お正月を過ぎるといつの間にか、沖縄でもチョコレートの店が増えていた。街では色とりどりのラッピングと、安価なものから高価な海外ブランドのものまで様々なチョコレートが店頭に並ぶ。特に滅多に見られない高級ブランドの出店には、年齢問わず女性が列を作って群がっていた。その長蛇の列、もしくは争奪戦に、少女は目をぱちくりさせた。
   もちろんバレンタインデーという言葉を小夜は知っていたが、実際に自分の身近で意識したのは戦いが終わって30年後に目覚めてから。つまりこれが初めてだったのだ。確かに宮城家に引き取られてから最初の2月に、カイがかなりの量のチョコレートを女の子たちからもらってきて、つまらなそうにOMOROのテーブルの上に投げ出していた記憶がある。リクも「うわあ、にいちゃん、すごい!」と言っていたくせに意外に手堅く何人かから貰ってきて、それが如何にも手作りっぽくて美味しそうで、おとうさんが「量と質か・・・」とつぶやいていたことを思い出す。
   自分はというと、妙に冷静に『どれが美味しそうかな・・・』などと考えていたっけ。とそこまで考えて小夜の思考は止まってしまった。自分にはバレンタインのイベントを経験した覚えが(他人がもらってきたチョコレートを食した以外は)ない。30年前はそれで良かった。では今回は?
   少女はちらりと傍らに立つ青年を見上げた。こういうときのハジは何を考えているのかわからない。チョコレートが欲しいのか、それともそんなものは別に必要ないと思っているのか。そもそもシュヴァリエは食事を摂らないのだ。
   小夜は困ってしまった。じゃあ、自分はハジにチョコレートをあげたいのか、と言われると何だか妙に照れ臭いような気がするし。何よりも。どうもなんというか・・・。こういうイベントは自分たちとは違う世界の出来事に思えるのである。
   どうしたらよいのか思案にくれて立ち止まっていると、ハジが穏やかな声色で彼女をうながした。
「小夜。行きましょう」
   少女ははっとなったが、一歩先に立った青年の後姿に向かって勢いよく歩き出した。




   バレンタインデーの当日。OMOROの亭主となっているカイの何か言いたそうな顔や、30年以来の友人たちの心配そうな顔を見つめて、小夜はなぜ皆がそんな顔をしているのかわからなかった。彼女はきちんとみんなの分、チョコレートを買ってきたのだ。
「だって、そりゃあ、なあ・・・・」
   取りあえず貰ったものに対して礼を言った後、カイがいつもと違って何か歯切れが悪い。
「念のために訊いとくが、おまえ、ハジには――」
   とカイが言いかけたのと、黒衣の青年がOMOROの戸口に小夜を迎えに姿を現したのは全く同時だった。なんてタイミングだ。とOMOROの亭主は内心ほぞをかんだ。
   こうやってチョコレートを買ってきてくれたのはありがたい。だが近すぎて見えなくなっていることもある。カイには小夜が肝心の、いつも傍らにたたずんでいる青年へもチョコレートを用意しているのかどうか、甚だ不安だったのだ。
「小夜のヤツ。まったく妙なところで鈍感って言うか、抜けているって言うか・・・」
   なんで俺がこんな心配まで・・・。口の中でブツブツ言いながら、それでもハジに向かって
「ハジ・・・・。おまえ、さ――」
   と言いかけて。その静かな顔を一瞥したとたん、何だかこんな問いかけが。いや、考えることそのものがバカバカしくなってしまった。この静謐な青年には、『バレンタインデー』という奇妙に華やかなイメージがどうにも似合わない。この青年と一緒にいるときの小夜にもその印象は感染するようで、二人揃ってバレンタインの喧騒とは無縁の雰囲気をかもしだしている。
   カイはとうとうため息をついて、何か用かと問い掛ける青年の言葉に対して
「うん。やあ、まあ。気をつけて帰れよ」
   などと半分以上意味のわからない返事を返すしかなかった。




   OMOROからの帰り道。冬空に茜色の雲がたなびく様子を少女は歩きながらぼんやりと眺めていた。その夕映えの美しさは二人が家路をたどり、二人の家についたときにも続いていた。滅多にない美しい夕焼け。それは家の中にも暖かな光となって忍び込み、少女の影を柔らかく照らし出していた。
   沈む夕日を一人で見るなら、きっと寂しく物悲しく感じられるだろう。それが今は綺麗だと思え、心の中に暖かく火を灯す。この時間を過ごしたことを、こんな時間があったことを憶えていたいと思った。
「サヤ」
   そのとき青年が少女を呼んだ。
「ハジ?」
「これを・・・」
   青年が取り出したのは小さな赤色の包みだった。掌に乗せられたそれを見て、はじかれたように顔を上げる。
「これ・・・・」
   恐らくじっと見つめていたのを見られていたのだろう。宝石のようなチョコレートの包み。少女の顔が最初は驚きに、ついで困ったような微苦笑に、それからふんわりと頬を染めた微笑みに彩られた。
「ありがとう。ハジ」
   それからそれを掌に載せたまま、少女がごそごそと取り出したのは、まったく同じ包装だった。ハジからもらった包みと並べて掌に乗せてみる。
   今度は青年の方が目を見開いた。
「ハジ。前に。私が一人で沖縄で目覚めて。最初に会ったときのこと、憶えてる?」
   眠りの記憶はいつもあやふやで、30年以上前のことが少女にはつい数年前のことに思える。
「夜の校庭で――」
   初めて出会った人のように、背の高い姿。黒々として衣服をまとって。近寄ってきては。銀のナイフが光っていた。あのときから自分の止まっていた時間は動き出したのだ。
   しかし小夜の言葉を聴いていた青年は緩やかに首を振ってそれを遮った。
「いいえ。初めて出会ったのはそのときではありません」
   少女ははっとしたように青年の静かな顔を見つめた。その口元の形作る次の言葉をじっと待つ。
「パークアベニューで。私はチェロを弾いていました。そしてそのとき、あなたが通りかかったのです」
   瞬時に思い出した。ハジのチェロの音に導かれるように閃いた記憶。ディーヴァの塔。開かれた扉。白昼夢。そしてその記憶の断片に、少女は思わず身を乗り出して、植え込みの中にモロに頭から突っ込んでしまったっけ。
「あっ、あのとき。・・・・ハジ。み、見てたの!」
   無様に転がり落ちた自分の姿が最初の印象だったなんて。しかも相手はそ知らぬ顔でそれを記憶している。小夜はそのときと同様、耳まで真っ赤になった。
「もう!そんなことまで憶えてなくていいんだってば」
   悪趣味だよ。そう言いながらハジの方に顔を向けると、珍しく青年が笑っている。いつも浮かべる静かな深い微笑とは異なって、おかしさをこらえているような。人間的な。昔々。まだハジが人間だった頃のような。
   そうだ。ハジの笑顔が好きだった。屈託なく笑っている顔。少年時代から続いている、じんわりと顔に浮かんでくるあの嬉しそうな表情が記憶の中から甦ってくる。


