海は世界のどこへも広がり、そしてまた世々を繋ぐもの




  明け染めの太陽はその茜色をおさめ、眼下に広がる海は紺碧を映していた。大小の波が無数の形状に変化しながら砕け散り、打ち寄せあってはまた引き返す様はいくら見ていても見飽きる事がない。青年の上着の裾を風が吹き上げ、その髪の幾筋かを乱して通り過ぎてゆく。白い飛沫を上げて、張り出した岬の足元に海が押し寄せていた。鮮烈な朝の光が波間にきらめいている。再び新しい一日が始まろうとしていた。夜のうちに溜めていた活力の始動直前のほんの一瞬。張り詰めた空気が快い。眠りを知らぬ彼だからこそ、この始まりの刻が貴重に感じられた。一日毎に時間が過ぎ去っていくのだ。そしてやがて、「時」が巡ってくる。彼にとってすべての存在が光輝くように思える時間が。
  海からの光の照り返しに目を細める。そのきらめきが彼に三十年前の記憶を運んできた。




  あの何もかも焼き尽くすフレアのような閃光を憶えている。終末の光のような。どうやってそこから逃れられたのか、彼にもはっきりした記憶は無かった。ただ焼け付くような思い。小夜の叫び。自分の名を呼ぶ、自分を求めるあの叫び。それだけが世界のすべてを占めていた。
  少女の呼び声がこれほどまでに大きいとは。幾層にも垂れ込めていた闇の中をまっすぐに降りてくる声の無い叫び。応えずにはいられない。あの・・・・。
  そうして彼は意識を取り戻した。

  最初はなぜ自分がここにいるのか、わからなかった。身体が動かせるようになった時、既に「時」が過ぎ去っていた事を知った。サヤは眠りに就いたのだ。三十年という時間が再び間に横たわる。時間の断絶は容赦がなかった。
  青年は良く手入れされた楽器に手を滑らせた。まるで自分の一部のようになってしまった楽器だった。千切れてしまった左手も、左翼も、いつの間にか再生されていて、我ながら翼手の身体の不思議さに他人事のように驚いたものだ。それでもチェロを再び奏でられることはありがたかったし、それは彼に喜びを齎してくれた。小夜が眠っている間の小さなよすが。自分の中に眠る強大な力、翼手の力と比べるとあまりに小さなよすがであっても、彼にとっては大きな慰めとなっていた。これがあるから歩いて行かれる。小夜に繋がる道標のようなものかも知れないと思ったこともあった。
(私のために弾いて――)
  どんな小夜でも必ずハジにチェロを望んだ。そうして長い歳月のうち、いつの間にか思いを言葉にするよりも、チェロを奏でることの方がずっと自然になってしまった。彼の慰めであると共に、主人であるサヤの唯一の慰めでもあったチェロの音。辛い時も、悲しい時も、目を伏せてその音色に聞き入っていたサヤの睫毛の色濃さが忘れられない。
  ゆったりとした時間の中で、目をつぶれば瞼裏に懐かしい面影が甦る。幼い日々。サヤに出会った時。動物園。あの十年はハジにとっても世界から隔離された夢の出来事のようだった。――そしてあの日。自分が人間ではなくなった日。ディーヴァの解放によって惨劇の幕は気って落とされ、サヤはジョエルを失い、動物園を失った。それはサヤから笑顔を奪い。そして、自分はと言えば・・・。
  サヤの血がもたらした変化は、彼に新しい命を与え、力を与えた。人間でない肉体も。人間でなくなったことは奇妙な感覚だった。精神はなんら変わっていないとは思っていても、肉体の変化はそれを嘲笑う。それは血への渇望をもたらし、闘争の力をもたらした。その手を血に染めたのはその時が最初だった。女王の守護たる騎士の務め。血と破壊の情動と共に強大な力に支配される。だがそれはサヤにとって、自分の血脈の呪われた力の実証の一つに他ならなかった。ジョエルを失い、少女にはもう青年しかいなかったというのに。
  あの時から自分を見つめるサヤの瞳に悲しみが消えることはなかった。それでも。傍らに寄り添い、共に歩んできた。たとえ間に三十年の眠りが横たわろうとも、人間以外のものに成り果てようとも、共に歩む三年がすべての定めを凌駕する。声を聴けず、姿も見えず、温もりすら記憶の中にしか存在しなくても、時間の向こうに再び巡り合える、その約束を手に入れたことの喜びは言葉にも言い表せないものだった。少女の悲しみに彩られる瞳を見つめる度に、瞬きもせずにその瞳を見つめている。己のすべて。そう思い定めたのは既に遠くなってしまったあの少年の日だった。長い年月の間に、その想いは薄れること無く蓄積され、いつの間にか青年の在り方の根底になっていった。揺らぐことの無い程の。

――しかし。ベトナムの体験はすべての意味を変えた。
  少女に科せられた運命の大きさは、彼女の眷属となった青年の運命以上のものであった。その血に内在する強大な狂気をまざまざと見せ付けられる。少女の悲しみも、優しい夢の時代の残り香も、絶望すら。すべてを根こそぎにするような狂気の気配に、彼の中にはありうべからざる恐怖が湧き上がった。これが翼手の闘争の本能。少女の人格を凌駕する灼熱の狂気。それはかつて自分自身も翼手の本能に身を任せたからこそ解かる、人としての精神を超えた恐ろしさだった。女王の、あってはならない狂気の相に動くことができない。そして自分の血の何かがそれに共鳴している。
  どうにもできない現実がそこに存在していた。少女を救うことのできない自らの運命への絶望が胸を穿つ。決して決して。自分の存在は少女の救いとはなり得ないのだ。共に歩み、護ると言った誓い。必ず見つけ出すと言った誓い。たとえ何になってしまったとしても必ず、と言ったあの時の言葉。それらがこの事実の重さに虚しくなっていく。恐怖と苦悩に意志が押しつぶされ、振り返りもせずに、新たな獲物を目掛けて駆け去っていく少女を、もう見つめることすらできなかった。――そうしてあの時。焔と閃光と爆音の記憶の中に、彼はサヤを見失った。
  自分自身が自分を裏切ることの悔恨と懼れは、今も残り火のように彼の中にあってその身を焼く。あの時、二人の間の何かが壊れ、何かが始まった。動物園の夢の時代は本当の意味で遠くに過ぎ去り。ただ誓いだけが。絶望に満ちたあの約束だけが依然二人の間に、絆となって横たわった。それでも。あの時の誓いを嘘にしないために。何よりもサヤを想い続けるために、彼には歩みを止めることはできなかった。その果てに何が待っていようとも。

