夕暮れ時はどことなく物悲しく、想い出の残り香を運んでくる。想い出とは必ずしも優しいものとは限らない。




   赤銅色の空を見つめて、小夜はその鳶色の瞳を追憶の痛みに揺らしていた。長い時間の流れの中で、少女にとっての追憶とは、多くの場合喪失と悔恨に彩られている。自分がその発端となった闘い。血と死の記憶。その中で逝った者たち。あるいは時の流れの中で自然に逝った者たち。彼らを悼みと共に思い出す。そしてそんな時、小夜は何故自分が生きてここにいるのか、わからなくなることがある。そういう時は常に少女の傍らに付き従っている青年の顔にも憂いの色が浮かぶのだった。




   そんな物思いにふけっていたため、それまで気がつかなかったのかもしれない。夕暮れの部屋の中で、その小瓶の入った包装の紙包みを見つけた時、小夜は小さな驚きの声を上げた。
(あ・・・。これ・・・)
   今日、久しぶりに季節の変化にあわせてちょっとした衣類をととのえようと、買い物をした時に小夜が見ていた品物だった。ショッピングセンターの売り場の片隅にあった陳列棚。高級なブランドものから安価なものまで、様々な形の小瓶が並べられており、一つ一つは小さなものなのに、どこかしら洗練されていたり、可愛らしかったり、思わず足が止まってしまう。硝子で出来た宝石のようだった。それらの一つから漏れ出している微かな香りに目が止まった。この匂い・・・・。思わず手に取ってしまったのは、遠い動物園の昔、社交界で流行っているからと言ってジョエルが持ってきてくれたものと似た香りだったからかもしれない。説明書きを読んでみると、昔の調整法を元に復刻させた香りとある。
   しかしながら懐かしさのあまり手に取ってみたものの、使う理由も当ても思い浮かばず、店員のいかがですか、の声にはっとなった小夜は子供っぽい郷愁に赤面しながら、繊細な硝子細工の小瓶を元の陳列棚に戻したのだった。あの時のいかにも物欲しげな自分の様子を見られていたのかと思うと、自然に頬が赤らんでくる。




   傍らの青年を見上げたが、その白い硬質な顔には何の感慨も浮かんでいないように見え、気恥ずかしさと気後れとで少女はうつむいた。
   ベトナムで別れ、沖縄で再会した時、短い期間だったが離れ離れになっている間に小夜は『音無小夜』としての自分を生き、育ててしまった。少女の中には『音無小夜』としての自分も確かに存在し、自分の中のその部分がこの傍らの青年を意識して小さく波打っている。
   ハジが少年だった時代を憶えている。その成長の過程も確かに覚えている。共に過ごしたはずなのに。想いを込めた言葉も確かに受け取ったはずなのに。それなのに。なんで今更こんな風に気恥ずかしいのだろうか。訳のわからない自分の感情を打ち払うように少女は青年に声をかけた。
「これ・・・・」
「ずっとご覧になっていたので――」
   静かな深い声が降ってくる。小夜は小さな包みを開くと、小瓶を取り出して蓋を開けた。少女のその目が思い出に一瞬優しくまたたいた。
「ね、憶えている? 昔、ジョエルが・・・・」
「はい」
   その様子は昔、『動物園』で、無邪気な目をして囁いた少女の様子にそっくりだった。その小さな細い指が美しい瓶の側面をそっと掠るように撫でていく。けれども彼女は香りを身に纏おうともせず、そのまま蓋を閉めた。
「ありがとう」
   少女の長いまつげが微かに震えている。
「小夜・・・・」
「でも、いいの。遠い昔のことは、記憶の中にだけあればいい」
   暖かい思い出も、つらい思い出も何もかも。「生きたい」という言葉を口にして、初めて未来に向かって意識を向けようとした自分にとって、こうして昔にこだわる事は、その想いに導いてくれた者たちへの裏切りになるような気がした。明日のために今日を生きる。そのためには昔の感傷に囚われてはいけない。小夜は固く手を握り締めた。――胸を突く思い出。懐かしい『動物園』の日々。けれどもその後にどんな運命が待っていたかを思うと今でもいたたまれない思いがする。
   自分の事よりも、その生を本来そうあるべきものから変えられてしまった、この青年のことが小夜には悲しかった。そしてその果てに、苦しみに満ちた宿命を負わせ、自分の中の狂気の果てにその腕を切り落とし。それはハジが想いを告げてくれたからと言っても、小夜の中では変わることなく存在している悔恨のようなものであり、大きな痛みのひとつだった。
   青年の心もその気遣いも涙が出るほど嬉しい。でも・・・。




