2.

  「まだ、あの歌が本当にディーヴァのものなのかはわかっていません」
  青年は静かな声でそう言った。そう言われると、小夜にもあの時耳にした歌声が本当にディーヴァのものだったのか、自信が無くなってしまう。ディーヴァの歌が世間に流れた直後、『赤い盾』とアメリカ軍は秘かに共同してその回収に当たったのだ。今ディーヴァの歌が媒体として保管されているのは、ペンタゴンに一枚、そして『赤い盾』に一枚。それがすべてのはずだった。ディーヴァの血液サンプルと小夜自身の血液サンプルはペンタゴンにすらない。これはサンクフレッシュから回収して『赤い盾』が保管してどこにも出されていないのである。持ち出すことは不可能なのだ。
  しかも、今頃になってそれが世間に出てくるとは。
「どんな組織にも洩れはありえます」
  黒衣の青年はそう言ったが、言う本人ももの思わし気だった。小夜とそれを取り巻く者たちは、時間の経過と共にあのディーヴァを中心に巻き起こった、人を翼手という別の種族に変化させるという事件が人々の記憶からも、その遺伝情報からも薄らいで消えてくれることを望んでいるのだ。それは事件から何十年も経過した現在に至っても変わりはしない。
「それでも私になら、私たちにならその歌が本当にディーヴァのものなのか、それとも他のなんなのか知ることができるから」
  そういう少女の瞳は血の色に染まっていた。