  そうして見つけた沖縄の日々は、サヤに記憶と引き換えに再び笑顔を与えてくれた。新しい、音無小夜の名前と共に。その事は彼に喜びをもたらし、そしてまた。それによって彼は自分がどういう存在かということを、否応無く突きつられることになった。迫りくる運命に導くことしかできない自分を。
  ずっと、小夜にとっての自分は、その血の呪いの具現ではないかと思っていた。血と誓いと宿命とによって固く結び付けられていても、もしかすると、少女の痛みに満ちた過去の体現である自分が、少女の目の前から消えることで、初めて小夜は明日を見つめることが出来るのかもしれない、と思ったこともあった。
  いつの日も、誰よりも大切な少女の幸せな明日を祈り、笑顔を取り戻したいと願い続けてきた自分こそが、彼女の「呪われた血」の証であり、罪と苦しみに満ちた「過去」の象徴であり、彼女の「明日」を奪うことを宿命づけられている。すべてを捧げて護り、支えながらも、少女の命を奪うべく定められている。その運命の皮肉が、彼を矛盾を含んだ存在へと突き落とした。だが。
  青年はあの運命の日のことを思い浮かべた。もう一人の自分であるディーヴァを倒し、自分自身もディーヴァの子供たちと共に消え去ろうとしていた小夜。カイの言葉にさえも俯くことしかできなかった小夜。生と死のどちらも選ぶことができずに、ただ立ち尽くして少女に、青年は初めて自分の胸のうちを伝えたのだった。
 ――生きてください――
  あれは役割を超え、定めを超え、それまでの自分の全てを超えて出てきたただ一つの本当の願いだった。
  そして、あの時の小夜の言葉。自分の願いに応えて「生きたい」と言った小夜の言葉は、彼女自身の明日への希望を示すものであったのみならず、矛盾と逆説に満ちた自分の存在を、まったく反対の、輝きに満ちたものへと押しやってくれた。

  目覚めの明日を示す者へと。




  波が砕け散る。その光の散光を微動だにせず見つめながら、青年は今はまだ遥かに眠る少女の姿を思い浮かべた。こうして日々を丹念に辿っていればいつの日か、必ず再び目覚めの時がやってくる。それを知っているからこそ、信じているからこそこうして歩いていられるのだ。小夜の眠りの場所に通じているこの海を見つめながら。

  その時。突然ひらめくように一つの感覚が彼を襲った。自分の中心が脈動を始める。朝の光に一日が始まるように、世界のどこかで何かが始まろうとしていた。一瞬にして自分を取り巻く世界が別の意味合いを帯びる。季節が巡りゆくように、いつの間にか歳月が巡ってきたのを彼は感じた。過酷な日々も、遠い追憶もすべてが漂う記憶の中に溶け出していく。幾度も繰り返される廻りの刻が。
  波のように大きくうねりながら歓びが満ちてくる。その時、彼は自分の身体の内側から、自分の存在の奥底からせり上がるように一つの力が湧き上がってくるのを実感した。まるで柔らかな光のように、細胞の一つ一つに暖かな想いが触れていく。チェロの音のように静かに響き、振動し、それは彼を揺さぶり、癒し、清め、新しい存在に導いていくように満たしていった。身体の隅々まで。その包帯に隠されている右腕にさえ。いや、右腕にこそその祝福のような息吹は満ちているのだ。すべてが赦された証拠のように。光は祝福であり、祝福は歓びであった。
  そうして、その諸々の歓びの中で、彼は自分の右手が。あのベトナムで断ち切られて以来、呪いのように翼手の姿を剥き出しにしていた、その右腕がゆっくりと人間の手に変化していくのを信じられない想いで見つめていた。赤茶の罅割れた皮膚が柔らかな細胞に覆われていく。血管が白い皮膚に透けて青く見える。禍々しい爪が滑らかな人間のそれになっていく。翼手の手を隠していた包帯がすべて解けて地面に落ちた。震えるような心持で彼は空を仰ぎ見た。すべての存在の中に小夜を感じる。その存在感が一層強く打ち寄せてくる。青年は深く息を吸い込んだ。ついに再び待つ時間が終わったのだ。サヤの目覚めの時が訪れる。

  まぶしい光に軽く目を細めながら、彼は大きく一歩を踏み出した。




END



2008.06.08

  ハジ単体話。自分解釈+自己解釈+捏造妄想という話。ハジ単体は私にとっては難しかった。。。情景描写に力を入れすぎました。反省・・・。
  本当は、最初サヤ単体話である『夜空』に対応する話を考えてました。時間的には夜の話で、ハジがサヤに対してどんな想いを抱いているか、を書こうと思って(別タイトルで。タイトルだけは決まっていた)。しかし、書いているうちにハジを光の中に立たせたいと思い始めまして。こんな話になってしまいました。。。

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