「思い出を懐かしむ事は悪いことではありません」
 突然、静かな優しい声が落ちてきた。
「え?」
「私はあなたに巡り合わせてくれたすべてに感謝しています。あなたとの思い出のすべてにも」
   だからこそ、思い出を否定しないで――。静かなのに揺るぎのなく、力強いその言葉の響きに少女は何も言うことが出来ず、手の中の瓶を握り締めたままうつむいた。視界が次第に潤んでくる。少女にもわかった。この小さな瓶に、どれだけの想いが籠められているのか。
   普段から淡々と語る青年の涼やかな面差しからは、その内面を読み取りづらく、だからこそこんな風に不意打ちのように吐露される心情であったり、想いを込めた仕草は小夜の心を強く揺さぶる。
   懐かしいジョエル。隠されていた真実と、本当の姿。それでもあの時代の穏やかな記憶を懐かしまずにはいられなかった。そんな感傷こそハジには辛いのかもしれない。ずっとそう思い続けてきたのに。だから考えないようにしてきたのに。ジョエルも、アンシェルも。幼少期を含め、売られてきたその事さえも。それまでのすべてがあなたに通じている。その後に続いた道すら。そう言う青年の言葉があまりにもまぶしくて。




   その小さな手から優しく香水の瓶が取り上げられる。優雅な仕草で蓋が開けられ、白い手が瓶をかすめた。何が起こるのか、無垢な瞳で不思議そうに見守る少女の両方のこめかみに、耳たぶの後ろに、その手が触れた。ひんやりとした感触のくすぐったさに思わず身体を縮こませると、懐かしい匂いがふわりと漂う。
   物悲しいとばかり思っていた黄昏の光が、急に美しい薔薇色を帯びているように感じられ少女は戸惑った。同時に胸の奥から遠い昔の思い出が優しい波となって打ち寄せてくる。――幸せだった夢の時代。ジョエルの穏やかな眼差し。深い緑の中の木漏れ日のまばゆさ。永遠に続くと思われた優しい時間。陽射しの中で自分の影が地面に映った。くっきりとしたその陰影。そしてハジ。頑なだった少年の中の孤独。その少年が徐々に成長し、背が高くなり、華奢だったその肩が広くなり、声が変わり。変化は目を見張るようでいて、自然な事でもあった。自然ではなかったのは自分の方。時間を止めたこの少女の身体。自分の背よりも低く、細いその肩を抱き締める事も出来た少年の、まだ子供の面影を知っているのに、それはあっという間に自分を置いて時間の向こうに去ってしまい、今は見上げる上背となって傍らに居る。
   懐かしい空間。あの時の、木々の囁き。風の匂い。




   不思議だった。贖罪と悔恨の思い無く、こんな風に穏やかな気分で動物園の時を振り返ることができる自分がいる。その郷愁の只中で、目の前の青年の中にあの少年の面差しを小夜は見つけようとした。きつい目をした固い表情。寂しさと裏返しの強がり。脆く折れそうな身体。少年に手を差し伸べたのは小夜の方からだった。もう一度。差し伸ばした手で彼に触れたいと思った。今の彼の中にいるあの時の想い出のすべてに。
   けれどもそうする前に柔らかく肩が拘束され、身構える間もなく青年の整った唇が額に触れ、頬に触れ、ゆっくりと離れていく。
   自分を見つめるその眼差しの強さに、眩暈を感じて小夜は目をつぶった。夕日の染める薔薇色の光が瞼を透してしみこんでくる。まぶしい。まぶしくて目を開けていられない。

   そうして懐かしい思い出が降ってくる中で、不意に彼の存在が奥深くなり、やがて優しく彼の唇が自分の唇に重なるのを小夜は感じたのだった。




END



2008.05.17

   今度こそ、ラブラブなハジサヤを! と思っていたら。こんなものになってしまいました。自分ではこれが甘いのかどうかさっぱりわかりません。。。。(これを書くために、しばらく他所様のBLOOD+ SSを読まずに、ハードなSFも読まずに、自分の持っている恋愛小説要素の含まれた本とか、いわゆる少女マンガを読みふけったというのに)しかも、短い話だったのに、妙に時間がかかってしまった。まあ、ハジサヤを書こうとする時にはいつもそうですが。
 取りあえず、キスシーンまで。これを書いているだけで気恥ずかしさにボロボロに(私でなくて、文章が)なりました。

 匂いというのは精神的なはたらきかけをすると聞いたことがあるので、こんな主題で。記憶に働きかけたり、思わぬところで心を解きほぐしたり。実際の言葉などよりも直接的に働くような気がします。
 でも、ハジは無口だけれど、数少ないその言葉は小夜にとって破壊力抜群だったらいいなあ、と思ったり。

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