  その映像がどこから出てきたのか、彼にもわからなかった。たまたま資源再利用のため、未整理だった音楽データを整理していた時に偶然見つけ出したものであり、何もラベルの書かれていない記憶媒体群の一番上に、待ち受けていたかのように置かれていたそれを再生してみたのもまったくの偶然だった。
  美しい歌声だった。そしてその持ち主は。美しかった。少年のような。だが、その薄羽のような華奢な造りは紛れも無く少女のものだった。残酷さと傷つきやすさが無知という名の両刃の上で揺れているような。そんな存在は生にも死にもあまり無頓着で危うい脆さを孕んでいる。その純度の高い繊細さが水晶の輝きをその声に与えていた。
  その歌。立ち上るような高貴さと根底に流れる哀切に満ちた昏い輝き。まさに純粋なる美。人々が人生の中で一瞬だけ垣間見ては手放してしまう、その純粋性を彼女は歌声に乗せることができた。いや、彼女こそが歌そのものだったのかもしれない。少年性と少女性。繊細さと純粋性。残酷さと儚さ。それらすべてを体現している少女。まだ14をいくらも超えていない歌手だったという。純粋でありながら成熟した技法。それが2006年に米軍基地の慰問の際に撮られた映像だということを彼は知った。公にはロンドンのコヴェントガーデンでデヴューすることになっていたが、ある事情で中止になったということ。そしてニューヨークのオペラハウスで再度デヴューを飾ろうとした時に、30年前の爆弾テロがあったのだ。ようするに所謂「ついていない」歌手の一人だった。
  だが誰に訊いても彼女――その中性的な美しさは未分化な、一瞬の美とも思える――の正体が誰だったのか、知っている者はいなかった。とあるプロデューサーが突然連れてきて、半年ほどの間活動した歌手だった事だけはわかった。時の政権とかかわっていて、そのごたごたに巻き込まれたとも、軍と関係していて、やはりその勢力争いの犠牲のようになったとも言われているが、実際のところ、どうだったのかは今となってはわからない。大体そのプロデューサー自身も彼女をプロデュースした直後に行方不明になっている。
――まさか、駆け落ちとか、悪くて心中とか、な――
  せいぜい彼に思いつくのはそんな俗物的手合いの想像だけだった。だが不思議な事に彼がこの映像を公開しようと企画したとたん、その都度にどこからか横槍が入った。一度や二度のことではなく。もちろん彼もあらゆる手を尽くした。この魅力的な映像に興味を示す者は必ずいると思ったのだ。確かにこれを観た上司も、プロデューサーも、彼女の魅力に目を輝かせた。必ず企画を通すと確約してくれた者もいた。しかし次に彼がどうなったかと訊ねたとたん、何か苦いものでも飲み込んだように押し黙り、理由も話さず手を引くように彼に言うのだった。
  しかし障害があればあるほどさらに彼はその少女と歌声にのめり込んでいった。よく中毒患者は片時もその対象を手放したくなくなると言われるが、彼の歌に対する執着もまさにそれだった。そしてその執着がより一層この歌を世に出したいという思いに拍車をかけていくのだ。
  だが思いとは裏腹に現実は厳しかった。彼がその映像の少女に入れあげているという話はあっという間に業界に広まり、それと同時にどこからも受け手がないことも広まった。曰く付きのものを正面きって取り上げるほどこの業界は甘くは無い。さらにどこからともなく不吉な噂が流れてきた。例の獣化症候群の発生に、その少女の歌が関わっていたのではないかというものである。そんな根も葉もない噂話は馬鹿馬鹿しいの一言につきたが、当時は獣化症候群集団発生から10年ちょっとしか経っていなかったこともあり、D弾頭テロと共にまだ人々の記憶にその出来事は生々しく傷跡を残していた。
  獣化症候群はその何年か前から世界各国で少しずつ広がり始め、最後にはニューヨークでの集団発生となる。その原因はその後様々に取りざたされ、アメリカ政府の陰謀説やらテロリストによるバイオテロやら、あるいは人類絶滅説まで出ていたこともあった。偶然にもニューヨークを襲ったD弾頭のテロによってその集団発生はあらかたが消毒され、根滅してしまったとされていたが、未だにアレルギーのように獣化症候群に反応する一部の民衆があり、そのことをメディアも無視はできなかったのである。
  臍をかむ思いで彼が半ば諦めた時、ツテのひとつとして頼ったディレクターから、その媒体を観たいというリクエストがあった。
「正確な音質が知りたいんでね。できたらコピーじゃなくてマスターの方を頼むよ」
  コピーではなくてマスターを、というその言葉に何のひっかかりも無かったと言ったら嘘になる。だが藁をも掴む気持ちでいた彼はたまたまその時手元にコピーの一枚すらなかった事もあって、即刻媒体をディレクターに渡した。二度とそれが自分の手元に戻ってくる事はないとも知らずに。気がついたときには遅かった。その媒体はディレクターごと消え失せた。少女の歌声もまた。
  それからの失意の日々をどのように表現したらよいのだろうか。明らかにコピーを取らずにいたのは彼の落ち度であった。それほどまでに彼は切羽詰り、あちこちにコピーを配ってはその度ごとに苦い失望を味わっていた。しかし、今度の出来事は彼に絶望をもたらした。なるほど彼はあちらこちらにコピーを配ってはいた。だがマスター媒体を手放してしまった彼が、コピーを持っていると目される、あるいは彼自身がコピーを手渡した人物達にそのコピーだけでもと求めると、全員がすまなさそうに紛失した、あるいは消去してしまったと答えるのだ。もう二度とあの少女とその歌声に会うことができないと知ったとき、彼は恐慌状態に陥った。
  何週間も何ヶ月も。彼は少女の面影を求め続け、仕事もおざなりになり果ては寝食すら忘れ果てて探すことに没頭した。彼の絶望は大きく彼の人生を縛り付け、その結果、彼は稼ぎの良かった職を失い、広い家を失い、小さな襤褸アパートの一室で、時折昔の仲間がその誼で与えてくれるちょっとした音楽関係の仕事だけを生活の糧として暮らすようになった。
  だが彼から少女の面影を奪った者たちは一つ、大きく失念していることがあった。少女の唄は彼の頭の中、彼の記憶の中に未だ残っており、その輝きは日夜彼の中で再生され、彼の空虚な人生の中で唯一の彩となっていったのである。その歌はいつの間にか彼の人生の一部ともなって人目に触れることなく静かに育まれ、その輝きは益々強くなっていった。
  彼がそれを再びこの世に甦らせたいと思い始めたのは当然のことであった。彼の胸の中にだけあるあの歌。あの輝かしい純粋な歌を甦らせる事さえできれば、この失意に満ちた日々すらもその一部となり彼の人生、あるいは誰かわからぬ、あの歌を受け止めることのできる人々のうちに再び栄光となって存在することが許される。既にあの歌は彼の中で抱え切れないほど大きくなり、後は溢れ出てくるのを待つだけとなっている。
  こうして彼は音を探し始めた。少女の歌が記憶されていた媒体を探す生活から、少女の音を純粋に再生する生活に変わったわけである。彼はあえてそれを電子音での合成で作成することはしなかった。電子の音ではすぐに再生できる代わりに不可聴音域の重なりから生まれてくる音の深みは再生できない。彼は――既に少女の歌のありえない不可聴音域部分すらも自分の中に抱え込んでいた彼は、少女の歌、その純粋な音の一つ一つを昔ながらの録音という形で丁寧に集め始めた。
  不思議な事にその音は、綺麗な朝の光の中にあるような澄み渡った音の中よりも、壮絶な事故の只中の人間の嘆きの声や、あるいは孤高の丈高い木の葉を揺らす風の音のように、人の心の普段見たくはなかったり、気がつかないで過ぎてしまう美しいがどこか淋しい音の中に存在していた。度々彼はもの悲しい雰囲気の裏路地に出向いてはそこでぽつねんと一人で歌う歌手崩れや、葬儀の場所を訪れては大切な者を亡くした人々の悲しみにくれた声を収集した。溶けた鉛のような空気の夜に、その声は人間の生の感情を映して冴え冴えと響き渡る。それは声というよりも美しい音の集合体だった。愛という言葉よりも崇高さに満ちた精神よりも嘆きと絶望の声色は人間の心に寄り添い、その魂のあり方を明らかにするように彼には思えた。あの失われた歌声が指し示していたのはそれなのだと、彼は次第に理解を深めるようになってきた。いつの間にか彼にとって、あの歌が自分の本質となり、あるべき自分の位置のように思われるようになっていったのである。
  彼はそれらを録音すると自分の部屋に帰り、コンピュータに取り込みながら自分の記憶の中のあの歌声に当てはめる。少しずつだが、それは形をなし始めていた。







以下、続く。。。



2009.06.26

   今回は都合上短くて申し訳ありません。しかも小夜ハジ度が少ない。。。
   目指せ!毎週更新!!!(無理かもしれないけれど)。そしてここでこっそり言ってみる。祝『BLOOD+』プチオンリー!

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