ニューヨークの街は鋭い空気とよどんだ空気が交じり合っている。と小夜は思った。翼手の敏感な感覚がそれを感じている。大勢の人間達の活気と感情の交差した世界の濃縮されたような都市。
   だからこそ、熱気と現実の間で突然切り離されているような奇妙な感覚をその中に感じ取った時、その異質さが小夜には不思議に思えた。
「どうしましたか」
   青年に声をかけられるまでその感覚に没頭していた小夜は、不意に現れた黒衣の姿にほっとしたように微笑みかけた。
「なんでもない。・・・ううん。ちょっと不思議なものを感じたから」
「不思議なもの?」
「なんて言うのかな・・・。こう、日常の生活があるでしょう?その中に突然関係のないものが割り込んでくるような感じ。それなのにそれはとても目立っていて、惹きつけられていて。それでいて・・・怖い」
「怖い?」
「そう。おかしいよね」
   自分たちが恐れられているならばともかく。そう言って小夜は笑った。淋しい笑いだった。今までどれほど奇異の目で見られてきたか。死も怪我も知らない身体。記憶だけが蓄積されて、時間の痕跡を残す事がない。そして必要なものは人間の血液。
   長い時間、自分からも他人からも武器としてしか、生きていく意味を許されることがなかった少女。その記憶は今でも消え去ることはない。それでも彼女は少しずつ笑う事を取り戻していた。かつてのように過去を忘れる事によってではなく、受け入れてそれでも進んでいこうとする力が少女の中に芽吹いている。生きる事を許されて、望まれて。それだけの思い出も、彼女の中には確かに育っていた。
「大丈夫」
   少女は安心させるように傍らの青年の笑いかけた。そうやって笑いかけることによって青年の憂いの色が少し薄らぐ。その様を見ることは彼女にとっても嬉しかった。
「さてと。行こうか」
   少女は無邪気な仕草でスカートの埃を払うと立ち上がった。瞬時に青年と少女の姿が摩天楼の上から消える。後には鋭い風が不穏な予感めいて吹いているだけだった。






 ニューヨークの片隅に在る一つの博物館は、最近俗物と呼ばれる人たちの間で秘かな人気になっていた。そこは古典的な恐怖譚に絡めてそれを匂わせる展示物を集めた、悪趣味とも言える催し物を主な呼び物としていたが、かえってその安物めいたつくりが一部のマニアたちには受けている。その趣旨に即したように、それらが納められている施設そのものもいわくつきの建物だった。実際その人気の要因は、中の展示物と建物とどちらなのか、判断に困るといった声も聞かれている。
 その建物はあまり大きくは無い十三の棟から作られており、注文主だったか、あるいは建築家だったかはそれが作られているうち、一棟ごとに次第に精神を病んでいき、今では病院に入っているという噂だった。その証拠のように建物はすべてが歪んでおり、見るものに不安と心地悪さを感じさせる。そしてそれは最初の持ち主の手を離れ、競売にかけられて、今では博物館として公開されているのである。
 展示物もまたそれに相応しく、イギリスのロンドン塔で使われたという斧だとか、血塗られた伯爵夫人の使っていた盥だとか、一見因縁に満ちたのものばかり集められているようだったが、裏を返すとそれらが本物だという証拠も無く、そうなるとここは単なる陳腐な偽モノばかりが集められた子供だましの幻灯館のようなものだった。
「入ってみよう」
 小夜がそう言った時、長身の青年はいぶかしげに眉を顰めたが、少女が、ね、お願いと再び言うと、わかりましたと静かに言い、彼女の先に立って博物館へ入って行った。
   大きな楽器のケースは入り口で預けられ、少女と二人で入る施設はひんやりとして、独特の暗さを感じる。かつて忘れ去られたものたちが、無理やり日の目を浴びせられるため、引きずり出され陳列させられている。時が巻き戻っていくような、日常との乖離した感覚にざらついた違和感を抱く。だがいったん展示場の奥に入ってしまえば、そこは意外と人が多く、どの部屋に入っても二人だけと言うことも無く、またそこにいる人々は展示物に夢中になっているか、あるいは自分自身に夢中になっていて二人に注意を払う者もいなかった。人に囲まれているというのに、ここにいるのは二人だけのような気がした。孤独。解放感。そして他人の中の奇妙な安らぎ。
