1.

  街角にあの歌声が満ち始めたのはいつ頃からだったのだろうか。それはまるで空気の流れのように人々の鼓膜を震わせることなく流れていった。人の耳には届かない歌。沈黙の中の声。
  しかし、その歌声を聴き取れる者が僅かに存在していた。それはいわゆる思春期と呼ばれる年代の子供たちと、そして・・・・。




  2006年。米国政府により爆弾テロによる犯行と発表された事件により、メトロポリタンオペラハウスを中心にニューヨークミッドタウンの周辺は消失の悲劇に見舞われた。30年後の現在。そこには新しいオペラハウスとともにテロ犠牲者の記念碑が建てられ、今では観光名所のひとつと化している。何もなかった廃墟からの復興に、この都市が持つ無尽蔵のエネルギーが感じられた。30年前の悲劇を感じさせないその力強さと、性懲りもないと苦笑するほどの推進力は人間の持つ生命そのものでもあるようだった。そして今。そのエネルギーを感嘆の眼差しで眺めている者たちがいる。

  人種の坩堝であるニューヨークでは、多少奇抜な格好の人物でもその情景に溶け込ませてしまう懐の深さがあった。変わった装飾のチェロケースを担ぎ、黒一色の服装をしている青年の姿もこの街の雑多な空気は自然に包み込み、自分の一部と化してしまうようだった。30年ぶりにこの地に足を踏み入れた青年は、彼の大切な少女の希望通り共にオペラハウスに立ち寄り、その後少女が肩の力を抜いて街並みを楽しんでいる姿を見つめている。天を貫くように高いビルの谷間を歩き、早足で通り過ぎる人々の群れ。目一杯生きることを身上としているこの世界都市。ここに行きかう人々の生きることへのエネルギーは雑多で貪欲で、しかし前向きな活力に満ちていた。都会の喧騒の中で人々の活気に身を浸して明日の憂いなく楽しむこと。それは30年前には考えられなかった小夜の姿だった。
  人々のエネルギーに当てられて、小夜は少しはしゃいだように赤みを帯びた褐色の目で渋滞の道路を、高層ビルの足元を眺めては好奇心に目を輝かせていた。一時期その勢いに翳りを見せていた世界の中心地は、10年前の好景気により再び活気を取り戻し、同時にミッドタウンのテロ跡地や古い建物は取り払われて最新式のビルディングが次々と建てられている。建設ラッシュが一段落して今は充実期に入ったニューヨークは大規模工事こそ少なくなったものの、それでも進歩の歩調は緩めない。それは内装と街並みのデザインに現れていた。刺激的な装飾から、古典的なデザインまで、新旧のモチーフが違和感なく融合している文化はこの都市持つ多様性を感じさせる。
  イメージの奔流を楽しみながら、小夜は素直にこの世界を楽しめる自分を感じていた。昔、入り込めない世界のように外から眺めていたこの風景の中に、自分たちも溶け込んでことがこの上もなく幸せに思えた。おもちゃ箱の中にいるようだ、と小夜は思った。ハジが穏やかな目で自分を見つめていることを意識する。一段高いその顔を振り仰ぎ、視線を合わせて微笑み合う。何も言わなくてもこの高揚感を分かち合ってくれる。それが何よりも嬉しい。くすぐったいくらいの感情。その感覚は、『動物園』の昔を思い起こさせてくれた。薔薇園の香り。木々のざわめきと鳥のさえずり。足元の珍しい花々。あれもジョエルの趣味だった。思い出の中から遠く自分の名を呼ぶ声が聞こえる。ジョエル。そしてハジ。いつもいつも一緒だったハジ。少年から青年へ、姿は変わっても変わらないものもある。あの新緑の、永遠の夏の時代。
  途中地下鉄を使いながらも二人の歩みがミッドタウンからダウンタウンへ移り、ソーホーとチャイナタウンを通り、やがてウォール街の喧騒を抜けて次第に中心部から少し外れた川向こうへと移動してくると、流石に興奮が収まってきて小夜はすこしばかり歩調を落とした。
「疲れましたか?」
「ううん。30年経つと色々なものが変わってしまうと思っていたけれど」
  中心地には最新デザインの主なモチーフである流線型がふんだんに取り入れられた建物や、洗練されたインテリアで飾られたショップが立ち並んでいたものの、こうして少し離れた所に来てしまうと以前とほとんど変わらない情景が目に付く。あまり掃除された形跡の無い路肩と、そこにだらしがなく放置されている良くわからない物体や、ひしゃげて投げ捨てられた金属片は、中心地よりもむしろ人間の存在を身近に感じさせ、確かに生活している人々がここにいるのだと思えて少女は目を細めた。むかし皆で拠点にしていたアパルトマンの風景に良く似た光景。それが懐かしかった。実際の時間は30年前。だが眠りについていた小夜にはついこの間のことのように思える。
  ディーヴァとの永い闘いの決着の地で、自分の中にどれほどの悲しみが湧き上がるのかと思っていたのに、耐えられないほどの悲しみの代わりにあったのは闘いの日々を支えてくれた仲間たちとの思い出だった。その記憶も小夜にとっては涙が出るほど大切で愛おしい。単なる武器だった自分を、家族と言って受け入れてくれた。仲間と言って支えてくれた。
