雨が降りそうな天気だ。外を見ながら少女はそう思った。夕暮れを一足飛びに追い越して、夜の始まりがやってくる。こんな日は漠然とした不安ばかりが胸の中に降り募る。押しつぶされそうな重い気分は、夕食を終えても、熱いシャワーを浴びても、晴れなかった。
  だからだろうか。その日はなかなか寝付くことができなかった。あちらこちらと身体の向きを変えては、そのたびに寝苦しさに身動きし、ため息をつくと、とうとう小夜は起き上がった。
  外を覗いてみると、ほとんど何も見えなかった。ただハジの弾くチェロの柔らかな音色だけが少女を慰めるように響いている。小夜は音も立てずに部屋を出ると、音の源へと歩み寄った。
「小夜」弾き手は少女の姿を認めると、手を止めて立ち上がった。
「起きていたのですか」
「うん・・・ちょっとね」
  そう言いながら少女は窓辺に寄り、薄昏に沈んでいる外を眺めた。家から漏れる明かりに周辺だけは薄闇に覆われ、墨色の景色は奥に行くにつれ、深い闇へと変わっていく。辺りは重苦しい静寂が支配していた。
  青年は無言だった。少女もまた。そうやって二人してしばらく黙っていたが、やがて少女がぽつりとつぶやいた。
「眠るのがね、怖いの」
「小夜・・・」
「三年。三年経ってしまえばいつまた眠りに落ちていくか、わからない不安がやってくる。今日やってくるか、明日なのか。
――その日がやってくるのが怖いの。とても」
「私がいます。いつでも必ず」
「わかっている」
  目覚めている時も、眠りの間もハジが傍にいてくれることを疑ったことはなかったが、自分の記憶は一旦すべてを眠りに消される。それが怖い・・・。この恐怖はきっとハジにもわからない。少女はかすかに顔をゆがめた。
「目覚めた時。私はハジから血をもらうまでは、眠りに就く前の私じゃない」
  記憶を持たず、赤子のように。まるで誰にでも付いていく鳥の雛。吐き捨てるように小夜は思った。前も、この前も。その前も。
「サヤ。それでも。あなたがあなたであることに変わりはありません」
「違う。そうじゃない」そう言ってから、小夜は顔を上げて青年の目を見つめた。
「私はね。一旦忘れてしまうの。眠りの前に一緒にいた人たちのことも。自分が何者なのかも。そして・・・。ハジ。あなたのことも。
  でも。でもね。私は・・・。もう二度と。ハジの事、忘れたくない」
  少女の目は痛みよりも何かもっと切実な思いに満ちていた。願いのような、祈りのような。青年は黙って少女の次の言葉を待った。風が木々の葉を揺らしている。震える声で少女はささやいた。
「憶えていたいの。眠りの中に落ちても」
――だから、今夜。一晩中傍にいて。――
  少女の瞳が薄赤く揺れている。少女の願いが何なのか。すがるような少女の視線にそれを理解し、だが青年は動かなかった。その蒼い目が痛ましさを含んで少女を見つめている。眠りの無い永い年月のうち、たった一人。孤独を癒してくれる存在を、この体温を失った胸に熾火のように抱き続けてきた。その少女の目の中に存在する願いに息がつまる思いだった。抱きしめるように寄り添って、少女の心のままに生きてきた。自分自身より大切な少女。けれども。
「小夜・・・」 言葉はかすれたようなささやき声になった。愛の言葉にすらも傷つくようなこの少女に。
「私はあなたのシュヴァリエです」
  シュヴァリエなのです。そのとたん、少女の目に言いようのない苦しみと悲しみの色が浮かんだ。
(・・・私が・・・ハジを・・・)
  少女の視線が青年から逸らされた。くちづけを交わした。愛の言葉ももらった。それだけでは、自分がハジをシュヴァリエにした罪は消えることはない。わかっていた。人間を翼手にすることがどれほど罪深いことか。リクはその結果ディーヴァに滅ぼされ、そしてハジは――。
  自分のために精神的にも肉体的にも傷ついてきたこの青年。起きているときは無償の献身を捧げられ、そして眠りについたときには孤独に突き落とす。その自分がこれ以上をハジに望むのは間違っているのだろうか。多分そうなのだろう。
「ごめ・・ん・・・」
  だが謝罪の言葉を打ち消すように、青年の手が優しく少女の頬に添えられた。
「小夜・・・・。憶えていますか。昔、私は言いました。あなたのシュヴァリエになって後悔したことはない、と」
「ハジ・・・」
「小夜。私は変わりません」
  優しい目。優しい言葉。熱情と見まごうほど強い視線。
「でも。私は・・・」
  涙が出てきた。受容と拒絶の狭間で、がんじがらめになっているようで。すぐそばにいるというのに、今ほどハジを遠くに感じたことはなかった。シュヴァリエという存在であることがハジを少女に一番近しい存在にし、同時に遠い存在にしている。矛盾と混乱と。この刃物のような一線をどうやったら越えていけるのか、小夜にはわからなかった。
「ハジ。私は・・・ハジがシュヴァリエだから傍にいて欲しいんじゃない」
  触れるたびに零れ落ちるものを救い上げるように小夜はささやいた。強制でもなく同情でもなく。ましてシュヴァリエだからでもなく。この胸を割るように必要としているもの。
  いたわるように触れてくる手が慈しみの心を伝えてくる。ハジの優しさがつらかった。自分の我侭だともわかっている。でも。もしもこの気持ちが自分のひとりよがりなものだったなら、今どうしてここにいられるのだろうか。
  少女の頬を伝う涙を青年は目を見開いて見つめていた。胸の中を既に慣れ親しんだものとなっていた痛みがかすめていく。
「小夜・・・」
  少女の紅い目は涙に揺らぎながらもまっすぐに彼を見つめていた。不意にその小さな手が上がった。微かに震えながら細い指先がハジの頬に寄せられる。触れるか触れないかの接触が、確かめるようにその頬を辿ってゆく。何度も、何度も。その感触に青年は自分の胸の奥から予期せぬ激しい感情が競り上がってくるのを感じていた。それは少女へのいたわりの心と正反対を成していながら、ともに小夜への想いとしては同じ側面を持ち、この百年の間、意識もせず触れもせずにいた感情だった。自分の中に在ることさえも気がつかなかった感情。その嵐のような自分の一部に青年は戸惑い、そこから動けなかった。
「ハジ・・・」
  少女が青年の名を呼んだ。甘く。抗いがたく。そんな風に切ない目をして。身体中が慕わしさと激しい感情とに引き裂かれそうになる。