 その心地を味わいながらゆったりとした足取りで進んでいた青年が、少女の視線を感じて足を止めた。百年以上も見つめ続けたその瞳が、何かの感情に揺れてこちらを見上げている。少女は何の言葉を発しなかった。ただ黙って青年を見つめている。その視線がふと逸らされたかと思うと小夜は青年の先に立って次の棟へと歩みを進めた。
 それは迷いのある足取りではなかったが、少女の肩先が緊張している。青年もまた黙ったまま少女の後をついて次に進んだ。
「通りすがりの人が話をしているのを聞いたの」
 突然、振り向きもせずに小夜が話しかけた。
「確かめたいものが、あるの・・・」
 中途半端な言葉のままに途中で歩みを止める。その思いつめた視線の先にはガラスの囲いがあった。中には黒っぽい棒状の物体が納められている。仰々しいまでの展示振りとは対照的に、多くの入場者はそれにちらりと視線を投げかけただけで通り過ぎていく。だが小夜は再び歩き出した。他のものには見向きもせずにまっすぐそちらへ。
 近づくにつれてその黒っぽいものが、人間の手のような形をしている事がわかってきた。人間の手とは異なって、まるで血がこびりついて古くなったようにどす黒く、そしてすべての爪はありえないほど鋭くとがっている。人の手よりも一回りほども大きいその手は、見ているだけでもその異質さが、禍々しさが感じられた。これを人間が作製したとすれば、あまりに精緻に造られ過ぎている。
「小夜・・・これは」
 小夜が気遣うように彼の右手に触れた。何十年も前。ベトナムで、その右手は一度彼の身体から切り離された。あの時の古い傷跡のような記憶。それは多くの時間を過ごしてきた彼の記憶の中でも辛く、いたたまれないものとしてなおも存在していた。身体と記憶の奥深くに存在する汚点のような疼き。だが少女はその記憶をおずおずとした不器用な手つきで優しく触れる事によって和らげ、解きほぐしていった。
「これが見たかったのですね」
 彼が発した言葉が普通の声色だったことにほっとしながら少女はうなずいた。陳列ケースの標識には『猿の手』と書かれている。
「本物だと・・・思う?」
「はい。ですが、どうしてこんなものがここにあるのか」
「わからない。ただここにあっちゃいけない、それだけは確か」
 少女の瞳がいつの間にか赤い光を帯びているのに青年は気がついていた。
「今夜」
 その一言に彼はただうなずいただけだった。






 都会の喧騒は深夜を過ぎても大して変わらない。しかし一度大通りを離れると、夜の闇が空間を支配し、昼間には顔を見せなかった雑多な淫猥さが露呈してくる。
 あの博物館はそんな中でも異彩を放っていた。闇の中で見るそれは昼間よりもおぞましさを増してその一角を占めている。どこにでもねぐらを見つける浮浪者も、その辺りにはあまり近寄らないようだった。
 それでも流石に人目を憚り、真夜中過ぎになるのを見計らって二人はそこにやってきた。大して価値のあるものを展示していないと自覚しているのか、セキュリティシステムは形ばかりだという事は調べてある。警報機の導線を逃した後、外からの進入口を確保して入ろうとした時、青年が鋭い視線で少女を見つめて少女を遮った。
「何?」
 赤みを帯びた瞳で問い掛けた後、はっとなった。
「誰かいる・・・・」
 とたんに何かが壊される音がして、内部の警報機が鳴り響いた。それから決して軽快ではない足音で、黒っぽい影が出入口から転がり出てくる。
「あなたは・・・」
 小夜はとっさに身を隠す事も思い浮かばず、その人影を見つめた。よく日に焼けた浅黒い顔。暗い激しい感情を映した目が小夜の瞳と絡み合った。男は腕にしっかりと布で包んだ棒状の物体を抱えこんでいる。
「小夜」
