赤 光




  ――1――


 火の爆ぜる音が轟音と化していた。ヘリコプターから落とされた照明弾が目を焼き、影をおどろに映し出す。獣じみた咆哮が夜を貫く。辺りは地獄もかくやという狂乱を呈していた。なぜあそこにいたのだろう。あそこは一体どこだったのだろうか・・・・。


 ベトナムの夜。空爆と小銃の音。血と叫喚の夜。化け物たちが貪り合い、狂気が支配する夜。焔は密林の夜空を赤く照らし出し、血染めの衣が舞った。その中に彼女もいた。不安定な夢を起こされ、現実と悪夢の境に突き落とされ、翼手の本能に支配されて。禍々しい手が密林を地獄さながらに蹂躙し、悲鳴と爆音が響き渡る中、全てを破壊せずにはいられない衝動に彼女も狂った。理性と人格を凌駕して奥底から破壊の衝動が沸き上がってくる。
 あの歌が自我の全てを占めていた。彼女の一番深い部分に響きあうその歌は、彼女を本来の彼女自身に導いているようだった。今まで体験したことのない解放感に身を委ね、紅い大地を、硝煙の中を、彼女は駆けた。何もかもが敵だった。風が呪縛を歌い、肌がむき出しになった神経を逆なでする。
 敵だ。間逆の女王の血だ。『彼女』が歌っている。おいで、こちらへおいでと。さあ、闘いましょう。それが今の私たちの間に横たわる唯一の交感手段なのだから。そしてやってくる。『彼女』の血が襲ってくる。彼らの女王に触れさせまいと。次々に押し寄せる殺気に彼女は吼えた。身体に突き刺さる敵意と銃弾がさらなる混乱を彼女にもたらす。闘わなくてはならない。やられる前にやる。それは責務や技量など関係の無い、ただの殺戮だった。身の奥からの情動が囁いている。血を。死を。動くもの全てを殺す。
 人間は彼女の障害物にしか過ぎなかった。尽きる事のない闘争の本能に翻弄され、彼女は力任せに刀を振るった。彼女唯一の牙。今や彼女自身とも言える武器を。
 血の匂いがする。全ての敵を討たねばならない。
「いけない」
 よく知っているような声が耳朶を打った。心が何かを告げる前に、身体が既に動いていた。
「私がわからないのですか」
 苦い声が聞こえる。わからない。誰なのか。でも。止めなくては。既に本能に支配され、戦いの狂気に捉われていた彼女の理性が心の片隅で小さく足掻く。大切なことを忘れているような気がする。絶対に忘れてはならないものを。けれども彼女の身体は止まらなかった。何合か打ち合ううちに相手の手から武器が吹き飛び、彼女の蹴りが性格に相手の腹部に決まる。素朴な土作りの家を壊しながら立ち上がろうとする相手に、なおも迫った彼女の目の前で、ついに相手の右腕が変化した。翼手の手。戦闘のための手。自分に向かう武器。それを認めたとたんに、身体が反応した。
 ためらう事は許されない。相手の右手が宙を飛び、自分に向けられた感情が驚愕から絶望と諦観へと変化する。次に踏み込むその前に、彼女の注意を引いたものがあった。恐怖と敵意。彼女は反応した。たった今まで自分と対峙していた相手からはすでに相対する思念は感じられない.
純粋な本能の反射として彼女は向き直った。新しい敵に対して。


 立ち込める炎。爆音と悲鳴を上げる豪華客船。海の上の堅固な城は今まさに落ちる寸前だった。内部からの誘発によって、堅牢な城砦のようなこの客船が加速度的に崩壊していく。破壊と混乱の嵐だった。爆風が彼女の髪を揺らしている。煙の中に見えるのは、美しい妹の顔。あの声。炎の照り返しがその顔を赤く染め、青白い『彼女』の顔は艶やかな血の色を称えていた。刀を握り締めて彼女は駆けた。雄叫びがその口から解き放たれる。だが身体に触れる寸前に妹はそれを軽くかわした。余裕さえもって。翼手の女王は彼女の殺気を楽しんでいる。
 心ばかりが逸っていた。憎悪が彼女を焼いているのに、その力は到底『彼女』に及ばない。その微笑みはついぞ崩れることは無く、妹への怒りのみが募っていく。
 ついに船体自体が崩落した時、必死で足場を確保しようとする彼女の目の前で、妹は声を上げて軽やかに笑ってみせた。目を奪うような美しい笑顔が宙高く舞い上がる。『彼女』の眷属が文字通り翼手の姿を解放して主人たる『彼女』とともに風に乗ったのだ。船体から轟々と立ち上る崩壊の上昇気流。追いつけない。この手で『彼女』を殺すと誓ったのに。憔悴が彼女を襲った。
 義父の時は、『彼女』の血から作られた薬剤が原因で命を落とした。いや、それが父の全てを侵食する前に、自分がこの呪われた血で父の命を奪ったのだ。
 だが弟の時は。弟は『彼女』のその手で、その意思で命を奪われた。彼女の血は妹への毒。妹の血は彼女への毒。面白おかしく自分の手で弟の命を奪った事を告げた妹の顔が忘れられない。胸をつく痛みと悔恨に彼女は呻いた。
 硬く鉱物化した弟の姿。二度と瞬かない瞳。聞こえない声。耳の奥で響く柔らかなその声。一目見た時、弟が『彼女』に何をされたのかわかった。別れたのはほんの数刻前だったというのに。不安の中から心配そうに自分を見つめたのは、弟の方だったのに。今はものを言わない冷たい姿が、何かを言いたげにこちらを見つめている。その名を口に出そうとした瞬間、まだ子供と言っていいほどの華奢な身体に亀裂が入った。
――三人で沖縄に帰ろう――
 甘い夢はもう御終い。あの瞬間に彼女の戦いの意味が全て変わったのだ。義務と責任から、明確な意思へと。悔恨と贖罪の対象から、憎しみの対象へと。
許さない。――ぎりぎりと刀を握り締めれば、自分の中から激しい憎悪が湧き上がってくる。あの、遠い記憶のベトナムの夜のように。
「またお会いしましょう。お姉さま」
 見る見るうちに妹の姿は船上から遠ざかっていった。悲しみと憎しみが心を燃やしていく。信じられないほどの感情が身体の奥底からわきあがってくる。

