彼がジョエルの名前を継いだとき、彼の中には誇らしさと、そして未来へ向かって野心のようなものが満ち満ちていた。父が終わらせる事が出来なかった一族の責務を、自分こそが終わらせるのだ。
 家督を継いだ彼が最初にした事は、あの不思議な客人に会いに行く事だった。不思議な女性。昔まだ彼が子供だった時に出会った彼女。今から考えると少女といっても言い年齢だった。白い、人間離れした、まるで蜉蝣のように透明で繊細な雰囲気を持つその人。彼は少女が何者かと言うことも知らずに会いに行き、その邂逅は優しさに満ちた御伽噺のように不思議なひと時だった。
 彼女は子供だった彼に、占いと警句と隠喩の結びつきと必要性を垣間見せてくれた。盲目の乙女の手繰り寄せる数珠の透明な音。そして焼き菓子の甘い香り。ほどよい温度に温められた牛乳。まだ子供だった時代の、夢のような時間。あの時の彼女と二人の世界は父親の介入によって潰え、引き離されて再び会うことはなかった。
 今、かつての少年は父であるジョエルの名を継いだ。既に夢の時代は過ぎ去り、少年の憧れは夢の中へ薄れた。ジョエルの名を継ぐ者と名指しされた彼にとって現実は厳しく、すべての準備を終えた彼は、これからの日々が決して優しくない事を知っていた。父は彼こそがジョエルの名を継ぐ者であり、それが覆せないと思い知った後、その使命のために彼を厳しく訓練したのだ。反発が起こらなかったわけではなかったが、父親の疲れたような悲しい目は反駁と拒絶を彼から奪った。準備され訓練されたジョエル。それが自分だった。
 しかし彼の中から、かつての夢の記憶が無くなった訳ではなかった。あの女性の雰囲気と、その能力の一端を彼は覚えている。それを確かめたかった。あの時の彼女の能力はジョエルという名前にとってあらゆる意味で必要なものとなるだろう。頭の中が冷静で、それを肯定している自分がいた。憧れでは既になく、「使えるもの」として、彼女に逢いにいくのだ。
 彼女の予知の能力。この得がたい能力がジョエルとしての彼のこれからを助けてくれるだろう。それは代々のジョエルにとって、サヤとハジという二人の翼手と共に受け継がれている貴重な財産の一部でもあった。
「ジョエル」
 彼女の部屋に入った時、最初に聞こえたのは、彼女が自分を呼ぶ声だった。かつて幼い自分の名前を呼んだ時、この声は別の名前、かつて彼のものであった名前を囁いたものだった。彼女が呼んだのがその名前でなかった事に、一瞬残念に思う自分がいる。それは郷愁というモノなのだと彼は思った。そして今の自分には郷愁に浸っている余裕など無いということも。
 白い衣に身を包み、薄い頭布を被り。記憶そのままの姿で彼女はそこに座っていた。時が巻き戻っていく。薄いレースの手袋に包まれたその手が差し出されると、ジョエルは彼女に歩み寄ってその手を取り、頭を下げて礼儀正しく唇を触れさせた。
「ひさしぶりですね」
 彼女の声は記憶どおり優しかった。既に少女ではなく成熟した大人の姿になっていたが、彼女の雰囲気はあの当時変わらない。歳月は彼女の身体から少女の初々しさを取り去り、しかしほっそりした印象とどこか少女めいた固さはそのままで、大人の優雅さを彼女は身に付けていた。
「私を憶えていらっしゃったとは、嬉しい事です」
 ジョエルとして初めて彼女に逢うことが出来た。自分にあるのは好奇心だけだと彼は思っていたのに、思いがけない嬉しさが声に出る。しかしそれだけではなかった。
「私はジョエルの名前を継ぎました。これからは私のために貴女の能力を捧げていただきたい」
 ある種の尊大さに満ちた言葉に女が苦笑する。肯定する代わりに彼女は言った。
「私たちの一族と翼手の間に因縁がある事をご存知ですね?」
「ええ」
「サヤとハジの事も。――最初のジョエルが翼手をこの世に産まれさせ、そしてその結果。あってはならない形で翼手の女王が解放されました。それに対する責務をあなたは負っていらっしゃる。そして私たち一族はその事に関して、協力をお約束しました。その約束を果たすために私はここにいます。経済的な予見、翼手に関する知識。私に与えられる限り、あなたに提供しましょう。もしも私が途中で倒れたら、一族の中から別の者が私の代わりに立つでしょう」
「なるほど父が貴女がたに対する対応には、繊細さを持ってしろと言っていた訳がわかりました」
 『私に与えられる限り』―― この言葉によって彼女はやんわりと制限を設けたのだ。