 いつの間に展示場を見てきたのかハジが、男の背後から言葉を発した。
「彼が持っているものがソレです」
 一瞬何を言われたのかわからずに小夜はまじまじと男を見つめた。男の灰色の目が落ちつかない様子で少女と青年を交互に眺めていたが、再び小夜の瞳を見たとたん魅せられたように視線が定まった。
「お願い。それをこちらに寄越して。それはあなたが持っていて良いものじゃない」
 小夜が躊躇いがちに男の方へ近づきながら声をかけると、つい今しがたまで魅せられたように少女を見つめていた男が、はっとなって二、三歩後ずさりする。
「お願いだから・・・」
 しかし打って変わったように敵意を持って発せられた男の言葉は、完全に少女を打ちのめした。
「――おまえはこれを知っているのか!? おまえも呪われた者なのか!? それならば、俺たちの身にまとわり付くこの呪いが、おまえたちにも降りかかるがいい!」
 突然の激しい呪詛の言葉に小夜は凍りついた。耳障りな雑音が身体にまとわりついたように足が止まる。その隙に男の姿はあっという間に窓を突き破り、薄暗い路地の闇へと消え去った。
「小夜」
 あんなに激しい憎悪むき出しの感情を向けられる事は久々だった。その衝撃を忘れていたわけでは決して無かったが、人間の肯定の感情に深く安堵の根をおろしていた少女は激しく動揺していた。男の後を追うこともままならない程に。青年の腕が柔らかく彼女の肩を包み、促されるまま足を進める。警報に追われるように小夜はその場を離れる事しか出来なかった。
 夜の街を疾走し、博物館からかなり距離のある公園で二人は足を止めた。全力でその場から離れたせいか、小夜は肩で大きく息をついている。
「小夜・・・」
 気遣わしげに囁く言葉に少女は微かに首を振った。
「大丈夫」
 その肩が小さく震えて未だ収まらぬ内心の動揺を伝えていたが、少女は震えながらも鳶色の瞳で傍らの青年を見上げて言った。
「ハジ。あの人。私たちの事を・・・」
「いいえ。違います。彼と面識があるはずは無い」
「でも」
「落ち着いて。まず彼がアレをどうしようというのか、見てこなければなりません」
 未だに震えている華奢な手を痛々しく見つめながら、青年が少女をその場に残し、自分ひとりで男の後を追おうとした時
「ハジ」少女の必死な瞳が彼の足を止めさせた。
「気をつけて」
 彼の目の端が一瞬柔らかくなった。






 男が向かったのは、博物館からかなり離れた路地裏だった。大通りから離れたそこは、古くからヨーロッパ系の移民たちが住み着いていた区画の一部であり、男が入って行ったのも、その中にあるアパルトマンの一つだった。
 男は入り口の扉を閉めるとよろよろと部屋の中を泳ぐように進み、机の上に持っていた包みを放り投げた。その勢いで包みが半分ほど解かれ、中身の一部が露呈する。干からびたようなグロテスクな指がそこにはあった。人間の指よりもやや大きいそれを見たとたん、男は慌てて包みを直し、そうしてから疲れたように椅子に腰を下ろした。そのまま頭を両手で抱え込む。その時奥の部屋から声が聞こえた。
「盗ってきたのか」
 男ははっとなったように顔を上げて立ち上がった。
「兄さん、起きたのか」
 しかしその目には怯えの色が浮かんでいる。
「持ってきてくれ」
 男はのろのろと立ち上がると、汚れ物でも扱うように嫌悪に満ちた表情で机の上のそれを取り上げると、薄く開かれている扉に向かって足を進めた。
 薄暗い部屋に入ると男はその『兄』が寝台の上に身体を起こすのを、黙ったまま恐怖の目で見つめていた。『兄』の身体は全身が包帯で覆われ、出ているのといったら目と口元だけ。微かに異臭がしている。その姿はまるで木乃伊のようだった。『兄』は男の目線を感じ取ると舌打ちをして憎悪の籠もった声で言った。
「ぐずぐずするな!そこに置いてあっちへ行ってろ!」
 しかし男は嫌悪感に身を震わせながらも、『兄』に向かって同じ様に激しい口調で言った。