 翼手の、血の女王。
 彼女は力の限り、妹の名を叫んだ。


    ――――――――――
「!」
 焔と血の夢から逃れるように彼女は身を起こした。
「夢・・・」
 張り詰められた感情が身体を内側から食い破ってくるようで、彼女は胸の前で右手を握り締めた。どうやって崩壊する船上から脱出したのかさえ、はっきり憶えていない。だが一月近く前の記憶は、夜毎の悪夢として彼女を苛み続けていた。
 炎と煙に巻かれて気が遠くなっていった。誰かの腕に抱きかかえられたような記憶もうっすらと残っている。そしてあの目。妹の青い瞳。その記憶を振り切るように、彼女の右手が刀を探した。
 すると少し離れたところから傍らに近寄る気配がした。黒一色の服装が目の隅に映る。そちらを見なくても彼だとわかっていた。彼女の、今や唯一のシュヴァリエ。
 包帯に覆われている彼の右手が、寝台代わりの椅子の背に立てかけられていた彼女の刀を取り上げて、そっとその手の届く所に置き直した。やさしい気遣いに満ちた、静かな眼差しが彼女を見つめている。そうだった。沖縄で出会った時以来、気づくとずっとこの瞳に見つめられていた。それがとても自然で、ふとした拍子に意味も無く涙ぐみそうになる。
 けれども胸に巣食う大きな悔恨と孤独はさらに大きく、癒えることがなかった。それが彼女の憔悴に拍車を駆け、刃を手放すことを許さない。神経が剥き出しになっているように彼女の全身は張り詰め、心の余裕も休息も忘れて翼手を狩ることに駆り立てられた。何よりも苦しいのは、なす術も無く妹を取り逃がしたことだった。弟の、失われた多くの命の事を考えると悲しみと悔しさで胸が潰れる。私がやらなきゃならないことだったのに、いつもほんの少しの躊躇いと覚悟の欠如に、運命は大きな代償を要求する。崩れ落ちる弟の姿が目に焼きついて離れなかった。あんなに辛い思いをして何度も立ち上がってきたつもりだったのに、その結果、弟をシュヴァリエにすることによって自分の運命に引きずり込み、その上で『彼女』によって命を奪われた。私がやらなきゃと思ったのは、義父のような犠牲者を二度と出さないようにするためだったのに。大切な家族を守るためでもあったのに。一年という長いようで短い日々に、かけがえのない絆を渡してくれた家族。義父と弟。彼らを失った彼女の心は、絶えず血を流し続けた。
 わかっていた。守るべき家族にどこか依存してきた私。これはその見返り。どこかで甘えていた私への運命からのしっぺ返し。だから。もう二度と誰にも傷ついて欲しくなかった。そのためには何だってできる。そう、これは最初から自分と『彼女』との戦いなのだ。
 彼女はついに自分の中の血の意味を受け入れ、そしてそのことが、あんなに望んでいた人間としての自分を捨てさせ、戦いの場に在ることを決定させた。それは自分たちが人間ではないことを、彼女が受け入れた瞬間でもあった。自分たちも自らが狩るべき存在である翼手であるということを。
 切り伏せる彼らの異形の外見は、彼らが自分と同属だという意識をほとんど感じさせない。それは救いだった。ただ、彼らが翼手の女王として覚醒を果たした彼女の血の匂いに引き寄せられているのがわかるだけだ。集う彼らを切る。ただひたすらに切る。それだけが彼女の存在意義であるかのように。そしてその先にいるものは『彼女』。自分と同じ血を持つ双子の妹。
 あの凄まじい純度の青い瞳に映るのは、自分に対する憎悪なのか執着なのかわからない。分かっているのは、『彼女』の動向が人間という種への災いとなる事だけだった。『彼女』と『彼女』のシュヴァリエ達は純度の高い欲望と悪戯心とで人間の世界を蹂躙しているのだ。それを阻めるのは私だけ。あの禁断の扉を開けてしまったこの私の責務。昔も今もその義務感が彼女を駆り立てている。戦わなくてはならない。昔犯した罪のために。自分の運命に巻き込まれて死んでいった人たちのために。自分自身の憎悪のために。そして未来に有る約束のために。この辛い運命から解き放たれるその時まで。

 悼みに寄り添うような、いたわりの視線を感じて目を上げると、静かな目にぶつかった。深い理解をこめた視線。いつも変わらないその静謐なまなざしは、このたびの目覚めから変わっていない。けれどそれ以前はどうだったか。穏やかではあったが、こんな風に鏡の表のように無表情ではなかったような気がする。まるで諦観と悲哀とを表情に出す事を恐れているかのような。胸の痛みを無視して彼女は立ち上がった。この痛みに振り向いてしまったら、取り返しがつかないから。今は戦いの事だけを考えていたかった。



―2―に続く

2007.07.27




 お読みいただきまして、ありがとうございました。稚拙なものですみません。前にお試し期間で、一部を上げていたモノを再編集してみました。
 そして今回も、やっぱり試しているのは固有名詞を一切使わずに書いてみる方法。何となくSSって書いていて照れます。何だか気恥ずかしいです。SS書くのって。下手だから~。





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