  一方、少女は青年の瞳の中に、熱情と混乱と、恐れの色を読み取っていた。そして憂いの色も。自分の望みがハジを苦しめるなんて・・・。しばらく忘れていた自分自身の存在の呪わしさが甦り、少女は痛みの色を浮かべながら、手から伝わる甘い感触から身を捥ぎ離そうとした。
  だがそのとたん、思わぬ強い力で肩を引き寄せられた。穏やかで控えめとすら言えるハジが、こうして強引とも取れるしぐさで小夜を腕の中に閉じ込めるときは、少女が慰めを必要としている時であり、その優しさが今はひどく苦しかった。
「ハジ・・・」腕の力強さを意識しながら小夜はささやいた。
「慰めないで・・・・。お願いだから・・・・」
  慰めが欲しいんじゃない。同情も。身じろいで、身体を起こそうとすると無言のまま、さらに強い力で押し付けられた。
「いやだっ」
  この場から消え去ってしまいたい。慰めも同情もあまりに惨めだった。抗う少女の身体がさらに深く抱き込まれた。
「小夜」静かな低い声が頭上から降ってくる。
「慰めではありません」
  その腕の中で小夜は瞬きした。




  息を止めたように動かなくなった肩を抱きしめて、青年は痛ましい思いに揺れていた。この少女の無垢さに、ひたむきさに、自分の方こそ慰められてきたのだ。その少女の無垢を傷つけることが恐ろしかった。少女の願いは、少女を自分のことよりも大切に想う青年にとって二律背反的なものでもあったが、同時に彼は自分の中の情熱をもはっきりと自覚していた。今ほどそれを感じた事は無かったのである。
  そして少年時代の、欲望に曝された記憶。曝された痛みと同じものを何も知らない少女に自分が与えてしまうことが、とても恐ろしく、つらかった。ましてや自分の欲望の中に引きずり落とすことも。こうして腕の中に固く抱きしめていられれば、それだけでいいはずなのに。少女が望み、かつ自分の中にもある欲望をどのように位置づけていいのか、彼にはわからなかった。
  その時、少女がおずおずとしたようすで腕を回して青年の背を抱きしめた。
「ハジ・・・」
  少女の甘やかな声に、青年は細い肩を抱きしめたまま固く瞑っていた目を見開いた。拘束が緩み、腕の中で少女が顔を上げる。少女の目は真紅に染まっていた。涙に飾られた、溺れそうなほど美しい、輝くあかの瞳。
「お願い・・・」艶やかな唇が懇願を形作る。
「連れて行って」
  その一瞬。一瞬の出来事だった。たった一言。その言葉の中にある欲望の欠片もない純粋な願いと、不安も恐れもすべて超えて差し出された手の儚さに青年は息を呑み、同時にその願いの深い部分にある意味を悟り、自分の持つ記憶の痛みが薄れていくのを感じ取った。少女が必要としているもの。それを他ならぬ青年に望むということが、彼の中の恐れと苦しみを不思議にも静めた。
  波のうねりのようにいとおしさが寄せてくる。その中で、青年は壊れ物を扱うように小夜を抱き上げた。彼女は願うことそのものによって、青年の中の忌まわしい記憶に触れることなく慰めてくれた。震えている少女の細い肩を抱きしめる。
  そして静寂。




