赤 光




  ――3――


 彼女はひどく頼りなげな目で彼を見つめていた。不意に見せるこうした彼女の顔は心細さと悲しみに縁取られ、まるで迷子になった子供のようだった。あのゴルトシュミット時代からの彼女ではない。この世でたった二人きり、旅をしていた時間とは何もかもが違ってしまった。人として人生を生きなおし、笑いを取り戻し、家族を得ていた。自分の知らない彼女。
 それでも彼にとって、彼女は彼女自身だった。運命から目を背けない純粋さも、一途なまでに他人を思いやる優しさも、変わっていない。まだ少年だった彼に暖かさを与えて孤独から救い上げ、居場所を与えてくれた。それは孤独な者が同じように孤独な者に歩み寄った不器用な関わり方ではあったが、彼にとってはそれで十分だったのだ。初めて他人に必要とされたあの幸せな時間。その時から彼女は彼にとって思慕の対象となり、長じてはそれに理解と庇護の感情が加わった。人から奇異の目で見られようとも、人間が好きで、自分が人間ではないと知っても人間とともに在ろうとし、それゆえに苦悩の中を歩む。そして今ではその意識は、もうほとんど人間と言ってしまっても良かった。人であったのに翼手なってしまった彼とは正反対の道を辿り、だからこそ自分の奥の本能にこうまで怯えている。
 彼は自分が翼手である証の、異形の右手にそっと触れた。今まで分かちがたく同じ時間、体験を共有し、その差異など感じなかった。だが彼女にとってわずか一年の体験が彼女自身を変えた。それだけ彼女にとって鮮やかな時間であったのだ、今までの記憶を凌駕するほどの。想いが思考を凍らせる。この包帯の下には堅く変質して、肌の色さえ赤黒い翼手の手があった。
 二人の間にあった確かな絆は沖縄での一年に及ばないのかもしれない。彼は瞑目した。今、かつてのように共にいたとしても、時間と記憶と想いと、三つのものに自分たちは隔てられている。この翼手の片腕のように。
 良くも悪くも、彼はその事実をただ逍遥と受け入れ、そこに佇んでいた。彼女が彼女であるという一点で、すべてを深く飲み込んで彼は彼女の傍らに侍す。いつかの言葉の通り。彼女が変わってしまっても彼は傍にいる。それがただひとつの彼の存在意義であり、生きる全てでもあった。


 けれどもまた別の記憶もある。彼自身の贖罪の記憶。あのベトナムの悪夢の夜。『彼女』の存在を組織が確認したと言う状況は彼のところにも届いていた。もうすぐ『彼女』の覚醒時期に当たり、その前に何としても『彼女』を葬りたいというのが組織の意思だった。それに否やがあろう筈が無い。『彼女』を滅する事。同じ目的を掲げる組織の元に身を寄せ、それに従う形で協力していた自分たちである。しかし、その時講じられた手段は通常のものではなかった。
 彼女が血液を経口ではなく直接体内に投入され、無理やり覚醒させられたと彼が聞いた時、すでに彼女は戦闘状態に陥っていた。妹のシュヴァリエに押さえ込まれていた彼女助け起こそうとした時、その変わりように思わず愕然となった。手負いの獣のように威嚇の唸りをあげている彼女の目は、底なしの破壊衝動を映し、まるで翼手の目を見るようだった。理性のかけらも感じさせず、自分の言葉も通じない。何かが狂っている。
 シュヴァリエを撃退した彼女は追いかけざまに、まっすぐ、今度は武器を持たない村人に向かって行った。人間とともに在る事を望んだ彼女が今、無抵抗な人間に刃を向ける。翼手の本能とその狂気の恐ろしさは、対面している彼にも伝染した。彼の想いは、まっすぐで堅固であり秘かな彼の誇りですらあったのに、本能の前ではいとも簡単にそのすべてが崩れた。それまでの自己の言葉すら嘘事になってしまうほどに。
 自分の意思とは関係なく、身体の中から強い衝動が湧き上がってきたのを憶えている。次の瞬間、自分の右手が人間の皮膚を破り、変化していく様を彼は恐怖を持って眺めているしかなかった。このような恐ろしい衝動が自分の中に眠っていたとは信じられず、何よりも彼女に対してそれが発現したことに恐怖とともに愕然とした。振り下ろされる刃の痛み。身を食い破るほどの胸の痛み。自分自身の本能も止められず、本能に支配された彼女も止められず。絶望が身体を凍りつかせ、そうして彼は彼女の姿を見失ない、組織から姿を消した。
 あの時から30年。運命に曝され、自分の本能にも裏切られ、けれども想いによって本能への絶望感から踏みとどまるのにどれだけの力と時間が必要とされたのだろうか。その運命の重み。そして彼の負っている約束の重みと。それらが彼から表情を奪い、笑顔を奪った。
『私がディーヴァを狩ったら、あなたの手で――』
 存在することに対する絶望に縁取られた彼女の貌は白く凍りつき、彼は諾う事しかできなかった。あれは自らの願いなど持つことの許されない彼女の、ほとんど唯一の望みだったのだ。
 残されたのはただひたすらな彼女への献身。もとより見返りなど省みることなどない。本当は昔から解っていた。彼女は人間でありたかった。そして自分も、あの時まで自分が翼手であるということの本当の意味をわかっていなかったのだ。皮肉にもその事は彼女に対する理解をより深め、逆に彼を現在の彼女からは遠ざけていた。