  少女の目が柔らかく緩むのを見て、ハジも自分の心配が杞憂に過ぎかったと思った。小夜にとってのディーヴァは、その苦悩の源であるとともに、その反面、確かな絆が二人の間にあるということも青年にはわかっていた。だからこそ二人諸共に滅びる道を小夜は選んで百年もの間走り続けてきたのだ。そのディーヴァを自分の手で滅した終焉の地において、小夜の心が悲しみや虚無感に囚われて苦しむのではないかとこの青年は心配していたのである。だがこの地が少女にもたらしたのは、穏やかな悲しみと、思い出の懐かしさだけだった。そのことを青年は名付けることのできない何かに深く感謝していた。
  だが喧騒を抜けて人々のざわめきが聞こえない場所にたどり着いたとたん、少女がはっとなって鋭く周囲を見回した。穏やかだった侘しさが、次の瞬間緊張に満ちたものになっていた。風に乗ったかすかな響きが鼓膜を揺り動かす。こんな所で聞こうとは思っていなかったもの。遠い過去からの囁き。
――歌声。
  少女にははっきりとそれが聴き取れた。少女に付き従う黒衣の青年にもまた。
「ハジ・・・・。これは」
  少女は耳元に手をやって呆然と黒から鳶色に変化した瞳を見開いた。思ってもいない鋭さで記憶が胸の奥深くをつき動かす。その手に刀の重さが甦ってくる。今まで感じていたやさしい世界がその瞬間、現実の鋭い牙をむき出すようにして自分に襲い掛かってきたような気さえした。
「小夜」
「ディーヴァの・・・・」
  かすれた声で言いながら、小夜の胸は痛みと郷愁にかき乱されていた。懐かしいあのアリアに似た響き。遠い時間の中で失われてしまった歌。あの歌を追いかけて、追い求めて――。呪われた、美しい、翼手の本能そのものを体現していた妹。その至高の歌声。
「ディーヴァ・・・」
  少女の足がふらりとそちらに傾いた。
「小夜!」
  駆け出そうとする少女の身体を青年の腕がしっかりと拘束する。少女は力なくもがいた。
「あれはディーヴァではありません」
  ディーヴァではありえない。肚の真ん中。ディーヴァの剣を受けた場所がきりりと痛んだ。肉を断つ感触が甦る。ディーヴァの胸に刃を突き立てたのは確かにこの手だった。腕が折れ、足が崩れ。ゆっくりと、ディーヴァは灰色の結晶になっていった。いくつかの邂逅の中で、すべてを終わらせるために追い続け、求め続けてきた妹。最後に彼女が見つめたのは小夜ではなく、自分が産んだ双生児の娘たちだった。
「そうだよね、ディーヴァはもういないんだよね・・・」
  少女の頬から涙が零れ落ちる。オペラハウスの跡地でも、ニューヨークの喧騒でも感じなかったディーヴァとの想い出は、小夜の中ではその歌声に結実されていた。それが堰を切ったように溢れ出てくる。遠い『動物園』での扉越しの出会い。青い薔薇。焔の中に血に満たされて立ちはだかっていたディーヴァ。鏡に映したように自分に酷似したその姿。
  近くて、とても遠かったあの子。もしかするとあの運命を辿るのは、自分だったかもしれないのに。どうしようもなかった運命が淋しくて、つらくて。まるで皮膚一枚でディーヴァと繋がっているように、自分とディーヴァが本当に姉妹だったと感じる時があった。
  真逆の血を持つことに象徴されるように、ディーヴァと自分が殺しあう運命であったならば、どうしてあの時出会ったのだろうか。たった一人。動物園の中で出会った友達。愛しくて、でも自分のそれまで持っていた世界の全てを破壊して、去っていった妹。憎しみではなかった。憎しみよりももっと深い感情。その奥深い感情で二人は繋がっていた。だからこそ。この世とは決して相容れない存在ならば、共に滅びの道を行こうと思ったのだ。
「小夜・・・」
  青年の声に痛みの色が浮かび、それが小夜を現実に引き戻した。悲しみで一杯になったような瞳のまま大丈夫、と少女は言葉を形作ろうとして、唇を震わせながらそのまま黙ってうつむいた。自分の感情のすべてをハジが見つめている。
「小夜。あの声の主を探しに行きましょう」
「え?」
「ディーヴァの歌声は翼手に覚醒を促します」
  何十年か前にばら撒かれたサンクフレシュ製の食品が、どれくらい人類という種に浸透しているかも不明だった。あれは人間のDNAに作用して、本来地球上の生物にはないはずの第五塩基を目覚めさせる起因となるのだ。本当にディーヴァの歌ならば何が起こるのか。それは不確実だからこそ、より大きな不安材料となっていた。もしも、翼手が出現するのだとしたら・・・・。翼手を狩り続け、切り伏せ切り倒してきた百年。望む事すら許されず。
  それが自分の宿命だとどこかでささやく声がする。
「わかった。行こう、ハジ」
  ディーヴァとの闘いの年月と同じように硬い声で少女は言った。






