黒い雲の間から光がさす。その少女はそんな朝を迎えた日にやってきた。どっしりとした馬車からは少女とともにその一族の、やはり彼ら特有の白い髪をした女が一人だけついている。馬車から降り立つと彼女はきょろきょろと、もの珍しそうに周囲を見回した。
 昨日からの雨が上がり、水溜りに光が反射している。その水鏡の中にジョエル・ゴルトシュミットのパリ本宅が映っていた。少女はそれを覗き込み、その中に薄く自分の運命の一端がつむぎだされているのを観つめていた。黒い雲の中を一筋の光が射し、ゴルトシュミットの館を照らしている。少女にとっては初めての外界だったが、まるでここに来るのが当然のことであったかのように自分の中にしっくりとなじんでいる事に少女は軽い満足を覚えた。ここで彼女の師匠となる女性の元とともに、少女達一族のために働くのだ。使命感と期待にその小さな胸は膨らんでいる。名前を呼ばれて頭を上げると振り向いて、少女はゴルトシュミットの館の中へ足早に入っていった。




 ゴルトシュミットの館は数代続いた富豪の家に相応しく、重厚で趣味の良い装飾が施され、綺麗に磨かれた床の光沢が自分の靴音を響かせる様は少女にとって面白いものと感じられた。案内された部屋に入る時、少女は一瞬ためらった。これが自分の運命と指し示されたものの前で、予感と不安が綯い交ぜになった黒い雲のように感じられ、その大きさが少女をたじろがせていたのだ。しかし再度促されると彼女は大人しくそれに従って部屋に入っていった。
 部屋の中へ入った時、一番最初に目に映ったのは柔らかい色の髪を持った、ひょろりと背の高い男の人と、その隣で椅子に腰を下ろしている女の人だった。白い衣、一族のうちで予知の力を持つ者にしか許されていない頭布を被っている。腰掛けている女の人の後ろ側には白い髪をした一族の一人が、これも立っていた。
「君が彼女の跡継ぎなのだね」
 男の人がにこやかに笑いながらこちらに向かって歩いてきた。
「遠い所を、君のような歳の者が。疲れたでしょう」
 そしてしげしげと少女の顔を覗き込んだので、彼女は思わずうつむいてしまった。その様子がおかしかったのか、彼は軽く笑い声を上げて言った。
「私はジョエル・ゴルトシュミット。この館の主です」
 その飄々とした雰囲気は悪いものではなく、むしろこの館の持つどこか重苦しい雰囲気を和らげているようだった。けれども少女はゴルトシュミットの重厚さにも、大人の男の人の対応にも、こんな風にほとんど無遠慮な視線にも慣れておらず、最初に感じたしっくりとなじんだような感覚との差に戸惑って、救いを求めるように一族の白い姿を探した。
「ジョエル」
 言葉を発したのは椅子に腰を下ろしている女の人だった。
「その子は初めて一族の元を離れてここへ来ているのです。どうぞ私達の近くへ――」
 言われて少女は走るようにして彼女の元へやって来た。
「よく来てくれましたね。待っていました」
 その言葉に少女の心に再び落ち着きが帰ってくる。振り返るとジョエルが苦笑していた。
「大丈夫です。まだこの子はここに慣れていないだけですから」
「時間はこれからたっぷりあります。ゆっくりと慣れるといい」
 そう言うジョエルの姿を少女の緑の瞳は怯えたように見つめていた。




 それから少女はサヤとハジに引き合わされた。とは言うものの、サヤは二度目の三十年の眠りに入っており、少女が目にしたのは彼女が入っているという棺だけだった。この中に繭となってサヤは眠りについているのだ。
 それからハジ。師匠がついているとは言え彼と会った時、少女は全身が震えてくるのを抑える事が出来なかった。自分達の一族が彼ら種族と深い関わりを持っている事は知っていた。しかし具体的にそれが何であるかを知るという体験は、少女にとっては衝撃的だった。
 彼はジョエルよりもやや背が高く、緩やかな癖の付いた黒い髪。対照的に白い肌をしていた。硬質な雰囲気を纏い、柔和さの中に鋭さと激しさを押し隠しているような瞳をしている。ジョエルの明るい青とは異なる灰青色の切れ長の目。それが自分に注がれている。少女にとって、それは圧倒的な存在感だった。姿かたちは今まで見てきたような人間の青年であるのに。これが翼手と呼ばれる種族。息が出来なくなりそうで、少女が目を見開いたまま硬直していると、師匠である白い女が優しくその手を握り締めてくれた。
「ハジ」
 一族であるからには種族からの影響力は同じであるはずなのに、女の声色には何の変化も見られず、少女は改めて師となる女性の制御の力の強さを思い知った。
「これが私の跡継ぎ。私の後にジョエルとあなた方を支えてくれる者です」
 少女は彼の口元が薄く微笑んだことに気がつき、女王の騎士は元来人間なのだと言うことを思い出した。そして自分が彼らの影響力に慣れ、その近くでも正確に予知の徴を読み解く事ができるように期待されている事も。それは一族の使命であり、遠い昔からの義務であった。一族がこの世に存在する限り。そのために少女はここへやってきたのだ。
 だが彼がジョエルと同じ様に丁寧に挨拶をしてくれた時も、少女は師匠の衣を掴んで離すことができなかった。それを見て青年の姿をした者の表情が僅かに曇った。
「ごめんなさい。まだこの子は慣れていないのです」
「私たちを、怖いと思っているのですね」
 青年の声は低く重々しい艶やかさを含んでおり、こんな風に話す者がいるのかと少女は驚いた。少女の師である女が彼の言葉に苦笑を浮かべる。
「いいえ。あなたやサヤだけではありません。すべてが怖いような気がしているのでしょう。私にも覚えがありますから。
私たち一族は幼い頃はあまり外には出ません。珍しいのです。都会も、男の方も」
 そして翼手も。――その言葉をその場の誰も口にする事はなかった。