 そして今。自分自身に怯えて身を遠ざけようとしている彼女。
 私の、翼手の女王。だがそれよりも。大切な大切な少女。瞳が赤く色づいている。その意味を青年は正確に把握していた。既に彼女の身体は限界近く、その吸血本能は耐え難いほどのはずだった。彼がごく自然に短剣を取り出すと、それを目の隅で捉えた彼女が堅い声を上げた。
「やめて――」
 だがその彼女の視線がどこを見ているか、その時彼にはわかってしまった。そうと知った彼女が益々怯えたように顔を背けて身体を縮こませる。彼女の矛盾もそれゆえの苦しみも、我が事のように彼には感じられた。そして自分がどのような事をするかという事も。
 音をたてずに彼は彼女に近寄り、跪いた。彼独特の滑らかな動作を、恐れると同時に待ち望んでいる自分が居る。彼女は自身の奥に息づく、翼手としての自分を感じていた。気遣わしげに自分を呼ぶ彼の声が耳朶を打つ。そこに含まれている軋むような絶望の響きが、自分の中の何かに呼応して思わず彼女は振り向いてしまった。
「怖がらないで。自分自身を。どうか――」
 振り向いてはいけないと分かっていた。それなのに、その声の中の哀しみに引き寄せられてしまう。その哀しみは自分自身のものでもあるから。引き寄せられたのは自分ではなく、自分の方が彼を引き寄せてしまったというのに。自分の中の哀しみと孤独。彼の中の哀しみと孤独。同じ存在の二つの面。振り向いてはいけなかったのに・・・・。
 彼の声は彼女にとって、全ての事への肯定と誘いの響きだった。沖縄で出会った時から。半ば無意識のうちに彼女はよろよろと足を踏み出していた。夢の中の出来事のようだった。
 身体の奥からの記憶に促され、その白い滑やかな喉に歩み寄れば、脈打つ血管が知覚できる。暗い、本能からの記憶。跪く彼の前に、しなやかな野生の獣のように近寄りながら、彼女は遠い木霊のように彼の名前を呼んだ。その瞬間。その一瞬だけ彼の温度の低い肌が粟立った。崩れるように膝をつくと、彼女はその手を指し伸べた。華奢な彼女の手が彼の肩にかかり、伸び上がりながら襟元に唇が寄せられる。彼女の唇も振るえていた。本能が行動を後押しし、彼女の口中で犬歯が長く伸びる。吸血するために。せり上がる吸血への欲求は人間には無いものだった。私は翼手。
 牙を押し当てた瞬間に、彼の身体が強張るのが感じられた。身体のどこかに甘い疼きが生じる。牙がその肌を割ると、彼女の口中に生命の潤びが広がった。その血潮は彼の心臓の鼓動に合わせて溢れ出て、彼女の喉を潤し癒していく。懐かしい感じがした。こうして全てを差し出してくれる彼の存在そのものが、今はただ嬉しかった。
 躊躇いがちだった行為が、やがて徐々に力強くなった。眩暈するように彼を感じる。その存在がより一層身近に感じられた。彼の感情すらも。シュヴァリエの血。彼の命。郷愁が当惑に取って代わられる。頭の中心が痺れ、欲求が募ってきた。唇に伝わる彼の肌の感触、その匂い。その接触の艶やかさ、なまめかしさに陶然となった。まるで総毛立つような・・・・。輸血する以上の効力で身体が回復してきた。傷の治りは一瞬だった。力が漲ってくる。貪欲にむさぼる自分がそこに存在した。甘いこの滴をもっと欲しい・・・・。欲求が激しさを増し、見知らぬ荒々しい感覚が自分を飲み込む寸前、戸惑いが彼女の疼きに楔を打った。いけない。止まらない衝動を無理やり押し殺す。
 震えながら彼女は牙を放し、頭を起こした。肩に回されていた彼の腕が自然に緩む。言葉の無いいたわりが深い安堵感となって彼女を包んだ。彼女の中の戸惑い、羞恥、懼れ。だがそれらは青年の静かな、揺るぎ無い視線の中で氷解し、消えていった。彼女のシュヴァリエ。翼手の女王に従う者。彼の瞳を見つめるうちに、彼女の目から涙が溢れ出た。離れていた年月の中で、彼の目が奥深く研ぎ澄まされ、静謐さを増しているのを彼女は知った。その変化の様、それを経てなおここに居る彼に胸が一杯になる。その白い手が上がり、繊細な指で子供にするように彼女の涙をぬぐい、朱に染まった口元を拭ってくれた。拭われた端から新たな涙が溢れてくる。
