窓辺に座りながら小夜は、次第に薄青色から藍色へと移り変わっていく空を眺めていた。西の空には薄い青と茜色が交じり合った美しい黄昏の残滓が広がっている。一つ、二つ、星々が白く瞬き始める。夜の匂いが空気に混じり始めていた。宇宙の光を隠していた太陽が、時間と共に駆逐され、ようやく夜の光が姿を現し始めているのだ。
刻々と変化していく空を小夜は伸び上がるようにして見つめ続けた。随分前に、授業で教えてもらった事が記憶に甦ってくる。今見ているこの光は、実際に発せられてから何年も、何万年もかけてこの地球に辿り着き、自分達の目に光として認識される。気の遠くなるような旅程を通り抜け、この一瞬に到達するのだという。
 翼手である自分でさえも想像もつかないような、途方も無い話だった。自分達が住んでいるこの世界は星の光から見れば本当にちっぽけな点にしか過ぎないのだろう。そう考えると長い時間だと思っていたディーヴァと自分達の闘いも、翼手と人間の闘いも、ほんの一瞬の夢のように感じられた。宇宙の永遠とこの世の時間。その流れの大きさに畏怖さえ感じる。
 一瞬、切ないような物悲しい感覚に襲われた。それならば二、三年目覚めて三十年眠り続ける自分はまるで生命のほとんどを眠りの時間に費やしているようなもの。そのような生に一体何の意味があるのだろうか。起きている時でさえ同族を狩りつくすことだけに時間を費やし。血塗られた。それが自分の生。どれだけの同族を狩り続け、そしてその同族にどれだけの人間の血が流された事か。そして自分自身もこの手で人間を殺した。あのベトナムでの記憶。そしてディーヴァ。
 何もかもがひどく虚しく悲しく過ぎていくような気がする。その想いのまま小夜は目を伏せて、広がる紺碧の宙を思った。永劫に通じる空間。その広がりの中にこの苦しみごと、悲しみごと、溶けていってしまえたら・・・。
 それでも胸の奥に響く言葉がある。――生きていていいのだと、生きていて欲しいと。だからこそ生きようと思ったのに、時折虚しさに押し潰されそうになる。




 小夜の中にある苦しみは、他の者と分かち合う事が出来なかった。彼女にとって生きると言うのはこの苦しみと共に歩むと言う事に他ならない。人間であれば死と共に終わる苦しみを、永い生の間背負いつつ、少女は歩いていくのだ。
(私は一体何のために生きているんだろう。何のために幾度も幾度も三十年の眠りから目覚めるんだろうか)
 共に滅ぶと心に決めたディーヴァは既にこの世には亡く、少女には不安定な人間の世界と、明るい未来だけが残されている。未来と言うひどく明るく、具体的な陰影の思い浮かばない世界。その一歩一歩を踏み出す事が今でもとても怖かった。
 引き寄せられるように再び空に意識を向けると、空は既に濃紺へと変わっていた。同時に星々の輝きがより一層鋭くなる。街の明かりにもそれは負けなかった。最初に見つけた星の光はまだ天空にあり、その輝きは益々強くなっている。道標のように輝く星。
 金星だと誰かから教えてもらったような記憶があった。それがハジだったか、カイだったか、それとも遠い昔。ジョエルからだったかもしれない。
 どの時代でも星の光は変わらなかった。翼手を斬り続けていた時も、こうして闘いが終わった後も。眠りの前も後も、そして多分眠りの最中ですら。自分の時間が止まっている間にも変わらない何かが確実に存在しているものがあると言う事は、小夜にとってはある種の救いでもあった。三十年と言う眠りの時間は想い出のよすがを洗い流し、寝覚めた時にはその残滓が残っているに過ぎない。人間も建物も、知識も、あらゆるものが。
 だからこそ翼手の女王はシュヴァリエを必要とする。けれども逆にシュヴァリエ自身にとってそれは・・・。どういう意味を持っているのだろうか。人間が無理やり変化させられて、その事を厭う心さえ女王の血によって変えられて、それでは彼らの人生は一体何なのだろう。ただ女王の眠りを守り、目覚めの時にその身体に流れる血によって女王の記憶と力とを呼び覚ます。記憶と力の番人として。そして女王の傍らに侍る。
 そんな事は望んでいなかったのに、どうしても翼手の女王としての自分の生態はシュヴァリエを必要とするのだ。自分が引き裂かれてしまいそうで、小夜は再び苦しげに目を伏せた。




