フランスでの翼手の目撃情報が、この所急に少なくなっていた。
「どういうことだと思う?」
   唇を噛み締めるようにしながら小夜が訊く。
「ディーヴァが拠点を移したのでしょう」
   青年の声はいつも静かで、逸りたつ小夜の心を鎮めるように響いてくれる。その声に幾分身体の緊張を解きながら、小夜はため息をついた。焦らずにはいられなかった。あの『赤い盾』の本部でディーヴァを倒せなかった時から、リクの最後を見た時から。
「ディーヴァの後を追わなくちゃ・・・」
「小夜。焦らないで。焦っても何にもなりません」
   穏やかに言葉をかけるハジに対して小夜は首を振った。自分達翼手の女王の活動期間は三年ほど。そのうちの一年を自分は沖縄で過ごしてしまった。対してディーヴァは起きたばかり。一年の差は大きかった。早くディーヴァを討たなくては、今度は自分の方に眠りが訪れてしまう。
「もう『赤い盾』からの情報は無い。私達だけで一刻も早くディーヴァの居場所を突き止めなくちゃ」
   全身の神経を針のように尖らせながら小夜が立ち上がった瞬間、思わぬ近さで海鳥が啼いた。海が近いとは言え、内地のこんな所にまで海鳥が飛んでくるなんて。思わず空を振り仰いだ。
「小夜・・・」
   『赤い盾』が崩壊した翌朝も。弟が、リクが死んだ翌朝も。こんな風に海鳥が啼いていた・・・。突き上げてくる悲しみに思わず声が震える。
「何でも・・・ない」
   急激に喉元にこみ上げてくるものがあった。すべてが自分たちを置いていく。時も、思い出も・・・。
「ごめん。一人にして」
   見られたくなくて顔を背けながら、まるで静かに涙を流して悼んでいるかのように、少女はただ一人、まっすぐに青い空を見つめていた。




   高い空に白い雲がいく筋か通っている。随分遠くへ来てしまった、と小夜は思った。同じ空なのに。空の色は青いのに、その青は沖縄のものとは全く違っている。沖縄の日々は既に遠くにあって、二度と戻ってこない。まぶしい思い出の日々。小夜は目を細めてその記憶を思い出そうと自分の心を探った。けれどもそれは今ではうっすらとした感触しか残さず、代わりに浮かんできたのはリクの最後の姿だけだった。あんなに澄んだ目をしていたのに、弟は何も映さない石の瞳でこちらを見ている。微かに伸ばされた手が・・・。
   強く首を振って振り払おうとする。その時唐突に記憶が甦ってきた。沖縄の日々ではない、今見ているこの空の青さ。ボルドーの昔の日々。
   あれも遠い日々。遠い、遠い、もう記憶の中にだけあるあの場所。懐かしい、遠い過去の出来事。『動物園』の時代を小夜は思い出していた。自分の生まれた場所を。あの日々は今では痛みを伴う想い出として自分の中に存在していたが、それでも心優しい記憶もわずかにある。小夜は目を瞑って瞼の裏に日の光が動いていくのをただ感じていた。


過ぎ去った優しい日々。
塔の中には自分だけの姫君。
誰にも内緒だった秘密の友達。
重い扉の向こう側。


   顔を合わすことも出来なかったけれど、ディーヴァの存在はあの頃のサヤにとってかけがえの無いものだった。不思議な事にディーヴァはそこに閉じ込められているというよりも、そこから出る事を怖がっているようで、ただサヤが話す外の世界の事を聞きたがった。塔の中の世界は、閉ざされた世界であった動物園の中でも、特に夢の中の出来事のようだった。
   だがそんな折、もう一つの出会いがサヤにはあった。ハジ――。きつい目をした少年との出会いは、甘い歌声と共にあったディーヴァとの邂逅と異なり、ひどく現実味を帯び、最初はサヤの感情に棘を立てた。ジョエルが他人を少女に近づけなかったのか、あるいは下仕え達はあえてこの不思議な少女に近づくのを避けていたのか。優しい義父だったジョエル以外の人間に接したことが無かったサヤは、他人の心に接することに不器用だった。傷ついた、繊細な感受性を持った少年がそれに耐えられる訳が無く、細かい衝突が繰り返され。時を止めたようなサヤの心に徐々に他者への歩み寄りが生じ始める。
   お互いの孤独が響きあい、戸惑いがいつの間にか優しい感情となったとき、少年はジョエル以外で初めて、サヤの近くに寄り添う事に戸惑いも嫌悪も見せない存在になった。大切な、もう一つのかけがえのない存在。触れ合う事の出来ないディーヴァと異なり、少年は生身で、現実の世界でサヤとともに時を刻んだ。ゆっくりと少年が青年になっていく。
   長いような短い時間。現実と夢の境で時間は流れ、ハジの成長と共に初めてサヤの中に、自分が異質である哀しみが、他の者達の時間と寄り添うことが出来ない悲しみが生じた始めた時、それは起こった。