「いいや。俺はあんたがそれをどうするかを見たい。俺たちに投げかけられたこの呪いがどんな風に結末を迎えるのか、それを見たいのだ。それが俺たち家族の長い道中の結果なのだから」
 すると彼の『兄』を名乗る男は言った。
「勝手にしろ!俺の弟の息子の息子。おまえの生まれた日は災いだった」
 言うなり彼は男の手から包みをひったくると乱暴な手つきでそれを広げた。
「これが・・・こんなものが。こんなものが俺の災いのすべてなのか」
 呪わしさと憤りと、そして怯えがそのかすれた声の間から聞こえてきた。
「そして俺たち家族の災いの源か・・・」
「そうだ。おまえも知っているだろう。俺の両親は偶然ある商人からこの「手」を得た。持ち主の願いを三つだけ叶えると言われたこの「猿の手」。戯れに親父は富を願った。なぜならその時親父は破産寸前だったから。これでも人並みの生活だったのさ、当時は」
 彼は包帯の巻かれた手で、「猿の手」を強い力で握り締めた。拳が震えている。
「願いは叶えられた。この俺の死によって。俺の死の代償がその富だったのさ。――その頃、俺は何も知らなかった。両親が何を手に入れたのか。何を願ったのか。何が代償にされたのか。本来あるべきだった俺の人生に何がなされようとしていたのか。知らないままに俺は親父の使いだという商人から、何かを砕いた薬のようなものを渡された。親父のために飲めと言われて。俺はそれを飲んだ。その次に何が起こるか知らないままに。そして・・・あの事故。
 事故の衝撃と、薬の痛みと。どちらが大きかったのか、今はもう憶えちゃいない。しかし気がつくと俺の身体は押しつぶされ、砕かれていた。その時例の商人が言った。おまえの親が嘆きの底から願っている。還ってきて欲しい。と。戻って欲しいと。行ってやるがいい。両親の元へと。
 俺は何の迷いも疑いも無く立ち上がった。自分の身体がどうなっているのかも気がついていなかった。多分その時の俺は正常な思考というものが出来なくなっていたんだろう。ただ、体中の痛み。それから家族への思慕。それだけが俺の意識を支えていた。
 けれども自分の家に近づくにつれて、俺はすべてが変わってしまったのを知った。上空では黒い鳥が不吉に啼いていた。可愛がっていた犬は俺が近づくと狂ったように吠え立てた。そして生臭い匂い。それが自分の身体から漂っているものだとは。そしてやっとの思いで戸口に辿り着いた時、俺の耳に聞こえてきたのは親父の呪いの言葉だった。俺が家から墓場に戻って二度と還ってくることのないようにと願う言葉だった。
 絶望に打ちひしがれながら、俺はなおも家の周りを巡り、その言葉が取り消される事がないかと。両親がすぐに後悔して、温かく俺を迎え入れるために飛び出してこないものかと祈るように思っていた。だが二度と俺のために家の扉は開かれず、俺は炉端の石のように打ち捨てられた。
 両親の「猿の手」への願いは三つ。富と、俺の生と、俺の拒絶と。すべて使い切られてしまったからだ」
 男は『兄』の言葉を黙って聞いていた。
「だがもう、生きているのか死んでいるのかわからないような俺を、それでも両親の目の届かないところで匿ってくれたのは、俺の弟だった。そうして俺は生き延びた。皮肉な事に呪いを受けた俺の身体は死とは縁遠いものとなっていた。両親が死に、弟が死に。俺はその事に気がついた時ほど神をのろった事はなかった。いつ果てるとも知れない時間の中を、この壊れた身体を引きずって歩いて行くのだ」
「ああ、知っているさ」
 それまで黙って、その呪詛に満ちた言葉を聞いていた男が遮るように言った。
「あんたはそうやって何度も何度も同じ言葉で同じ呪いを吐き続けてきた。魂を失くしちまったみたいに。そしてその代わりにこいつを求めた。あの時失われたと思われた「猿の手」を。こいつがあんたの魂の代わりだとでも言うように」
「そうだとも。長い間こいつは俺の目から隠されてきた。俺はこいつを探して探して――。とうとう海を渡ってこんなところにまで来てしまった」
「俺を連れて」