「彼女は休んだのですか?」
 女が少女の部屋から出てきたのをジョエルは呼び止めた。女は肩越しに振り返るようにしてから、静かにするような仕草でジョエルを遮った。少女はゴルトシュミットの館で迎える初めての夜に興奮し、中々寝付けず今までずっと女の腕を離さなかったのだ。子供の甘い匂いと柔らかな髪質、そして汗ばんだ額の感触を思い出して、女は優しい笑みを浮かべていた。彼女のそんな微笑を見たことが無かったジョエルは内心驚きながら女に手を貸すと、居間の方へと歩きながら言った。
「どうでしたか?」
「どう、とは・・・」
「彼女とサヤたちの事です。やっていけそうなのですか」
「やっていける、いけないの問題ではありません。私たちには選択肢というものはありません。なすべきことを、なすだけですから」
「違いない」
 ジョエルは微笑んだ。
「緑の目をしていましたね?」
「え?」
「あなたの跡取と聞いたので、あなたのように琥珀の瞳をしているかと思ってました」
「まあ、ジョエル」
 女は淋しいような、困ったような微笑を浮かべた。
「あの子は私ではありません」
「わかっています。良い目をしている。まだ何ものにも染まっていない目だ」
「あの子がこれからの『赤い盾』を助勢するでしょう」
「あなたと共に」
 その言葉に女は淋しげな笑みを微かに浮かべた。
「私は年老いました。ジョエル。私にはそんなに時間は残されていないでしょう」
「そして、私も歳を取った。あの子は私の子供とも上手くやっていってくれるでしょうか」
「ジョエル?」
「あなた方と私たちジョエルは分かちがたく結びついている。ならば両者の絆は堅固である方がいい」
 その言葉に女はなぜか愁眉を寄せた。
「私はあの子をあなた方のものにするために呼び寄せたのではありません」
「いや。そんな意味で言ったわけではありませんよ」
 固い声で女は言った。
「私たちが予知の力を持つのは、私たちの身が誰にも触れられない間だけ。私の母はそれでその能力を失いました」
 思わぬ彼女の言葉に何事かを感じてジョエルが足を止める。
「もしかして、母君を恨んでいるのですか? あなたが?」
 女は言葉無くジョエルの名を持つ者の方に肩を向けた。長い年月の間、このジョエル一族に助力を与えるという任務をこなしながら、自分は母へどんな思いを抱いてきたのだろうか。慕わしさだけではなく何を。既に晩年に差し掛かっている女。だが押し殺された感情は新たに一族の者を迎えたことによって、彼女の中で揺り起こされているのではないだろうか。
 その女の様子を静かな目でジョエルは見つめていた。少年だった頃に出会ってから、彼は彼女を見つめ続けてきた。
「いいえ」しばらくして女は言った。全身で、改めてジョエルを感じ取るように、感覚の手を伸ばしてみる。
「いいえ。ジョエル。そんな感情は私にとって無に等しい。私にとってすべては運命。すべての出会いも、横切る風さえも。すべて運命の流れの一つ。それを知っている私が、なぜ母を恨まなくてはならないのでしょうか」
 ジョエルは彼女にその言葉とは別の感情を見つけた様な気がした。出会った頃よりも歳を取ったものの、人間の生活からどこかかけ離れているようなこの女性に、今改めて触れているような気がする。
「自分自身の生まれたことを決して否定してはならない。自分自身の出自と、あなたがあなたであることは、それぞれをないほうしていたとしても、また別なものとも言えるのですよ。
 そういう意味では、あなたはどこかサヤに似ている」
「サヤと?」
「気を悪くなさったのですか? いいえ、そうではないでしょう。あなたは私などよりもずっとサヤに近しさを感じている。いつかサヤに言ってあげるといい。自分自身の生まれたことを決して否定しないように、と。彼女たちを道具として使う事しかできない私では、きっと伝わらないから」
 大きくなった、と彼女は思った。まだ彼が子供の時に出会った時からも、ジョエルとして最初に現れた時からも、彼は大きく成長していた。今では壮年になった彼。
 飄然とした余裕はどこから生じるのだろうか。
「いいえ。ジョエル」
 女は首を振った。
「私にはその時間はありません」
 どこかで小さく鳥が鳴いていた。




END



2008/03/08

 

   失敗しました~~。断章8を、この話の前に出してしまったのは失敗でした。。。あのお話を出すと、3代目ジョエルの性格に誤解が生じる・・・かも。でももう遅いけれど。時系列的に一番最後のお話です。
 3代目は飄然と仕事をこなすジョエルなのでした。でもここではその様子が上手く出せなかったので、多分改めて独立したお話を創る・・・予定。です。(すみません・・・上手く出来なかった)
 あと1話でとりあえず最初考えていた予定は終わりです。もう少しお付き合いいただけたらと思ってます~~