アンシェル・ゴールドスミス会う事に決まったのは夏の初めのことだった。そのためにジョエルが用意したのは自分の屋敷の一室であると知った時、少女は軽い驚きを感じた。ジョエルの、アンシェルに対する疑惑を知っているだけに彼の大胆さを改めて思い知る。それでなくてもジョエルの屋敷にそのゴールドスミスの家長が招かれる事は稀であり、このような事は先々代のゴルトシュミットの当主以来の出来事だったのである。

 傍系を名乗りながら先々代の『事件』以後、ゴールドスミス家はゴルトシュミット家にある種の遠慮とともに距離をとっていた。当然であろう。当時の家長であったアンシェル・ゴールドスミスはジョエル・ゴルトシュミットの助手と言う立場にあり、あの『事件』の責任は免れ得ないというのが周囲の評であったのである。自然にゴルトシュミット家とゴールドスミス家は疎遠になっていった。
 だが一方でジョエルはそれに対しても疑問を投じている。アンシェルの元、ゴールドスミスがゴルトシュミットと接触を避けていたのは、彼がジョエルの一族に対抗する基盤造りをしていたのではないか、と言うのである。
「まだ。わかりません、ジョエル。今の所、私には何も感じられないのです。ゴールドスミスの力が大きくなっているのならば余計、疑心暗鬼になってはいけません」
 ジョエルにとってはその少女の言葉さえ不安の要素だった。いつも適切に、ジョエル以上の感覚を持って不安要素を言い当てる少女が、この事に対しては鷹揚に構えている。それがジョエルの目には危険なものとして映っていた。
「ですが直接本人に逢えばすべてがわかります。たとえ私の感覚が鈍っていたとしても直接的な接触はすべてを明らかにしてくれますから」
「期待していますよ」
 疑心と熟慮に揺れ動く目でジョエルは少女の白い姿を見つめる。少女は見えない目でジョエルの気配を探っていた。少女は自分の持っている予知の能力を信じてはいたが、それに対して盲信はしていない。ジョエルの不安は少女にとっても一つの予知への要素だった。
「アンシェル・ゴールドスミス」彼女は呟いた。
 今は何も感じられない。不安も、そして安心も。ただ興味だけが募った。動物園を作ったジョエルの助手をしていたというならば、ゴールドスミス家に何かサヤやディーヴァに関する記述が残っているかもしれない。それを今の当主は知っているのだろうか。少女の中にあったのは純粋な興味の種だけだった。