「いいや。おまえたちがそれを選んだのだ。俺の方こそ訊きたい。何故おまえたちは俺から離れない?なぜ俺を捨て置かないのだ」
「わかっていたからだ。あんたにかけられているその呪いは、俺たち全員のものだということを。だからこそ、この呪いの結末を見なくちゃならない。訊かなくちゃならない。そんな「猿の手」を手に入れて、一体何がしたいんだ、あんたは」
「さあ。本当の事を言うと俺にもわからん。ただこの「猿の手」を他人の手に渡したくなかった。他人の目に触れさせる事もしたくなかった」
「だから俺にこれを盗ってこさせた」
「ああ。100年の間に俺の身体は人目に曝せない程醜くなってしまった。おまえたちだけだったよ、この俺の傍にいたのは。この「手」に運命を狂わされ、今は本当に自分が人間なのかもわからなくない。だからこの「手」を手に入れられたら、これを壊してしまおうと思っていた。
 だがこうしてこの「手」を自分のものにしてみると、これはこれの意志を持っているような気がする。俺の所に来たのも、俺をこんな風に変えてしまったのも、これの意志のような気がするのだ」
「それじゃあ、こいつの意志ってのは?」
「わからん。ただ。この頃よく夢を見る。少女の夢だ。ごくごく普通の少女。華奢で可愛らしい顔立ちだというのに、俺にはわかる。その少女の本質はこの「手」のようにおぞましいもの。そしてその目は・・・・真っ赤で、血が溢れているような目なのだ」
「それがこの「手」の意志だと?」
「いいや。だが、もうすぐそれがわかるような気がするのさ。最期の時が近づいているのがね。その時俺は――俺たちはこの因果から解放される。そんな気がする」




「どうだった?」
 少女が振り返りもせずに戻ってきた青年に声をかける。
「ここからそう離れていない下町のアパルトマンに入って行きました。三年前からそこに住んでいるそうです」
 少女はうなずいた。
「兄と二人暮らしと言うことでしたが、その兄というのが・・・・」
 珍しく青年が口ごもった。
「何?」
「腐臭と・・・それから僅かですが翼手の気配がしていました」
「翼手? じゃあ――」
「いいえ。どちらかと言うとデルタシリーズの、薬害翼手に近い気配でした」
「でも腐臭って・・・」
「身体が崩れているのです」
 小夜はしばらく眉を顰めて考え込んでいたが、やがて口を開いた。
「ハジ。あれを出して」
「しかし・・・」
「わかっている。でも翼手が関係する事だから。持っていれば安心するし」
 小夜の言葉にしばらく逡巡していた青年が、ゆっくりと楽器のケースを横たえると蓋を開けた。装飾の付いた蓋裏には、そこにも留め金があり、それをはずすと蓋の真ん中が縦に割れ、中から一振りの刀が現れた。黒い拵え。紅の鞘巻き。変わった形だったが美しい刀だった。
 まさか再びこの刀を手にする事になるとは思わなかった。捧げる方も受け取る方も、複雑な思いに駆られたが、無骨な造りの刀はなぜか今でも少女の手にぴったりと収まっていた。
「行こう」
 そうやって小夜は走り出す。幾たびも。時代が変わっても。






 二人がスラム街のアパルトマンの前に下り立ったのは、夜になってからだった。うらぶれた淋しさが漂うその界隈は表通りから聞こえてくる車の音が微かに響いてくる。小夜はハジにうなずきかけるとアパルトマンの中に入り、教えられた部屋の扉を叩いた。何度か叩き続けても空虚な返答が返ってくるばかりと知ると、少女は青年と位置を代わり青年がほとんど力を入れないようにしてその扉を押し開けるのを黙って見守っていた。
 中に入るとつい先ほどまで人の居た気配が残っている。慌てて飛び出した跡のように雑然と散らかったままだった。
「遠くには行っていません」
 その言葉に部屋を飛び出していく。翼手の脚力は人間をはるかに凌駕していた。何かに追い立てられるように小夜は走った。こんな感覚は以前、妹の一族を追いかけていた時以来だった。あの時の胸の潰れるような日々が甦ってくる。不安。悲しみ。微かな既視感。でも決して以前と同じではない。
「小夜」