以下、続く。。。



2009.06.20

   ちょっとだけ連載させていただきます。どうなるかわかりませんが、今のところ「ハジ小夜」話では一番長くなる予定のお話。ネタが生まれればこういう感じのお話を創るのが好き。ホラーでもミステリーでもないのですが。『BLOOD+』の話の後でも、その時の影響が二人の人生にまったくない訳ではないのであって、それに二人してどのように立ち向かっていくかを書いてみたい。というのが私のサイトの基本方針です(アニメ本編のSSも良いのですが、それは他所様の素敵SSで十分堪能できますので)。だから幸せな短いSSもあり、こんな風に事件性のあるSSもあり。事件性のあるSSだとストーリーが創れるので、ちょっと長くなってしまいます)

   ハジ小夜なのに、甘い雰囲気もキスシーンもございません(断言!) 私が創る話ったらこんなもんです(色気なし)。。大体7話~9話位続くと思われますが、よろしければしばらくお付き合いの程、お願い申し上げます。しかし。困ったのはD弾頭が落ちた場所。オペラハウスピンポイントは本当は難しいだろうとか、すぐ近くのリーンカーンセンターとか、ジュリアード音楽院も消失しただろうし。どこを中心として発表されたのだろうか、とか。思わず大筋と関係ないところでぐるぐる考えてしまいました。
   本当はこの前日譚もあるのです。こちらはもうちょっと甘い雰囲気で。短めの可愛い話。連載途中か、連載後か。いつか発表できたらいいなあ。。。と思っておりますが。やっぱり予定は未定です。

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