  静けさの中でやさしく寝台に下ろされた時、その手が一瞬強く肩を抱き締めるのを感じて、初めて自分が細かく震えているのを小夜は知った。なぜこんなふうに身体が震えるのかわからない。自分が望み、欲していることなのに。まるで未知の何かが自分を留めているようで、この一歩を踏み出すのがとてつもなく重くて。
  それでも――。
(憶えていたい。こんな私だけれども。できるだけ小さなことも。こうして肌を滑る衣服の感触も、胸の鼓動も、何もかも)
  すべてが眠りに浚われても、その向こう側に確かに待っていると信じたい。それを確実に感じ取るために、この一瞬にすべてを込めて、少女はそれを肌身に刻み込もうとしていた。だからこそ、こうして青年は少女の手を取ったのだ。
「小夜」
  その時、一度だけ青年が少女の名を呼んだ。その声の中にある熱のこもった響き。その目の中にある常に冴え冴えとした色が、今は鋭く燃えているように見える。
(怖いくらいの目をしている)
  小夜は最初に交わした深いくちづけのことを思い出した。あの時のハジもこんな目をしていた。喜びと苦しみが交じり合たような、それでいて揺るがない目。引き寄せられるように唇を合わせ・・・。
  重ねた唇がさらに深くなったとき、意識せずに身体がぴくりと震えた。それまで血を与えられたとき以外、あんな風に唇を交わしたことはなかった。追ってくるように。切迫感とある種の意思を込めて。血を与えるという言い訳の介在しないくちづけは小夜の身体に今までに無い震えと戸惑いをもたらした。肉体の接触の激しさに、絡め取られ、深く引き出されて動くことも呼吸することもできずに微かに身じろぐと、ようやく彼は唇を放し、浅い息を繰り返す小夜をその蒼い目で見つめた。胸が詰まって涙が出てきた。それを見ながらひるむようすも慰めの言葉もなく、ただ彼は小夜の頬を伝う涙に唇を寄せただけだった。
  その時のハジを思い出しながら、今の彼はあの時に見せた姿とよく似ている、と小夜は思った。揺るぎなく。容赦なく。熱のこもった眼差しがまぶしくて、小夜は目をそらした。あの時の深いくちづけの記憶が甦り、唇がわななく。
  不意に胸の中におそれのようなものが湧き上がった。少女はうつむきながら目を閉じて肩を引いた。闇の中で自分の呼吸が意識される。何故か身体が冷たかった。震えが止まらない。




  震えている手に白い手が重ねられ、持ち上げられたその甲に冷たい唇がされた。色の薄い唇が再び少女の名を呼び、青年の左手が少女の頬に添えられる。その手に誘われるように、自然と少女の身体が青年の方に向いた。思い切ったように伏せていた目を上げると、青年の瞳が見える。その中に少女は過ごしてきた歳月の過酷さを見た。温度の無い彼の熱を。激しさを。想いを。そしてその中に少年の頃のハジをも見出して、小夜は瞬きした。変わらない彼の本質。そして少女の記憶を超えて静けさと深さを併せ持つようになった目の色。
  見つめ合いながら、青年の手が少女の肩を抱き引き寄せた。ひんやりとした腕の中にすっぽりと納まりながら、小夜は身を固くしてただ溶け合う心臓の音を聞いていた。同じように刻まれていく旋律。呼吸の気配。肌の感触。意識と無意識の境目にある柔らかな言葉。
 ゆっくりと横たえられると、シーツの冷たさがまとわりついてくる。感覚は鋭くなっているのに、自分のものではないような身体が不思議だった。そしてハジの蒼い瞳。
  自分を見つめる蒼い瞳を痛いほど感じながら、だが小夜はもう目を合わせることができなかった。息が詰まりそうな想いに全身を震わせて。どこに視線を定めればいいのかわからない。当て所なく視線をさ迷わせれば、青年の白い肩越しに宵闇に沈む窓が見える。いつの間にか雨が降り始めていた。重苦しさが取り払われ、慈しみのように大地を雨が潤していく。満たされた湿度が集約され、水滴となって軒先から次々と滴り落ちる。