 あの崩壊の時以来、彼のいたわりにすら目を背けながら、一方で怖れていた。彼の心を見つめるのが恐かった。それに捕らわれると自分が向こう側に行ってしまいそうで。沖縄の日々が無になってしまいそうで。あの客船の甲板で、今の私のままで良いのだといってくれた彼。でも沖縄での私の日々は本来彼にとっては、無意味で無駄な日々ではないのか。本当は、心の奥底では沖縄以前の私に戻って欲しいのではないのか。その疑問がどうしても無くならなかった。あの夏の日々が今の私を形作っているのに。
 けれどもその疑問は彼の血を口にし、その瞳を見つめた時に霧散した。彼の目の中にはただ深い理解と受容しかなかった。運命に対する受容。彼女に対する受容。その時突然理解した。彼にとっては以前も今も関係ない。彼の言葉通り、彼女が彼女だから傍にいるのだ。たとえそれが痛みを伴おうとも。
 彼女は何も言うことが出来なかった。もしもあの時彼に血を与えなければ。そもそも彼を危険な目に合わせなければ。それなのに、なぜいつもいつも、こんな自分に付き従ってくれるのだろう。遠い昔に彼をシュヴァリエとして自分の運命に引きずり込んでしまった事も、彼を忘れて沖縄で希望を見てしまった事も、既に彼の知っていた彼女ではなくなってしまった事も、全てをどうしてこうまで受容できるのだろうか。空手で彼の無言を見つめる事が、ただただ切なかった。切なさが胸の痛みと、わずかな甘さを運んでくる。
 これを知りたくなかった、気がつきたくなかったのだと、今彼女はわかった。振り返ってしまえば、彼の痛みに向き合わなくてはならなくなるから。
 ふと目の隅に彼の包帯に巻かれた右手が映った。炎の夜に自分が切り落とした彼の右手。ベトナムで彼を傷つけた印。彼女がおずおずとそれに触れると、彼は一瞬びくりとなってその手を彼女から遠ざけた。瞳など覗き込まなくても彼の痛みが伝わってくる。ベトナムの轟音と炎。彼にとっては離れてしまった証し。混乱と恐怖の夜に、それぞれの本能によって引き裂かれた。それは半ば本能に翻弄されて正気を失っていた彼女よりも、彼にとって苦しみに満ちた記憶なのではないか。彼の目は逸らされてこちらを見ることは無い。
 だがひとつ確かな事があった。それぞれ異なった贖罪を共に負ったあの暗い夜を越えて、今ここに二人はいるのだ。
――言葉は遠くの方から自然にやってきた。
「それでも、あなたは捜し出しに来てくれた」
 口に出すと胸に暖かく、それは相手に対して発した言葉であるのに、自分自身をも慰め暖めた。逸らされていた彼の目が微かに見開かれながらこちらを向き、やがていつもよりずっと柔らかな表情となって落ち着いた。いつだってこの瞳は穏やかでやさしかった。もう彼の目の中を覗き込むことを怖いとは思わない。彼だけが遠い記憶の最初のときから彼女の傍らにいてくれる。
 沖縄の潮騒が遠い響きとなって耳の奥で響いていた。帰れない場所。こうして懐かしい場所から一歩一歩、自分は遠ざかって行くのだ。彼女は残してきた親しい人たちのことを考えた。あの大事な人たちが自分たちの戦いの外にいてくれることは安心だった。そしていつか自分は宿命から解放される。この優しい手によって。
 彼女は彼の名前を呼んだ。
「行こう」
 外は闇。けれども傍らにいる気配は温かなぬくもりを持っていた。



END



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2007.08.10




 終わった・・・! ここまでお読みくださいまして、ありがとうございました。一応、『赤い盾』崩壊後しばらくしてと言う設定で。説明するのが上手い方ではないので、分かるように書けたか心配だったり。でも一番妄想するのにポイント高いような気がするのです。この期間って。
 あまり色々な処を廻っていないので、多分どなたかが同じような感じのものを書かれているかも、と思いつつ。自分なりにハジ小夜がどんなキャラクターか、これを書きながら探っていきました。力尽きた・・・。(自分の手一杯な事をしてしまったような気がして・・・)でも楽しかったのも確かです。ようやくこの3話の後半くらいから、書く事に対して少し慣れてきた感じでした。こういうSSを書くのは苦手というか、恥ずかしい。照れ照れです。それでも、もう少し書いてみようかな?と思わせてくれた体験でした。
 ありがとうございました~~。





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