小夜からの手紙がハジの手元に届いたのは、少女が眠ってからしばらく経っての事だった。
「あいつが時間を置いてからおまえにわたしてくれと言っていたから」
   手紙を渡しながら、すまなさそうにカイが言った。見慣れた小夜の筆跡は日本語だった。白い封筒の真ん中にイマドキの高校生特有の可愛らしい字で「ハジへ」と記されているの見て、思わず青年の白い顔に微笑が浮かぶ。電子媒体を使わずに、手紙というのが小夜らしかった。封を切ってみるとやはり小さな手書きの文字で




   眠りの場所が見えるところ。太陽の向かい側。花を摘む場所




   とだけ書かれていた。他に何の説明もない。裏を返してみても何か記されている形跡はなかった。表情の乏しい顔に疑問の色を乗せてカイの顔を見つめると、言付かった当人であるカイも頭をかきながら困ったように言う。
「俺も言付かっただけだからなあ。とにかく後で渡してくれればいいんだとしか言わなかったから」
   それから、待てよ、とつぶやいた。
「そう言えば、いつだったか何かの苗木を植えるって言って、色々とやっていたなあ」
「小夜が?」
   そうだ、思い出してきたぞ。とOMOROの亭主は腕組みしながら続けた。
「あいつがまだ目覚めてそんなに経っていない時だった。とにかく何か自分が眠りに就いた後まで残るようなものがいいと言い出して」
   少女は自分で苗木を見つけてきた。
   目覚めの最初。30年の社会的変化に戸惑って、生活様式に慣れるまではほとんどをハジに頼るようにしていた小夜。本当に、当初はハジが居ないと心細くてたまらない様子だった小夜。そんな少女の必死な努力を感じ取り、青年の目がほほえましさに緩む。同時に一時期彼女が自分に隠すようにして何かをしていた事をも思い出した。そのときは「そのうち話すから」という小夜の言葉と、それからすぐ後のOMOROや自分たちを巻き込んでの地域のイベントに忙殺され、そのままになってしまった。小夜はそれ以上その事について言及しなかったし、彼は少女が自分に言わないことをあえて問いただすつもりもなかった。わずかに青年はそれを残念に思ったが、小夜は自分が眠った後に青年に教えるつもりだったのかと納得もする。
「そりゃあ俺だって荷物の受け取りをやったり、場所を貸してやったりしたけどな。小夜のやつ、肝心な事は何ひとつ、しゃべらなかった。場所探しとか、ほとんど全部自分でやってたさ。植えるのだって一人で荷物を担いでな」
   少女の様子を語りながらカイも懐かしさに目を細めていた。カイにとっても小夜に会えるのは30年後。翼手と違って寿命を持つ人間であるカイは、その時まで健康で、無事にいられるかどうか、わからない年齢になるのだ。
「わかりました」
   ハジは静かな声色で、すでに壮年になった少女の兄に向かって言った。
「わかったって。それだけでかよ」
   カイが心配そうに言う。カイにとっては、少女が残したのは一読しただけではわからないような情報でしかない。
「眠りの場所っていうのは、うちの墓のあるところだとして、『太陽の通り道』? この『花を摘む場所』というのはなんなんだ? なんだってまた、訳のわからん言い方をしてるんだ。ハジ。おまえ、本当にわかるのか?」
「小夜が私にこの言葉を残したという事は、私にならばわかるという事なのでしょう」
「じゃあ・・・」
「いえ。まだわかりませんが」
   さらりと言われたその言葉に、カイはあきれたように肩を竦めてため息をついた。ほんの少しだけ、小夜とこの青年、二人だけが共有するものに、嫉妬とも言えないような小さな何かが掠める。けれども彼はそんな自分の心を笑い飛ばした。ハジにはハジの、そして自分には自分の、小夜との思い出がある。何を羨ましく思うことがあるのか。そして未だに青年のまま時を止めた妹の恋人を見つめて言う。
「そんなんで大丈夫なのか?」
   すると青年はカイの言葉に僅かにうなずくと、チェロケースを抱え上げて店を出て行こうとした。カイを無視するでもなく、穏やかに。まるで空気の流れのように。
「おい、待てよ」
   カイは慌てて声をかけた。まだ肝心な事を言っていない。この二人を受け入れ、ディーヴァの娘達を受け入れることで、カイ自身もこの世界に対して確かな絆を得た。世界は広く、大きくて、何が正しいか正しくないのか、時折わからなくなるときがある。それでもするべきこと、自分の心が正しいと叫ぶことをひるむことなく選びとることを知った。憎しみと怒りを超えて、人間として許すこと、受け入れることを知ったのだ。
   だからこそ、翼手と人間のひずみの中で変わらずに人間を守ろうとしていた二人のために、自分ができうる限りのことをして支えたい。その思いは30年以上経った今でも変わっておらず、いつの間にかカイにとって、それは自分の存在意義と同義語になっていた。それとともに胸に去来するのは、遠い日々の懐かしい響きだった。若々しい、少年時代の遠い記憶がもたらす郷愁。
「あいつ、おまえのために植えたんだ」
   振り返った青年の眉が疑問に僅かに曇る。もう五十路にもなる男がいつの間にか少年のように懸命に、青年に向かって声を張り上げていた。
   どうしても伝えたいことがあった。
「そうだ。そう言っていた。あいつ、自分が眠っている間におまえがどんな風に過ごすのか、心配していた。だから眠った後に。自分が眠っていても、おまえに届くようなものを贈りたいって。おまえに知らせるのは眠りに就いた後だって、確かにそう言っていた」
   ハジはほんの少しの驚きの色を浮かべ、カイを見つめて目を細めた。ゆるやかに唇の端が変化する。青年がその瞼を軽く閉じて黙礼した次の瞬間、その姿が掻き消えた。
   青年のその時の表情。それが微笑みの故である事を、カイは後から気がついた。