  こんな感触があるなんて知らなかった。衣服のない肌の冷たさ。天井が落ちてきそうな圧迫感。青年の身体の重みが肌のすぐ下まで浸透してくる。額に触れていた唇が優しく頬にすべり、耳元を通ったとき、その吐息に直接触れ、小夜は一際大きく身体を震わせた。唇が重ねられる。くちづけは丁寧だが激しかった。深く深く、与えられた唇に、絡め取られる息を満足に返すこともできない。緊張に気が遠くなりそうで。百年以上の時を過ごし、また何度も口移しで血を分け与えられてきたにもかかわらず、小夜は精神も肉体も性的に無垢で未熟だった。未来を切り捨てるのと同様、そんな部分も切り捨ててきたこの百年間。その未熟な感覚が揺るがされ、今。自覚のないままに目覚めを誘われていた。
  怯えているわけではない、と少女は強く思った。ハジが怖いわけじゃない。ただただ胸が詰まっていて。だから身体の震えを止めることができないのだ。ハジの視線が熱いから。少女の眦から熱い涙がこぼれた。
  いつかと同様に目元に唇が寄せられ、今度はゆっくりと頬に下りた。頬を辿り、顎を掠め・・・。首筋を辿る唇と静かな温度の指先を意識しながら、小夜は雨の雫をじっと目で追っていた。
  ゆったりと水滴が大きくなっていく。月が満ちるように。光が満ちるように。自らの重さに震え、体積を身にまといつかせながら、次第に膨れ上がる。産み月の約束のようにぎりぎりまで満たされて。満ち満ちた雫が地球の引力に負け、ついには耐えかねたように下方へ引っ張られる。やがて限界点を超えて落ちてゆくまで。そして音が響き渡る。雨音が響いていく。透明な音。透明な想い。世界をうるおしていく慈雨の響き。
  自分自身の身体の震えも、冷たく感じられる頬も、全身緊張に針のように鋭くなっている感覚も、すべて。この音の中に溶けだして、落ちて弾けてしまえばいい。

  そしてやさしく身体を、最初の感覚を開いていく指先が・・・・。呼吸いきも出来ないほどに――。




  不意に頭の中にハジの奏でるチェロの音が浮かんだ。きっと。音の無い世界に産み落とされたとしても。私はハジのチェロの音を、そしてハジの気配そのものを目印に、きっと生まれなおす。何度も。何度も。そのたびに、私の記憶を新たにしてくれる、それを信じたい。
  奇跡などいらない。ただ確かな絆の手ごたえが欲しい。だから。




「ハジ・・・」
  ささやくような少女の声。
「あなたを、愛している」
  そして・・・。音が降ってくる。少女の音が。




END



2008/09/23

 『BLOOD+』放映終了2周年記念に寄せて。 せっかくの記念ですので、色っぽいものに挑戦!したのですが、なんともぬるい作品になりました。すみません。。 でも甘い感じにはなったような(いや、どちらかというと、切ない感じ??になった)・・・・気がする。
 具体的な表現を使わずにどこまで表現できるか・・・を今回の目標にしたら、こんな感じに。。。。 ちょっとは色っぽくなったでしょうか。――そうです。テーマは初めてでした。なんて難しいテーマに挑戦したんだ~~と、 書き出してから自分で自分の首を絞めていることに気がつきました。最後の方は楽しかったけれど。。。
 色っぽい事が書けない私がどこまで色っぽく書けたか・・・。 本編アニメではどうやら二人はプラトニックだったと言う事でしたので、 その設定に則して基本的に妄想します。(個人的にもその方が萌えますので。想っているのに抑えていたり、自分の気持ちに無頓着だったり、気が付かなかったりするのに萌えを感じる方なので)
 カップリングならば男女二人とも、不器用で初心な感じが好きです。当然二次創作ですから自分的萌え要素を詰め込んでみました。とにかく書いた!書き終わった!!
 ありがとうございました~~
 そして・・・・。ここだけの話。この後日談が裏にup。

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