 でも本当に望んでいないのだろうか?翼手の女王としてではなくて、自分自身としては?
「ハジ・・・」
 彼女はつぶやいて、冷たい窓にその身を寄せた。温かい想いと甘い疼きが同時に胸の内を占めて苦しくなる。目裏に甦ってくるのは遠い昔の記憶とは異なる、表情の乏しい静謐な面差しだった。定期的に訪れる三十年の歳月は、シュヴァリエであるハジにも確かに何らかの変化をもたらしていた。時を止めた当初の内面の若々しさ、青年らしさは時間の波に浚われ、洗い流されてうっすらと名残を残しているだけになってしまった。変化をしないものなど無い。シュヴァリエであるハジでさえも。そして自分自身も。
 眠りに落ちる度に記憶を手放し、真っ白のまま目覚める自分は、その度に死に、また新しく生まれ直しているのかもしれない。その度ごとに新たな自分。そしてハジ・・・。隔てられた三十年。それならば目覚める時に居るハジは、自分が眠りに付いた時とは別のハジだと言えるのではないだろうか。出会うハジは少しずつ以前のハジとは異なっている。
 不意に置いていかれるような気がした。三十年の時間はハジでさえも自分から遠ざけてしまう。すべてから切り離された感覚が少女を襲った。淋しくて寂しくて、そして怖い。自分は一人なのだとこんなに感じた事はなかった。変わらないのは星の光だけ。――それが翼手の女王の定めとは言え、小夜は自分自身が迷子になった小さな子供のように覚束無い存在に思えた。何かに縋りたい・・・。けれど血に塗れている自分の手では、何に向かって、あるいは誰に向かって、何を求めたらいいのかすらもわからなかった。
 星の光を思おう。と小夜は思った。いつまでも変わらない光を。すがるのではなくて。そうすれば「自分」というものが何なのか、覚えていられる。私が私であることを信じていたい。眠りのその度に記憶を手放しても、待っていると言ってくれた者すら置き去りにしてしまう生をもっていたとしても。生きていて良いのだと、生きていて欲しいと言った、あの言葉を憶えていたい。星々の怜悧な青白い光。
 その光のうちに小夜は青年の蒼い瞳を思い浮かべた。あの揺るがない目。変わらずに自分を見つめる眼差し。どこか星の瞬きに似ている。いつの間にか乏しくなってしまったその表情の中で、唯一あの蒼い眼差しだけは変わらなかった。
 自分の言葉によって孤独から救われたと彼は言ってくれた。だから共に居るのだと。私のために居てくれるのだと。突き上げるように少女の中に一つの想いが湧き上がった。
――あの時の言葉を信じていたい。
 生きてと言ってくれたあの言葉。待っていますと言ってくれたあの言葉。想い一つで永い時間を亘っていく事が出来るのならば。宇宙から見ても、翼手の歳月に於いても、自分の時間は一瞬だけれど。その一瞬の意味は無とは違うと信じたい。
 変化しないものなど無いなら、私も新しいあなたに会いに行こう。何度でも、何度でも。だから・・・。




「勇気が欲しい。勇気が。生きていく為の勇気が」
 それでも大切なものは変わらない。そう信じたい。自分の名を囁くあの声。あの眼差し。薄蒼のあの瞳。それは永遠に変わらないのだと。――だからこそ、自分は戻ってくるのだろう。眠りの淵から、あの眼差しに逢いに。死のような眠りも、忘却の河も越えて、戻ってくる。その場所が今ははっきりとわかるような気がした。
 生きたいと思った、死と生の境の、あの時の想いがいつの間にか再び胸に溢れてきた。生命の一歩を踏み出すあの力が。




 不意に小夜はぴくりと身体を震わせた。
 慣れ親しんだ気配が近づいてくる。気配を隠すわけではなく、静かに落ち着いた足取りで。少しずつ近づいてくる足音。確かな意志を持って自分の所に帰ってくるその気配を、全身で感じ取ろうと小夜は身体を緊張させた。
 それが近づくに従って、思いがけないほど強く自分の心が喜びに満ちていくのがわかる。小さく息を吸いながら小夜は顔を上げた。その瞳が暖かな赤みを帯び、柔らかな光がその目に灯る。唇が震える。
 あと少し。あと二、三歩。そして・・・。




 不意に微かな音と共に扉が開けられ、夜が形をとって部屋に滑り込んだ。





END



2008.02.10

    バレンタインデー記念に。ハジが出てこないハジサヤ・・・(いや、これだとサヤハジになっている??? 何だか『BLOOD+』の二次創作って、私的には実験的なことばっかりやっているような。すみません)。
   というのは時期的な建前。本当は『This Love』の初回限定版が手に入った記念に創ってみたかったのです。そしてさらに本当は、もっと星の話をしたかった・・・。『This Love』は第3期EDテーマ曲だったから。金星ではなくって出来たら北極星にしたかった。EDの二人が一つの星を眺めているシーンが書きたかったから。が、しかし!あの位明るい空に見えるのは、一番星。宵の明星。と言うことは・・・。夜空で一番明るい星である金星しか見えないんじゃないのだろうか???という事を考えてしまって、自動的に金星に。変な事に拘ってます。申し訳ない!

 再び説明。最初私はハジに注目して、ハジに思い入れが深くて、どうしてもサヤの行動などに納得いかない部分とかがあったのですが(但し、納得いかないのはハジ→サヤに対してもあったので。両方に対して納得が~~と。もんもんとこの二人に対してしておりました)
それで、この何ヶ月か、アニメを繰り返し観続け、色々と状況を考えたりしてまして・・・。アニメ本編ではきちんと表現されてはいないものの(=ハジの報われなさしか目立たないけれど)、サヤという少女が基本的に背負っているものは、実はかなり重いものなのではないか、とこの頃思い始めまして。その一端でも表現できれば、と思って今回創ってみました。。。
 とは言うものの。バレンタイン記念ですので、基本的には(ビター風味でも)ハッピーエンドに。バレンタインらしく、サヤ→ハジという心理的シチュエーションと言うことでお願いします!(時期的には闘いが終わった後に。30年後でも60年後でも可!)

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