   夜、人目につかないように翼を使って飛べば、もっと早くその場所を見つけられたかもしれない。しかしハジは小夜の、言葉にしなかった想いの分だけ、自分の足で歩いてみたかった。カイの言っていたとおり、眠りの場所と言うのは宮城家の墓所なのだろう。そこが見えるところは無数にある。だが青年には時間だけはたくさんあった。一歩一歩小夜が歩いたかもしれない道を辿ってみる。そうすると、少女の微かな気配が間近に感じられるような気持ちになった。自分の名を呼ぶ軽やかな声も。
   やがて小高い丘のようなところまでやってくると、ハジは少女の手紙を取り出して再び読み直した。ここからはまっすぐ南向きに宮城家の亀甲墓のなだらかな曲線が見えている。太陽の向かい側というのはこの方向で間違いはないはずだった。ここから墓所に連なる場所のどこかに小夜は樹を植えたのだ。青年はその方向を辿って歩き始めた。道がついていないところは迂回して、木々の生えているところは足を止めて、一歩一歩丹念に探してみる。
   昔、サヤを求めて彷徨っていたことを思い出した。当てもなく、ただ求め続けてさ迷い歩いた日々。あの日々が永久に続くとも感じていた。光の見えない、絶望と悲哀に充ちた時間。星々の下をただ一人、凍てついた空気の中を歩んでいく。今も求め続け、歩き続けることには変わりはない。しかしその歩みの意味はあの時とは異なっている。その穏やかに満たされた時間は、自分だけに許された『待つ』時間だった。冬の中、春のひと日を焦がれるように、豊かに蓄積された時間が巡りをもたらす。

