赤 光




  ――2――


 彼女は刀を握り締めて正面を見つめた。翼手の気配が濃厚になってくる。身体が闘気に緊張し、普段は鳶色の彼女の瞳が赫光を放ち始める。一歩踏み出すと、同じ空気のように彼の気配が寄り添うのを感じた。ひとたび戦いになれば、彼はそのやり方も共闘の仕方も、物慣れた呼吸のように合わせてくれる。そうあるのが自然なように。そうしてその戦いの時だけは、二人きりでいることが自然なのだと彼女は感じた。それが大切な人達を守る事だと信じて、彼女は二人だけで離れることを望んだのだ。戦いの事だけを考える。他の事は考えない。そう思い込もうとしていた。彼の深い思いやりと穏やかな静けさをも知っているというのに、あの崩壊のとき以来、そちらに感情を振り向けるのがなぜか恐ろしかった。
 彼女を彼女自身の戦いに導いたシュヴァリエ。唯一彼女の過去を共有する者。だからこそ彼女は彼を傍らに置く事を自分に許し、暗い路を一人往くことを選択した。それが彼にとって何を意味するものかに目を瞑りながら。なぜなら今の彼女が本当に帰りたいと思っているのは、ボルドーの「動物園」の日々ではなく、沖縄のあの夏の日々だったから。 彼女が自分で取り戻す事を望み、ようやくその大半を手にした過去の記憶は、沖縄で今まで暮らしてきた一年に比べると、薄皮一枚隔てた中にあって現実味が少ない。それよりも義父や弟を喪った悼みの方が強いのだ。失くしたくなかった。その暖かな記憶を。たとえそこに帰ることが叶わなくても。失わないために、彼女は自ら進んで手放した。人間との関わりを。
 黒衣の青年が低く彼女の名を呼んで注意を促した。うなずいて腰だめに刀を構える。扉一枚隔てた向こうに奴らの気配が迫ってくる。それに伴って緊張感もいやがおうにも高まった。できれば一撃で片をつける。苦しませない。息を吸った瞬間に扉が爆発するように破壊された。
 雄叫びとともに踏み込むと同時に、翼手がその鍵爪で横殴りに彼女を振り払った。予想外のその行動に、とっさに彼女は防御をとれなかった。闘争の思考に身体の反応が遅れているのだ。まだ自分の身体を自在に扱えていない。胸を突く衝撃とともに背中から反対側の壁に激突した。一瞬息が止まる。ものも言わずに彼が彼女をかばって前に走り出て、翼手の鋭い爪をその腕で受け止めた。張り詰められた両者の力がお互いをその場に固定する。
 咳き込みながら身体を起こすと、彼女は再び刀を構え直した。左肩が切り裂かれ、血潮が二の腕を伝って肘から滴り落ちる。その血潮を刃に滑らせて彼女は走った。彼が彼女を待っているのがわかっている。翼手との体格差は歴然としているのに、ほっそりしている彼の身体は鋼のように一歩も引かない。入れ替わるようにその身体の右横から走り込み、無防備な翼手の左脇下から斜めに切り上げた。肉を断つ手ごたえが確かな重みとして感じられる。押し切るように切り裂くと相手の血潮が噴出し、ついで見る間に硬化していく。彼女が身を翻すと、その場に結晶化した翼手の身体が崩れるように横たわった。
 だがほっと息を吐いた時に、再びあの感覚、翼手の感覚が彼女を捉えた。赤色の輝きが彼女の瞳に宿り、髪が逆立つ。
――上?――
 飛びのいたその場所へ、もう一体。禍々しい気配と共に翼手の大きな身体が振ってきた。天井に穴が開いている。飛びのきざまに着地した場所からそのまま躍動をつけて踏みあがった。常人ではありえない反射速度だった。手を血潮で濡らしながら身体を宙に投げ出すと、翼手の腕をかいくぐり、彼女は両手で相手の肩から袈裟懸けに切り落とした。硬化が始まる、枯れ枝が折れるような音が彼女の耳に届いた。巨体が音を立てて床に倒れる。これで最後だろう。
 刀の刃先を床につけて、彼女は荒く息を吐いた。これだけの動作で既に息が上がっている。エネルギーをすべて放出してしまったかのような倦怠感が彼女を捉えて放さなかった。右手の日本刀を重く感じながら、血潮をぬぐい鞘に収め、今度こそほっと一息つく。
 左肩の痛みがずきずきと疼いているのに気がついた。回復力が低下して治癒が遅れているのだ。ぼんやりとそう考えながら、彼女はたった今倒した相手を見つめた。ねじれたような灰褐色の筋肉。醜くゆがんだ顔の骨格。強張った四肢の爪は鋭く尖っている。異形のものという形容そのままの姿。
 何体倒してきたのか、今ではもうわからなくなってしまった。アレが自分たちの正体なのだと、自分たちの方が擬態なのだと言われたが、自分自身の本質があのようなものだとは到底信じられない。ボルドーでの成長期も、沖縄での日々も、ずっと人間として生きてきたのだ。どこかでまだ私は人間だと思い込みたいのだろうか。