   サヤの大切な塔の中の姫君が初めての望みを口に出したのである。
――外に出たい――
   サヤの変化がディーヴァに影響したのか、それともサヤのもたらす話がディーヴァにそれを望ませたのか。その時になって初めてサヤは彼女が閉じ込められている事を意識した。
「わかった」サヤは言った。
「もうすぐジョエルのお誕生日の祝賀会があるの。その時に頼んでみる」
   そうでなくても鍵の在処さえわかれば。ディーヴァの世話はジョエルの遠縁であり、助手であるアンシェルが一手に引き受けていることもサヤにはわかっていた。探ってみて突き止められたら・・・。楽しい事を見つけたような高揚感が湧き上がった。
 ――ディーヴァがどんな存在なのか、サヤが知ったのはすべてが終わった後だった。それともそれは始まったと言うべきなのだろうか。同時に自分がどんなモノなのか、サヤは知った。何故輸血をしなくてはならなかったのか。何故ジョエルやハジ達と同じ時間の流れが自分に訪れなかったのか。そしてハジ。ハジを「何に」してしまったのか・・・・。    50年という『動物園』の歳月はジョエルという人間の夢の歳月でもあった。その夢の中で育まれたサヤも夢の子供だったのかもしれない。
   しかしディーヴァの解放と共にその夢は終わりを告げた。ジョエルの死と共に。あの炎の中に幸せだった夢はすべて潰えた。




   小夜はため息をついて目を開けた。再び幸せな夢を見た。沖縄の空の下で。『家族』というものを知った。義父がいて、カイがいて、リクがいて。学校があって、友達がいて。あの頃の自分が、「音無小夜」が今は随分遠い。
   今や少女の世界に在るのは彼女とディーヴァの二人だけで、その他のものは付随物に過ぎない。最初からそう考えていれば良かった。と小夜は思った。今傍らに居る者を思って、一瞬激しい痛みが胸を貫く。そうすれば他の誰も傷つけず、巻き込む事もなく、その結果を見ることも無かった。最初からディーヴァと二人。たった二人の翼手の女王。あなたを解き放った事も罪。あなたが人を殺す事も、あなたが翼手を増やす事も、やっぱり私の罪に返って来る。だから、私はあなたを殺す。殺さなくちゃいけない。
   でも本当は、あの『動物園』の昔、二人で過ごした日々も忘れる事ができないから。一人ぼっちだった自分の初めての友達。美しかったあの歌。自分はどこに行ってもあの歌の響きを忘れる事はできないだろう。同じような寂しさを分かち合っていたと思い込んでいたあの日々。
「サヤ姉さまを殺す。殺してあげる」
 いつかのディーヴァの言葉が思い出された。自分もそうだから。こんな私達だから、私があなたを殺してあげる。そうして二人で砂に還ろう。
   ィーヴァ。私の妹。私が解き放った奔放で美しい血と死の女王。あなたの罪科。自分の罪過。そして翼手である自分がこの世に生きている理由。




「小夜・・・」
   ハジの声で我に返った。いつの間にか空の際は青から薔薇色の光を孕む赤銅色に変わりつつある。黄昏時が近いのだ。
「まだ夜は冷えます。屋内へ入ってください」
「大丈夫・・・」
   もう、私には恐いものなんてないもの。濡れたような瞳で振り返りながら小夜は囁くようにハジに言った。その瞳が透明な赤みを帯びていた。心配なんていらない。失うものも、もう無い。だからカイ達からも離れてここにいるのだと。
   何も求めない。希望もしない。ただ剣を握っている事だけが生きている証。たった一つの事だけを考える。そうすると自分の心から柔かい優しいものが失われていくのと引き替えに、楽になれるような気がした。
「小夜」
   再びハジがその深い声で、囁くように促す。少女は首を振った。そんな風に心配してもらう資格は自分には無い。私は一つの刄。あの子を斬るためにだけに存在する。
   それでも戦いが終わった後、奇妙な感情に襲われる事があった。乾いた風が胸の中を通り過ぎて行くような。そんな時は今のような、ハジの思い遣りが胸に染みた。それが感じられると、わずかばかり自分の中の人間らしい素直な気持ちが戻ってくるような気がする。だがそれが乾いた心には却って痛い。彼の優しささえも辛いと思う。
   そう思う反面、それがあるから辛うじて闘っていけるのだとも思い、自分の矛盾が可笑しくてならなかった。この自分の弱さがハジを自分に縛り付けている。


   でもきっと。最後の時、私はただ一人で。あの子に一人で対峙する。だからせめてそれまでは――。
   胸を焼く痛みと共に小夜はハジに歩み寄った。それまでは共にいたい。自分の闘いのすべてを憶えていて欲しい。そして最後に・・・。
   どうしてこの運命の供にハジが選ばれたのか、ハジでなければならなかったのか、運命が自分に示しているものが小夜にはわからなかった。この胸の痛みのその訳も。
 それでも、今は・・・。


   少女は潤んだ美しい赤い瞳でただ黙って青年を見つめていた。





END



2008.01.28

   初めてこのサイトに載せるまともなハジサヤ・・・。のつもりが何故かサヤディヴァに。すみません~~。前作リベンジのつもりが。

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