   やがて青年は一つの場所で歩みを止めた。




   その道は目立たなく、あまり良く手入れもされていないようだった。申し訳程度に下草が刈られ、ところどころに低木の茂みがある。そんなに大きな樹もなく、しかしどことなく見たことのあるような、懐かしさに駆られる雰囲気を持った場所。そこを見たときに、ああ、この場所なのだ、という想いが胸の中に落としこまれるように生まれた。
   小夜が選んだ場所。それは沖縄の強い太陽と空気の下の、鬱葱とした茂みの間にあった。その濃い生命力の発現は、一見動物園の雰囲気とはまったく異なった空気を醸し出していたが、緑の中の蔭の具合と下草の湿った様子とは芽吹く前の草木の繊細な息吹を感じさせ、まだ少年だった時代によくサヤに花を摘みに連れて行かれた場所を思い起こさせた。
   生き生きとした笑顔が似合っていた少女は、多少強引に少年を自分のお気に入りの場所に連れ歩いたものだ。動物は少女に懐かなかった。代わりに少女は植物を愛した。鮮やかな色彩の花を摘み、時には子供たちがよくやるようにその花で冠を編む。時間が止まったような、あの頃の思い出。動物園から離れた後はそんな小さな記憶の欠片さえも現実味を帯びなくなり、木々は獲物を狩り出す場所か、自分たちが潜む場所に変わり、耳元には冷たい風の記憶だけが残るようになった。あるいはサヤの眠っている時期には、少女の寂しげな呼び声か、遠く離れた記憶の残滓が漂うだけの木霊の名残り。だが今はその記憶こそが遠くのものになった。ハジは肩の楽器を担ぎなおすと、その場所に足を進めた。
   思い描いたとおりのものがそこにはあった。当初よりは周辺の木が育ったのか、それほど日当たりが良いわけではなかったが、根付くには十分な時間が経過している。そこだけ、周辺の木々と異なって、まだ若木と言ってもよい一本だった。ほっそりした幹にも、枝振りにも瑞々しさが溢れている。だがそれは大地にしっかりと根を下ろしていた。
   植えられて三年。その樹はすでに彼の背丈を少しばかり追い越し、涼やかな木陰を作るに足る大きさに成長している。青年は優しい目でそれを見つめた。丁度時期なのだろう。小さな花がいっぱい咲いており、優しい香りを運んでくる。八重咲きの花弁は薔薇の花にも似ていた。まだそんなに大きくはないが、いつかきっと、遠くない未来。この樹はさらに生長し、枝葉を広げて大きな木陰を作るだろう。そして30年後。また小夜の目覚めがやってくる。
   青年は木肌にそっと手を触れてみた。ごつごつとしたそれは固かったが、それでもそこを拠り所とする無数の生命を感じさせてくれる。その中に命の循環のエネルギーが息づいているのだ。青年はそっと目をつぶってみた。
   木々のざわめきが聞こえる。まるで潮騒のように。闘争の日々、あるいは小夜が眠っている日々。すべてが苦い歓びと、真っ黒な苦しみに彩られていた。喜びは小夜と共に。そして苦しみは彼女の負う定めに。だが二人の女王の血闘が終わった今、それらは時の向こう側に存在する記憶に過ぎない。
   遠い昔に「動物園」を出て以来、このように心穏やかに健やかな心持ちでひとつの音に聞き入っていたことはなかった。たいていは少女の哀しみを想い、その運命を共に享受することに思いを馳せていた。けれども今ここに。自分の主であり、愛する者である少女の贈ってくれたもの。
   温かな想いが胸に染みてくる。それは言葉に言い表すことのできない満ち足りた心地だった。
――こうしてあなたはすべてのものを満たしてくれる。――
   元より望むものは少なく、その辛苦に比べればささやか過ぎるものだったが、青年は30年前ついに己の望みどおり少女の「明日を望む姿」を見ることができた。そして今。闘争の運命から解き放たれた少女は、彼に彼の望む以上のものをもたらしてくれている。
   永遠に存在するものはこの世には無い。その事を誰よりもよくこの青年は知っていた。昨日まで当たり前のようにあったものが、明日には失われている。そちらの方が当たり前なのだ。この樹木もいつかは失われるのだろう。しかし、こうして触れていると彼にはわかる様な気がする。小夜が自分に伝えていきたかったもの。ともに過ごす時間だけではない。離れていても、決して失われないものがある。時間が隔てられていても、伝えられる想いがある。
   目を開けてみる。木陰の向こうに白い雲が一筋だけたなびいていた。空が青い。と青年は思った。すべてのものは繋がっている。時間も空間も超えて結びつけられているものがある。これはその一つの形なのだ。


   花の香りが漂う中、やがて色濃き緑陰の下から、優美なチェロの音が響いてきた。





END



2008.11.20

   以前書いたSSの「夏空」のハジバージョンと言えるもの。小夜がハジに贈ったものを、彼が受け取ったときの対応を・・・。私なりに書いてみたものです。肩の力を抜いて書いたらこんな感じになりました~。という典型的なもの。時間による不在が、その人にとっての不在になるかどうか。私はNOと言いたいので。
   背景に上手い樹の写真が見つからなくて、楓になってしまいました・・・・。沖縄に楓って・・・。自分のセンスの無さに涙・・・・。

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