 最初に気がついたのはハジだった。ほぼ同時に小夜の感覚もそれを捉える。この街の中の違和感。翼手の気配にも似て。
 それはこの街にどこにでもいる浮浪者のようだった。二人ともくたびれたジャケットを羽織り、一人は顔をむき出しにしていて、もう一人はフードを目深に被っている。顔を見せているのが昨夜の男だと小夜は気がついた。だがもう一人・・・。まるでまぶしいものから目を背けるように肩を縮ませているその男の姿から小夜は目が離せなかった。
 彼の身体からは翼手の匂いがしていたのだ。同時にハジが行っていたとおり、強い腐臭が漂っていた。腕に抱えているのはあの「手」。少女の瞳が紅に染まる。
「おまえは・・・・おまえたちは――」
 男はその姿を畏怖に満ちた表情で見つめていた。
「おまえの事を知っている!ああ、俺に近寄るな!」
 突然もう一人の男が叫んだ。
「おまえの事は知っている。おまえが呪われた者だということを知っているぞ!」
 呪われた者。再びその言葉に曝されて、打撃を受けたように少女の身体がふらついた。細い肩を抱きしめ、青年が相手を氷のように冷静な目で見つめている。
「いいか。あれは俺のもの。俺は代価を支払っている。おまえたちのものじゃない」
 その時フードが外れ、彼の顔が剥き出しになった。白い包帯に覆われた顔。目ばかりが光るようにこちらを見ている。
「何を言っているの?」小夜は震える声で言葉を発した。
「あれはあんな風に人目にさらされていいものじゃない。静かに眠らせてあげなくちゃ・・・」
「おまえにはわかっていない。呪われた女よ。あれにはアレの欲望がある。あれは自ら見顕される事を望んだ。アレは俺の手に渡ることを望んでいるのだ」
「違う。そんな事ない!」
「アレの何がわかるというのだ。呪いの源よ。アレの声を聞くことが?アレの欲望が? 俺は知っている。おまえたちは人間じゃない。おお、呪われろ。今日と言う日。
 おまえたちに出会うくらいだったら、自ら死を選んでおまえたちの足元に横たわる方がましだった」
 最後の言葉に小夜はハジの腕をきつく掴んで身震いした。
「ハジ」
 だが反対に肩に食い込む青年の力にはっとして、少女は力なく首を振る。静かな彼の激しい一面を感じ取るのはこうした時なのだ。小夜は包帯に覆われた顔に向かい合った。
「あなたにとって、私たちが何であったとしても。あなたにとってあの腕が何であったとしても」
 持ってきた刀を握り締める。
「私はそれをあなたから取り返さなくてはならない」
「取り返す? おまえのものでもないくせに」
「いいえ。私に属するものだから」
 言うなり刀の鞘を抜き放った。
「力づくでも渡してもらう」
 しかし彼らも武器を持っていないわけではなかった。『兄』を庇うように男が小型の銃を取り出すと小夜に向かって発砲する。至近距離の発砲を刀の平ですべてやり過ごし、小夜が身構えた。それを見ながら男は『兄』に声をかけて走り出す。
「逃げろ!兄さん!すぐに人が来る!」
「受け取れ!」
 その時、『兄』の腕から「猿の手」が宙を飛んだ。ゆっくりと落ちていくその軌跡を追いかけて、男が身を翻す。
「ハジ!」
 悲鳴のようなその声が響く前に、既に青年は動いていた。しかし、その動きを読んでいた『兄』が人間離れした動きで青年に突進した。――シュヴァリエと同等に動ける。まるで翼手のように。いつの間にかその手に無骨なサバイバルナイフが握られていた。青年が身構えたその瞬間に、『兄』の手がナイフを青年の姿をした者に振り下ろすと、とっさに青年の右腕がその刃をはじく。素手で。ナイフがその手を離れて大きく飛び、金属製の音を立ててアスファルトに転がった。
 その間に男がしっかりと『兄』から託された「猿の手」を受け取っていた。『兄』が安堵の声を小さく上げて身体を起こした。
 だがシュヴァリエに対峙したその代償は大きかった。全身を包帯に覆われていた身体は、その一瞬の力の発露に耐えられなかったのだ。ぼろりと身体の表面から皮膚そのものが剥がれ落ちる。指が何本か取れていた。その惨めな姿のまま『兄』はシュヴァリエに向き直った。