「私たちだけにではありません。サヤとハジ、二人についても同様のことが言えるでしょう。あなた方にとっては、彼らは翼手でありながら人間側についているもの、単なる武器かもしれません。しかし、彼らは彼らの意志によってあなた方の元に留まっている事を忘れてはなりません。初代のジョエルに人間の娘として育てられたサヤ、そして元来人間であったシュヴァリエのハジ。二人ともその精神の根幹は人間です」
「だが本能は違う。動物園を去ろうとした二人を我々が捕らえようとした時に、翼手の力を解放したハジによって私の家の人間が傷つき、殺された事は事実です」
「しかし彼らはその本能を制御しようとしています。人間として。力を解放するのは翼手を狩る時だけ。これは忘れてはならない大切な事です。彼らの基本的な行動原理は「人間」であること。少なくても人間と共に歩んで行こうとしている事。翼手本来の姿に非常に近い。ディーヴァたちの方が異常なのです。だからこそ彼らはディーヴァの一族を狩る。
それに本能の事を言うのならば――人間も本能のみを解放した時にどんなに残虐な事が出来るか、これも私は知っていますもの」
 その言い方はかつて子供だった自分が、不思議な感情と憧れで見上げていた少女そのままの言い方で、悲しみに満ちたものだった。
 気まずい一時が流れた後、思い出したように女がポツリと言った。
「お父上の事。何も力になれなくて・・・」
 彼の父は長い心労と激務が祟ったのか、先週病に倒れそのまま息を引き取った。彼は急遽ジョエルの家督と責務を継ぐことになったのだ。
「葬儀の折にはありがとうございました。貴女は父の周りの者にも、父本人にも身体に気をつけるように度々おっしゃってくださったと伺ってます。それでも防ぐ事が出来なかった。仕方の無いことです」
「私の予知は・・・。先日、ジョエルと――お父上と会話した時、これが最後の会話になるとはっきりとわかりました。それを知りながら、私はお父上の側近に気をつけてくださいと申し上げる他には何も出来ませんでした。
 時折自分自身がこんなにも無力なのか、と感じる事もあります。予知の力を持つ者は、それが既に決定付けられている場合、未来を感じ取るだけで、回避する術を持ちません。私が出来るのは、運命の分水嶺を見つけてそれをあなた方に告げることだけです」
「目を見せてくれませんか?」
 唐突に彼は言った。
「目を・・・?でも私は――」
 ジョエルは彼女の所にかがみこんで視線を低くした。そうすると少年だった頃の背丈と同じ視線となる。
「憶えていませんか? こうして昔貴女の瞳を見せていただいたことがありましたね」
「ああ」彼女は微笑んだ。「そんな事もありました・・・」
「見せていただけますか?」
 彼女は微笑んで、被っていた薄物の頭布をはずした。そのままゆっくりと瞼を上げていく。そうすると、日の光を弾く瞳が現れた。虹彩が琥珀色に輝いている。瞳孔は薄桃色だった。魔物のように不思議な瞳。子供の時に見た記憶そのままに。
 光を失っているというのに、その瞳は彼が動くと彼の影を追うように動いた。
――見えるの?と少年だった彼は言った。本当は見えているの?と。
「光は感じるのです。今はまだ」
 その時と同じ事を彼女はつぶやいた。そして言った。
「ご満足なさいましたか? ゴルトシュミットの御当主」
 その言葉を聞いてジョエルは凍りついた。一瞬にして彼は理解した。自分は何という者になってしまったのだろうか。ずっと、ジョエルの名を継ぐものとして準備されてきた。常に冷静で、沈着な判断を下せるように。翼手と言う『敵』に対抗できるだけの力を持てるように。彼にとって力とは使えるか、使えないか、それだけだった。あの時の少女に対してもそのように考えてきたように思う。
しかし一方でジョエルと言う名は、想い出の、この女性に通じていた。だからこその憧れ。だからこそのジョエル・ゴルトシュミット――。淡い少年時代の聖域。「使えるもの」などではない。
 だが子供の時代は過ぎ去った。ジョエル・ゴルトシュミットとして会った彼女は、自分の事をあの時の少年としてではなく、ジョエルとして認識している。違いない。自分の方こそ、彼女を物のように見てきたのだ。今になって、自分がこんなにもあの少年時代の思い出に拘っていた事を自覚するとは。彼女も同じ思い出を共有し大切にしていると、思い込んでいたとは。
 ジョエルの名前はあの時の二人を大きく隔てているように思えた。すべてが遠く、遅すぎた。深い溝が二人の間にあるように――。
 かつて少年だったジョエル・ゴルトシュミットは、彼女がその瞼をゆっくりと閉じていくのを言葉も無く見つめるだけだった。




END



2008/2/25