「ハジの笑っている顔が、好きだよ・・・」
   不意にそっと。内緒話をするかのように少女が言った。唐突な言葉に一瞬ハジの顔に驚きが浮かび、次の瞬間真剣な表情で少女を見つめた。
「ずっと。バレンタインデーなんて、関係ないと思ってた。自分の世界とは違うんだって。自分には似合わないんだって。
   でもね。私の中の音無小夜なら。動物園の記憶のない、闘いの記憶もない、初めてハジと出会った音無小夜なら・・・」
   初めてのくちづけで血をもらって。あの時の記憶は後々まで、ドキドキするような思い出として少女の中に残っていた。
「動物園で記憶を取り戻すまで、私はハジのことを意識してた。きっと半分怖かったんだと思う。ハジの中に見えていた過去の記憶が。でも私のことずっと見ていてくれた。見守っていてくれたことだけは、わかっていた。
   時々なんだかドキッとすることもあった。最初に血を貰ったときのこと、思い出すと恥ずかしかった。あのときの私は。きっと初めて出会ったハジのこと、好きだったんだと思う。あの、沖縄の普通の少女として。きっと・・・・」
   だから。これは私の中の『音無小夜』から。私の記憶の中に存在する『音無小夜』。バレンタインデーのイベントが似合う、普通の女の子としての自分から。そう言って小夜は自分が買ったほうの包みを青年に差し出した。
「食べてみて、くれる?」
   ハジが人間の食事を摂取しないことはわかっていた。それでも。――祈るような少女の願いに、ハジは独特の、丁寧な手つきでその包装を開いた。小さな可愛らしいチョコレートがいくつか、そこには並んでいる。そのうちの一つをおもむろに取り出して、青年は口に入れた。
   それは小夜が100年以来、初めて目にするハジの何かを食べる姿だった。普通の食事も、血液すらも、ハジは一切小夜の前で摂り込む姿を見せなかったのだ。
   今目の前で行なっている行為の意味に、胸が一杯になる。
「サヤ・・・・」
   いつの間にか零れ落ちた涙を拭うように青年の手が目元をかすめた。そのまま柔らかく包み込むように抱きしめられ、唇が降ってくる。





   くちづけはチョコレートの味がした。






END



2009.02.04

   バレンタインデー企画なので、いっそコッパズカシイほどのものを・・・。と思っていたのですが、微妙に意図とはズレました。(最初の方、照れ照れで書いていたのがわかる!)
「記憶の中からの贈り物」
   二人の関係って、恋愛関係という範疇には収まりきらないほどの様々な面と深い絆を持っていると思ってますので、バレンタインの話題そのもので書くのはちょいと工夫が必要でした。で。こんな話に。。。。告白シーンとか、チョコ渡すシーンとか。不必要かとも思いましたが、最後にキスシーンまで入れてやって一応バレンタインの命題はクリアしたと思っているのですが、いかがでしょうか??
   ベトナムで、ミンに「キスしたことある?」と訊かれた時、思わずハジの事を思い出しちゃう小夜とか。21話でシフの襲撃直前にハジに抱きとめられて頬を染めちゃう小夜とか。あの辺りは普通の「女の子」の感性だったよね?と思いつつ。
   でも私が書くと萌え度が少ない・・・・(涙)。


   今回はいつも無口・無表情なハジにほんの少しだけ、表情つけてみました。闘いから解放されても一度獲得したキャラクターの個性って、変化しないよね、と思っているのが私の書くハジというキャラ。こんなんでもいいですか~~(←いつもながら、誰に同意を??)


   ちなみに、バレンタインデーのやり方には色々とあるとは思いますが、ハジはバレンタインデーの意味を考えて小夜にチョコレートをプレゼントした訳ではなく、あくまで小夜がじっと。そのチョコレートを見ていたのを、「小夜は本当はこのチョコレートが食べたいんだな」と判断して購入したのではないか。と思ったり。
   二人とも相手が見ていない別々の時に、同じチョコレート購入をしていたというオチで、よろしくお願いします。
   

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