げられない。
  夢の中では距離感も、上下の感覚もあやふやで、彼は上昇と下降を繰り返しながら不安定な道を強制的に辿らされていた。その影が次第に大きくなって、やがて縮みながらひとつの形を取り始める。黒く長い髪のようなものに覆われている。そこからは人間のように手足が生えていて、彼の行く手を遮っていた。
  身震いしながら彼は背中を向けてそれから逃れようとした。夢だ。これは夢なんだ。だが一向に目覚めの気配はやってこず、あの影のようなものはどんどん眼前に近づいてきた。それが後姿なのだとわかったときには遅かった。そいつは身体の向きを変えてこちらに向き直ろうとして――。横顔が見え、瞑っていたその瞼がゆっくりと上がり。その目を見たとたん彼は絶叫した。
(――!)
  汗びっしょりになって彼は飛び起きた。夢の残り香が霧散していく。振り払うかのように彼は汗を拭った。
(いやな夢を見たもんだ)
  起き上がって洗い場に行くと、洗面台の鏡の向こうからは目の下にくまを作った初老の男の顔が見返している。だが冷たい水で顔を洗うと、朝の光の中で見た夢は薄らいでいった。ただその残滓がかすかに胸の奥底にある暗く不愉快なものを刺激している。
  こんな気分になる原因について彼は思いを巡らせた。何年も何年もの間、彼は仕事の傍ら「音」の収集に明け暮れてきた。だがこの頃。正確に言うと半年ほど前から、彼の中にかすかな疑問が芽吹いているのだ。何年も、なぜこんなことをしているのか、何が自分をこんな風に駆り立てているのか。――彼が気まぐれのように先日集音を行った場所に行ってみようかと思い立ったのは、実はそんな夢に刺激されての話だったのだ。
  狭い路地は日の光さえまばらにしか差し込まず、アルミ製のゴミ箱と鉄くずがゴミの間に埋もれているような雑然とした雰囲気に溢れている。饐えたような臭いが埃と一緒になって独特の悪臭を放っていたが、それも慣れてしまえばどうということも無い。彼は先日集音したばかりの裏路地に立ってぼんやりと薄暗い通りを眺めていた。そこでは先日強盗の末にこの路地に逃げ込んできた犯人が、警官に追いつかれたものと勘違いして何人かの子供たちを射殺するという事件が起こったばかりのところだった。彼は事件の直後に偶然引き寄せられるようにその場に遭遇し、目的の『音』の収集をした。親たちの悲嘆の声。心の奥底から引き出されるような重い鈍色の声色を。
  だがこの場所に再び立ってみると、「事故」として処理された子供の親の長い、引き裂かれるような悲鳴が再び甦り、耳に張り付いて離れなかった。今まで彼はあの『歌』の完成のため、何の感慨もなく人々の悲しみの間に分け入って悲しみに満ちた声を集めてきた。もちろん法的に見ても、良心に対してもやましい事をしているとは思っていない。「事件」は「事件」で独立した事実であり、音は音として純粋にそこに存在する。まして自分がこの悪意を引き起こしたわけではない。
  だが今、このように人間の暗い部分を集めていくことに何か後ろめたいような、罪の意識をかすかに感じるのだ。こんな感覚はそれまでなかった。何をするともなく再びこんな所でぼんやりしているのは、その思いが胸に重く沈んでいたからだった。
  そこに居合わせようが、そうでなかろうが、「事故」はいつでもどこにでも転がっている。それなのに・・・・。
「ディーヴァ?」
  不意に少女の澄んだ声が響いて彼は振り返った。声は涼やかであったのに、それを聞いた一瞬、彼の肌には粟が生じた。驚きと恐れと。
  振り向いた場所には一人の少女が立っていて、彼を見つめていた。黒い髪、茶色が濃い黒い目の。すんなりした手足。意志を含んだ眉とふっくらした唇が、まるで正反対のものを表現しているようだった。こんなに薄汚い路地裏に場違いなほどに綺麗な娘。少女は愛らしい顔立ちのまま驚いたように目を見開いていた。まるで彼がそこにいるのが意外だとでも言うように。別のものを見出すと予想していたように。
「あなたは。誰?」
「俺のことか?」
  問い掛ける少女の無邪気なようすに幾分ほっとしながら、なぜ先ほど一瞬この気配に恐れを感じたのだろうかと彼はいぶかしんだ。そこにいたのはごくごく普通の少女だった。驚きに目を丸くしている様子はむしろ愛らしい。なぜ自分を見つめてこんなに驚いているのかが不思議だったが。
「何か俺に用かい?」
「あの・・・・。歌が聞こえたから」
「歌?」
  男は怪訝そうな顔をして少女を見つめた。少女は確かに「歌」と言った。思い当たるモノは確かにあった。いつの間にか彼自身とも言えるようになった大切な「歌」。未だ完成を見ない、彼の記憶の中だけにある完璧な歌。だが彼は自分の部屋で以外、あの歌を外に流したことはなかった。それだってイヤフォンを付けての作業である。完成間近とは言え、不完全なものを表に出すほど愚かなことはしていないつもりだったのだ。
「何を言っているんだ?」
  男の不審そうな顔に少女の方がバツの悪そうな顔をした。
「ううん。ごめんなさい。なんでもない」
「サヤ」
  その時、黒い服装をした少女の連れが少女の肩に手を置いて首を横に振ってから、彼に向かってまっすぐに視線を向けて口を開いた。
「申し訳ありません。道に迷いました」
  丁寧な、古風とも言うべきものの言い方だった。変わった服装にその言葉遣いは奇妙に合っていた。
「それなら大通りまで行くことだな。そこの角曲がってまっすぐ行けばすぐそこだ。そうすりゃすぐにタクシーでも捕まえられるだろう。ここは物騒なところだからね。あまり長居は禁物だ。先日もあの角で何人か人が殺されている」
「人が・・・・」
  少女が眉を顰める。男が指差した先にはいくつか弔いの花束が置かれていた。それを見つめた少女の目差しがゆれる。その世間ずれしていない様子に何故だか一瞬胸が痛んだ。その時になって初めて彼は、この青年と少女の関係にわずかな好奇心が湧いた。青年と少女の雰囲気はとても似通っており、共に黒い髪。兄妹なのか、恋人同士なのか。控えめな親密さは青年の物腰から感じ取られた。
「ああ。さあ、さっさと行ったほうがいい」
  もうおしゃべりはここまでとでも言うように男が手を振ると、青年が促すように少女の肩に力を込める。身体の向きを変えながら、少女が一瞬こちらを向いた。
「あの」
「まだ何か用かい」
「また、ここに来れば会えますか?」
「俺に? 何のために?」
「いえ、その・・・・」
  口ごもる少女に彼は手を振った。
「俺だって別にここに住んでいるわけじゃないんでね。さあ、行った行った」
  何度もこちらの方を振り返る少女の顔が妙に印象に残った。




