サヤが眠りに付いたの『ボルドーの日曜日』からしばらく経った時だった。




 数ヶ月前に母親が、枯れ木が朽ちるように亡くなった後、少女は一人ぼっちでジョエルの館に取り残されていた。寄る辺無く取り残された盲目の少女。母から後を託された幼い娘。ジョエルにとってこの娘をどう扱うか迷う所であった。その母親と同様にサヤたちの相手をさせるにはあまりにも幼く、かと言ってこのまますぐに彼女の出身地に返すわけにもいかない。人間でありながら翼手殲滅を目的とするジョエルにとって、少女達の一族が持つ予知の力は必要であり、一方少女の能力は未知数だった。
 しかし母親が亡くなってすぐに少女はサヤに逢いに行き、積極的に接触を始めた。その母親と同様にサヤを見守り、自分たちとの橋渡しをしようとしている事を聞いてジョエルは驚いた。当時サヤたち翼手の女王とその眷属に対してどのように接していいのか不安が多く、もっぱら彼女の母親の知識と判断に重きを置いていたジョエルは、その母の役割をまだ十歳を過ぎたばかりの少女に負わせる事をためらっていたのである。そのため少女がその状況をあまりに自然に受け入れているのを複雑な思いで受け止めていた。
「なぜそんな風に思うんですか? ジョエル」
 少女は幼い顔でおかしそうに笑った。
「サヤもハジも、二人ともとても優しいですし、何も心配なさらなくて大丈夫です」
 たとえ幼くても蛙の子は蛙。ジョエルは今やこの少女が自分達の活動を支える大切な一人になっていくのを受け入れなくてはならない事を思い知った。
「しかし・・・」
「翼手という人たちは、持っている力からは信じられないくらい、人間に寄り添うものだと母は言っていました。人間そのものと言っても良いくらいに。翼手は危険なんかじゃありません。力に溺れて、力を暴発させなければ――。
 でも力に溺れるのは人間も一緒なんでしょう?」
 無邪気な表情でそう言われて、ジョエルは困った顔で少女を見つめた。
「そうだね。私達も気をつけなければならない。祖父の轍を踏まないように。『赤い盾』はそのためにのみ存在するのだから」
「ジョエル。あなたは大丈夫・・・」
 少女は信頼のこもった態度でジョエルの方に近寄ってきた。それからふと顔を曇らせる。
「ディーヴァが眠りに就きました。サヤももうすぐ眠りの時期を迎えるでしょう」
「眠り・・・」
「三十年の永い眠り。翼手の女王は最初の騎士を迎えると身体の中に眠りの時期が組み込まれるそうなのです。三十年眠って何年か起きている、そんな風に」
「では我々は、三十年間は翼手の恐怖から解放されると?」
「わかりません。こんな風に計画的に死体が甦るという出来事が起こるなんて、母も私も知りませんでした。私達が知っていることとどこか違っている。
 私はそれが怖い・・・」
 少女は小さな方を震わせて、本当に怖がっているようだった。
「せめてサヤが起きていてくれたなら、安心なのに・・・」
 少女が自分達「人間」の活動よりも、サヤの方に重きを置いていることにジョエルは当惑していた。
「サヤが眠りに就くというのは本当なのですか?」
「はい。この前逢った時、もうサヤの身体は大分冷たくなってました。身体が眠りの準備に入っているのです」
「やはり人間ではない、か。まるで休眠動物のようだな」
「ジョエル」
 少女の非難の声もジョエルは軽く受け流した。
「大丈夫ですよ。あなたの母君はあの二人を人間として扱って欲しいと言われた。そうするべきだと私もまた思ってます」
 それを聞いて少女は安心したようだった。
「お願い。忘れないでください。あの二人は自分達の意志でここに居てくれている」
 優しい人だから、優しい人たちだから、自分が解き放った災いを見過ごす事ができないから、こうして同じ過ちの結果を背負う私達の所に居てくれる。
「しかし彼らも私たちの補助無しで生活する事はできないのですよ。彼らだって人間と同じに衣食住は必要で、私達はそれを提供している。そして情報も・・・。そういうものが揃うところに居るのは当然です。彼らだって必要に応じてここに居るのです」
 まだあなたは幼くて、そういう部分は見えないかもしれないが。言いながら少女の眉がその瞑られた目の上で上がるのをジョエルは見た。
「必要だからと言って、必ずしもここでとは限らないでしょう?」
 少女はジョエルの気持ちを受け取ってか、おずおずとした調子でつぶやいた。それは大人の意志に敏感に反応して、いいような答えを返そうと試みている子供そのものの様子だった。
「サヤがここに居てくれるのは、お祖父様との思い出があるから。私達はサヤ達の好意にすがっているのです」
「ただ、忘れてはいけない。翼手を相手にするのは並の事情のものには勤まらない。今もそうだが、『盾』には『ボルドーの日曜日』の因縁、翼手との因縁を持つ者が多く集うようになるでしょう。彼らにとって二人は人間ではないのです。
 その彼らにとって翼手である二人は武器としての意味しか持たない。そうでなければ受け入れられない。
 それをわかっていただかなくては」
 少女は重いため息をついた。少女の母と交流があったジョエルには、この幼い少女が背負っているものもまた理解していた。少女の母がその任を成功させていれば翼手と言う種族そのものがこの世には現れず、あるいは祖父が説得されていれば、ディーヴァがこの世に厄災をもたらすことはなかったのだ。
「ジョエル。わかってください。私にはサヤ達の心も同じように大切に思えるんです」