 自殺行為だった。それが男にはわかった。『兄』はずっと呪っていた。「猿の手」を。自分の家族を。自分の運命を。そして自分自身を。呪われた自分の人生を終わらせる時をずっと望んできたのだった。これが幕引きなのだろうか。
 祖父の代からこの、一族の呪いの顕現のような男とともに生きてきた。時には激しい呪詛の言葉を浴びながら。しかし彼らがずっと彼の元にいたのは、彼の中に逃れようも無い哀しみと絶望を感じていたからだった。それは彼らにしか分かち合えない苦しみと怨嗟の記憶でもあった。
 ――しかし幕引きを下ろすと思っていた青年は、その『兄』の姿を見ると腕を下ろした。
「なぜ向かってこない? 俺が怖いのか?」
 その挑発に青年は首を振る。
「これは俺たちに囁いている。この世を呪えと。俺のような者をもっと作り出せと。おまえたちがやらなければ、俺が――」
 その言葉と共に『兄』は身体を反転させるようにして、今度は小夜に向かって先ほどの勢いで襲いかかった。
「小夜!」
 その瞬間、チェロケースが飛んだ。枯れ木のような身体がその鋼鉄の重みに耐え切れず、ケースごと吹き飛ばされる。
「やめろ、やめろ!」
 『兄』の包帯が取れかけた惨めな姿を見ながら男が何かをつぶやいて、渡された腕をしっかりと抱え込んで首を振っている。それを目の隅に捉えながら、小夜は木乃伊のような姿になった人間の残骸に歩み寄った。青年は確かに頭部を狙ってケースを投擲していたはずだが、かつて闘った翼手とは異なり軽すぎる身体はケースの風圧でわずかにずれ、胸が潰れているもののまだ彼は息をしていた。
「あっちへ行っちまえ・・・」
 弱々しい声で彼は言った。その悪態の中に自分の持っているものと同種の悲しみを感じ取って小夜は言葉を失った。
「呪われた・・・者・・・。おまえの赤い瞳・・・。俺を・・・放って置いて・・・くれ」
 もう助からないと、小夜にはわかった。それほど彼の身体は壊れていた。年月に半分壊れ、そうして今決定的な瞬間が訪れていた。ぜりぜりという音が彼の喉から洩れている。
「楽に・・・」
   もう止めを刺してやることしかできない。彼が憐れで悲しくて涙が出てくる。彼がどんな因果でこの「手」に巡り合ったのかはわからない。だがこんな「猿の手」に。翼手の手などに巡り合わなければ、彼は普通の人間として生涯を穏やかに過ごせたはずなのだ。
 少女は震える手で刀を鞘から抜いた。苦しませない。そのままその首を一撃で斬りおとした。乾いた木を斬ったときのような虚ろな手ごたえがした。
 その一瞬。翼手である小夜に生じたほんの一瞬の隙に、『兄』が取り落としたナイフを手に、男が身体ごと自分に向かって突進してくるのに少女は気がつかなかった。
「小夜!」
 避けようと思えば避けられたはずだった。だが小夜はとっさに持っていた日本刀を取り落とすと、彼の刃物の先にその身を曝した。柔らかな胸に鋭い刃の先が吸い込まれていく。
「ハジ!来ないで!」
 思わぬ少女の行動に声を上げた青年に、彼女は鋭く制止の声を上げると、硬直している男の手の指一本一本を優しい仕草で解放し、胸の真ん中に刺さっている刃物ごと後ずさりした。
 固く目を瞑り、歯を食いしばると小夜は一気に刃物を引き抜いた。紅が薄い色の服の中心から鮮やかな花を咲かせて滴ったが、ある一定以上の大きさまで広がるとそれ以上にはならず、彼女が耐え切れずに膝をついて、傷を抱えるようにして蹲っても地面には血の一滴もこぼれなかった。
「小夜」
 青年の目の中に、遠い昔のように僅かに咎めるような視線を感じて、少女は苦笑した。
「大丈夫。・・・大丈夫だから・・・」
 ようやく身体を起こすと、彼女はそんな怪我を負っているとは思えないほどの仕草で立ち上がった。顔にはわずかな苦痛の後。その紅を帯びた瞳が男に据えられていた。
「あなたの持っているものは、人間が手にしてはいけないもの。私に――」
少女が手を差し出すと、男は二歩三歩と後ずさった。