「小夜」
  寝台の上に腰を下ろしてぼんやりとしている少女に青年は声をかけた。
「気になるのですか? 彼が」
「うん。なんだろう、この感じ。会ったことのない人のはずなのに、どこか懐かしいっていうか・・・・」
「あの歌に関係があると?」
「そんなに確証があるわけじゃないの。ただ、とっても何かが気になっていて・・・・」
「第五塩基はディーヴァの歌によって覚醒する前には人間のDNAにはたらかないはずですが」
  それは30年前ジュリア・シルバースタインによって唱えられた説だった。
「そう・・・・。そうだよね」
  あの人が第五塩基の持ち主だという証拠もない。だが唇を噛み締めているような少女の姿を見つめて、青年は楽器のケースを取り上げると黙って部屋の扉に向かって歩き出した。
「ハジ?」
「少し、休んでいてください」
  その言葉に慌てたように少女は立ち上がった。
「待って。私も行く」
  青年の無言の視線を、こちらも強く見返しながら小夜は言った。
「ディーヴァの歌に関わることだから」
  私も共に。その言葉を聞いて青年の瞳の中にちらりと労わりの色が通り過ぎる。
「彼は関係ないのかもしれません」
「うん」
「もしかすると第五塩基の保有者かもしれない」
「わかっている。でもあのときに聞こえた歌は聴き間違いじゃなかった。もう一度あの人に逢えば何かがわかるかもしれない」
  だから、一緒に。少女の意思の色を塗り替えることができず、青年はうなずいて少女を先に通すべく、部屋の扉を開けたのだった。







以下、続く。。。



2009.07.03

微妙なハジ小夜話。色気なし!
   ミステリー的に長くしようとするともうちょっと長くできるのですが、当初の目的どおりに中編ということで10話以内に終わらせます。多分。そんなに悲惨な感じにはならずに終わらせるつもり。。。二人が上手く動いてくれますように。7月一杯は毎週更新を目標にします!

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