 盲目の少女が見る未来の夢の中で、暗い地下の部屋の中で、サヤとそのシュヴァリエである青年が最後の言葉を交わしているのが感じ取れる。死者の様に棺の中に横たわり、悲しい目をしてサヤが自分の決意を口にしている。
「サヤ・・・」
 彼女の名前をつぶやきながら、自分の髪と同じように真っ白い衣に身を包み、少女は祈るように腕を組んだ。先の日の記憶が浮かんでくる。


「行かないで」
 眠ってしまわないで、とその時少女はサヤに訴えた。三十年の眠りの告げたのは自分だというのに、サヤがいなくなってしまうことがとても不安だった。サヤの透明な声が聞けなくなるのがとても淋しい。
「泣いちゃだめだよ」
 サヤが優しい手で、これからさらに多くの血に塗れていくだろう手で、頬の涙を拭ってくれる。サヤはいつも花の匂いがしていた。
「三十年後、また、逢えるよね?」
「サヤ・・・。行かないで」
 サヤは小さな少女の身体を抱き締めた。
「大丈夫だよ」
 少女もサヤの身体を抱き締め返す。
「ありがとう・・・。こんな風に私に触れてくれるのはあなた一人だけだった。嬉しかった。とても」
 少女は何も言えずに首を振った。サヤが眠った後、三十年の歳月が自分達の上に降りかかる。それが何をもたらしていくのか、少女の予知の能力もまだ明確にはそれを示してくれてはいない。
「信じているから。また逢えるって」
 だからあなたも信じていて。サヤの声はとても優しかった。




「あなたの言ったとおりでした」
 それから何日か経った頃、部屋に入るなりジョエルは少女に言った。
「ジョエル」
「やれやれ、と言うわけです。『死体が甦る事件』は沈静化に向かっている。これでディーヴァが休眠期に入ったのが確実だとわかった訳です」
「そして今、サヤもその時期に入りました。ジョエル。やっぱり私は怖いんです」
 少女は以前にも同様のことを口に出している。
「ディーヴァは既に眠りに入っているのでしょう?」
「私が怖いと思っているのは、サヤが眠っている間のディーヴァのシュヴァリエなのです。女王が自分から積極的にシュヴァリエ以外の翼手を増やそうとするなんて考えられません。このことには必ずシュヴァリエの意図が絡んでくる。そんなシュヴァリエがこのまま大人しく三十年を私達に与えてくれるのでしょうか」
「ではこれからも翼手の出現はあるというのですか?」
「それもわかりません。どんな形で何が起こるのか・・・。でも、私の中の力がささやくのです。まだ終わらない、と。たとえ女王が休んでいても。備えなくてはならないと」
「わかった」
 とジョエルが言った時、その目には理解と決意が映っていた。
「私はあなたの予知にも重きをおいている。あなたの言うとおりにしましょう。今までどおり私の手の者達は諸処に散り、翼手に関する情報を集めます。三十年・・・・。長い期間だ」
「それ以上です。この闘いは世代を超えて、時代を超えて続いていくものです。きっと私達の命があるうちには終わらない・・・」
「あなたの時代も超えて・・・」
「ええ、ジョエル。私達には寿命があります。私達一族にも終わりがあるように。そしてサヤ達の闘いはそれらを超えて行われていくのです」
「それがあなたの予言ですか」
「いいえ。確信です」
 幼い少女の澄んだ声が暗く響いた。




END



2008/2/20