「赤い瞳。死なない身体。じゃあ、あんたがアレなのか――。俺たちのこの因果を断ち切るためにやってきたのか」
「何を・・・?」
 訝しげに眉を顰めた少女に、青年が深いその声色で低く囁いた。
「小夜。言ってあげてください。自分がそうなのだ、と」
「でも・・・」
「彼は、彼らはあの『手』の因縁から解放されることを望んでいた。一人は死によって。そしてもう一人は・・・。彼の望みを叶えるべきです」
「でも私は・・・」
「本当がどうであれ、言葉に出せば彼にとってそれが真実になる」
 小夜は自分を見つめる男の期待と畏れに満ちた瞳を見返した。激しい怒りと希求とがそこにはあった。それでも小夜は迷っていた。それを解放する事が自分に出来るのだろうか。
 自分の言葉がすべてを変える。それに立ち向かう事が怖い。
「小夜」
 青年の声が自分の心の奥深いところと響きあうのを小夜は感じた。それが自分の中に力を与えてくれる。彼女は男の目線をしっかりと捉えた。
「その腕は私のもの。私に属するもの。あなたのものではない。私はそれを受け取るためにあなたと出会った。だから」
 少女は血塗られた赤い胸をしたまま、男に向かって手を差し伸ばした。
「その腕を私に――」
 男の中で何かが変わった。倒れ付している兄の、首の無い死体を傍らに、彼は不意におずおずとした目を小夜に向けた。
「本当なのか――。本当にこれで終わるのか」
「約束する」
 彼はためらいがちに小夜に向かって歩み寄り、まるで恥らっているかのようにその手を少女に渡した。それをしたとたん、まるですべての重荷から解放されたように晴れ晴れとした笑みを浮かべて言った。
「じ、自由だ。俺は――俺たちは自由なんだ!」
 それから彼は泣き笑いのような笑いを上げると、二人に背を向けた。そのとたんにもう二人の姿が視界から消え、意識から消え、今までのすべてが消え失せたように、男は深いため息をついた。そのまま重荷を下ろしたときのように肩をそらせ、歩み去った。振り向きもせずに。








 遠くでサイレンの音が聞こえる。
「ね、ハジ。私たちって、一体なんなのだろうね」
 男の後姿を見送りながら小夜が問い掛けた。答えを期待したものではなかった。
「小夜・・・」
「私たちがあの人たちにもたらしたのは一体なんだったんだろ」
「それでも何かをもたらした事は事実です」
 少なくても彼らは囚われていた事から解放されたのです、と青年は続けた。それが自分への気遣いからくる言葉であっても、その言葉に小夜は慰められた。
「小夜」
 青年が深い声で囁く。少女は安心させるように微笑んだ。過去も、今も、自分の手で命を絶った者たちの事を決して忘れる事はできない。誰でも自分自身から逃れる事はできないのだ。いつでも物事は姿を変えて自分たちの所へ現れる。それでも――
 薄青い青年の瞳を見つめながら、少女は一歩前に進み出た。





END



2008.04.02

   ハジサヤでホラーを書いてみたかったのです。今回は出来るだけ頑張って甘い雰囲気になるように・・・・と思ったのですが(これでも!)、惨敗でした。ハジサヤになっているかどうかも些か・・・いえ、大分不安が・・・・。
   元ネタはW・W・ジェイコブズの『猿の手』。古典的なホラーで、代償と引き換えに何でも三つ。願いを叶えるという「猿の手」の話です。これを翼手の手と設定してみたりして。捏造もいい所なのですが。そして後日談っぽく。
 劇中で小夜に刀を持たせてしまったのは、私の趣味です(すみません・・・)闘いの無い日常も素敵なのですが、どうも私の嗜好が、この二人が格好いい所が見たい~と思っているので。
 でもホラーって難しかった。好きなんですけど。もう少し描写力が欲しいところであります。反省・・・

(それで、やっぱり時期的には闘いが終わった後に。30年後でも60年後でも可!)

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