 突然、強い眩暈が彼女を襲った。地面がぐっと近づいてくる。これは・・・この感覚は覚えがあった。「動物園」で。初めて妹と対峙した時。あの時も、弟を傷つけられた激情に駆られて刃を交わした後、急激な眩暈と衰弱が彼女を襲った。
『血が足りないんだ。姉さま』
 嬌声が響く。
『周りはご馳走でいっぱいなのに』
 甦る妹の笑い声を脳裏に聞きながら、倒れていく身体を受け止める腕があった。精神を現実に繋ぎ止めるその感触に、嘲るような甲高い笑いの記憶が引いていく。
意識を手放していたのは一瞬だった。名を呼ばれてうっすらと目を開けると心配そうな顔がそこにはあった。出会った時にはほとんど無表情に見えたその顔も、こうして共にいることによって何とか表情がわかるようになってきた。特にその目に映る表情は、隠しきれない彼の内面を写しているようで、覗き込む事が躊躇われる。
 彼の目の中を覗き込むと、いつも彼女に対するひたすらないたわり、深い思いやりが見えた。その優しさは生まれる前からの約束のように、束の間の癒しを彼女にもたらす。無言理の肯定がそこにはあった。けれどもそうやって見つめていると、ふとした拍子にその奥から幾重にも重なった痛みが浮かび上がる事があり、それが浮かび上がったとたんに彼の目線は彼女から外される。いつもそうだった。
 だから、彼女は彼のことが未だによくわからない。そして今は彼女自身その痛みを直視する事を忌避していた。不意に胸の痛みが彼女を捕らえた。不用意に彼の瞳を覗き込んでしまったからだろうか。その痛みに触れる事が怖くて、慌てて起き上がろうとした彼女を再び眩暈が襲った。
 身体が限界を訴えている。眉根を寄せて目を瞑り、彼女はそれに耐えようとした。組織から離れた彼女はもうかなりの時間、栄養摂取をしていない。だが翼手の代謝能力の特性によって、自分が弱りこそすれ機能停止に陥るわけではない事を彼女は分かっていた。飢えで死ぬ事は翼手には難しい。
 しかしその飢えが普通の人間とは異なっており、自分自身の意志さえ凌駕するものであることを、まだ彼女は実際には知らなかった。


 低い声が囁くように彼女の名を呼ぶ。応えるように大丈夫だと口の中で呟きながら、彼女はその身を起こした。身体の衰弱は続いているが、眩暈は次第に治まりつつある。まだやらなくてはならない事があった。この騒ぎを聞きつけて近所から人々が集まってくる前に、次の翼手を求めて移動しなければ。
 だが顔を上げたそのとたん、彼女は目を見張った。白い首筋が視界に飛び込んできたのだ。男性の硬質な線とその鮮やかさに息を呑む。同時に内側から大きな欲求がうねるようにせり上がって来た。抗いがたい激しい欲望。
 そんな・・・・。彼女は苦悶の喘ぎを微かに上げた。白い首筋の向こうに仄かに透けて見える血管。瑞々しい血流が青い線となって浮き上がっている。血の味が口の中に広がった。飢えが彼女の全てを支配しようとしているのだ。彼の血潮。自分の血潮。押さえられないほどの欲求というものを彼女は初めて体験していた。気管が圧迫されて呼吸が苦しくなる。脈動が耳元でうなっている。彼の滑らかな喉、そこから目を引き離すことができない。
 いつの間にかその瞳に朱が灯った。身体の中心が熱を持ったように熱くなり、彼女の喉が上下に動く。顎が震えた。頭の芯が痺れていく。甘美な願望に体中の細胞という細胞が目覚め、声高く欲している。押さえつけようとする彼女の努力はむしろその甘美さをより剥き出にした。
 喉が・・・・渇いている。彼の喉元。その血管の下を通る血潮の音すら知覚できるような気がする。そう。あの肌に牙を立て、この喉を潤せたら・・・・。
――イヤ――
 気がつくとその腕の中から逃れていた。彼の困惑が感じられた。ひどく静かな悲しみにも似た感情が。
「傍へ、来ないで・・・・」
 来られたら私は――。
 今までも闘いの折に触れ、彼の血を分け与えられてきた。もちろん自分が吸血する一族とわかっている。こういうやり方で彼から血をもらった事も記憶としてはある。けれども今の欲求は違う。獣のように本能が、翼手本来の吸血の仕方を彼女に教えていた。相手の喉下を食い破って、血と生命を貪るやり方を。想像の奥から自分自身が彷徨い出て、彼女を脅かした。
 あれは・・・・私・・・・・。血と炎の記憶。本能が全てを支配した夜。彼女は耳を塞いで首を振った。罪無き人間を切り殺している自分の姿。おぞましい姿。翼手の闘争本能。吸血本能。いつか、血にまみれながら獲物の喉に喰らいついている自分。浅ましい、その姿。
 いつの間にかすすり泣いていた。惨めだった。自分が翼手だという事を受け入れた筈なのに、自分の奥に在るものが怖くて堪らない。助けを求めようにもその手はすでに遠い。自ら進んで離れたのだから。翼手の本能に人間が関わる事は危険すぎる。自分自身もその本能にいつ暴走するかわからないのだ。その不安と失ったものへの大きさに、彼女はいつもたじろいでいる。
 どうしたらいいのか自分自身に震えながら、懇願と拒絶の間から彼女は彼を見つめていた。



―1―に戻る  / ―3―に続く

2007.08.03




 段々と自分の文体になってきてしまっている。『BLOOD+』にはこれにふさわしい文体があると思うのに、下手だから全然上手くいかないのです。反省です・・・。
 原作アニメが結構突っ込み所が多くて・・・・。実は自分の中でキャラクターたちをどういう位置づけにして良いのかわからなくなってしまいました。それで自分理解を整理するために、必要に迫られて作り出したSSです。
 ですから多分他の素敵サイト様のSSもいっぱいあるのにもかかわらず、私による私のためのSSをこうして書く羽目に・・・。何だか申し訳ないような。お読みいただきまして、ありがとうございます。
 そしてこの次でこの物語は御終い。(次が一番捏造度が高い・・・)





Back