 アンシェル・ゴールドスミスは簡素だが美しい流線を帯びた馬車に乗ってやってきた。それを見たとたん、ジョエルはこの男の卒の無い対応ぶりを垣間見たような気がした。出すぎず、それでいてさりげない趣味の主張。悪い気はしなかったが、やはり油断ならないとジョエルは思った。
「ジョエル」
 少女に声をかけられ、彼は振り返った。同族の女に手を引かれている。少女の手を女のそれから引き受けると、少女が驚きに眉を上げた。少女はこの屋敷の客分に過ぎない。当主であるジョエルに手を引かれる事は本来つりあわないのである。
 しかしジョエルは言った。
「アンシェル・ゴールドスミスは本来あなたにこそ、引き合わせなければならない人物ですからな」
 社交の場に出る事の無い少女にとっては外部からの訪問客に逢うのもこれが初めての事である。ジョエルの保護者のような態度に少女は微笑んだ。尤も、そろそろ壮年に差し掛かるジョエルにとって、初めて出会った時に未だ10にも満たなかった彼女はいつまでも幼い子供に見えるのかもしれない。
「私の事は彼には何と?」
「そのままを。高名な占い師が我が家に滞在しているので、逢ってみて頂きたいと」
「彼は承知したのですか」
「ゴルトシュミットの言葉に否やを唱える筈がありませんよ」
 導かれて部屋に向かいながら、そのジョエルの自信に笑みがこぼれる。これから逢う人物が、ディーヴァと関係しているのではないか。その疑問を提示したのは彼の方からだというのに、ジョエルの態度は気負いが無かった。少女にはそれが頼もしく映る。
 客人が待つ部屋へはジョエルの方が先に入った。
「ようこそ、アンシェル・ゴールドスミス」
「お招きに預かりまして光栄です」
 声が聞こえてきた。豊かな深い声だった。主格の当主に招かれたというのに、尊敬も卑下もしていない。誇り高く、野望はあっても隠されていて感じられない。心象が様々にさざめいては砕け散る。同じように深い声であってもサヤのシュヴァリエであるハジの声は静けさを運んでくるというのに、彼の声は艶やかな輝きを帯びているように少女には感じられた。落ち着きと、それから壮年期のジョエルのそれよりももっと若々しさをも合わせ持っている。
 ゴルトシュミットとゴールドスミス。二人の歓談は事業の事から互いの趣味の事と多岐に亘って展開されていった。小手調べのように容赦なく探り合っている様子が外からでも伝わってくる。ジョエルは予想に反してアンシェル・ゴールドスミスと言う男を気に入ったようだった。彼の疑惑と用心の中に包まれた戸惑いと好意とが声の調子に表れている。
「いやいや、ゴールドスミスはこれからですよ。まだ物事に取り組んだばかり。ゴルトシュミット本家のお力の足元にも及ばない」
「いいえ。本来ならばゴールドスミスへの梃入れをもっと表立っても出来たのでしょうが、表には出ないというのが今の我が家の家訓となっていましてね、それが残念です」
「いや、勿体無い事です。私の家にそれほどお心をかけていただけるとは」
「1883年。あの我が家の悲劇の時から我が家の歴史は止まったも同然。あなたもご存知でしょう?」
「あの時ですか。私はまだ成年に満たなかった」
「確か先代のゴールドスミスが祖父の助手をなさっていらしたとか」
「先々代ですな」
 とアンシェルがすかさず訂正を入れた。
「その時のアンシェルは私の伯父に当たります。彼には子供が無く、その歳の離れた弟である私の父が後を継いだという訳です」
「お父上はお亡くなりに?」
「伯父も父も、あの悲劇の後に前後して亡くなっていましてね、今は私が後を継いでいるという訳です。そう言えばあなたもお祖父様のお名前を継いでいらっしゃるとか」
「ええ。ゴルトシュミットは代々ジョエルの名前を継いでいこうと思っています。あの悲劇を忘れないために」
「ではゴールドスミスはアンシェルの名を継がせましょうか。ゴルトシュミットとゴールドスミスの思い出を忘れないために」
 ジョエルは微笑んだ。
「時に今日はちょっとご紹介したい者を呼んであります」
「この間おっしゃっていらっしゃった・・・?」
「左様。我が家の占い師」
「『選帝侯の占い師』。そもそものゴルトシュミットの後ろ盾に選帝侯がついていたという噂は本当だったのですね」
「ゴールドスミスも事業に携わる家ならば、是非一度逢ってみても宜しかろうと思いましてね」
 ジョエルの合図と共に部屋に入った少女は興味の目が二対、自分を見ていることをいやと言うほど感じ取った。
「ようこそ、アンシェル・ゴールドスミス様」
「これはこれは――」
 と彼はちっとも驚いていないような口調で言った。
「占い師と言うのは皆、老婆なのだと思っていましたが、このような可愛らしい方だとは」
 彼の口調に少女は愁眉を寄せた。その中にある尊大さ。そして支配欲。ジョエルと話しているときには微塵も感じられなかったものがそこには表出している。
 社交の場に出た事の無い少女にとって、それは不快であり戸惑いであった。


「何かお気にかけていることなどありましたら、訊いてみられるとよろしいでしょう。彼女の占いの腕は確かですぞ」
 気がついたジョエルが助け舟を出してくれると、ようやく少女は自分の役割を思い出したようだった。
「何をお聞きになりたいのでしょうか」
 彼は質問を考えながら少女の様子をじっくりと眺め回したので、少女は落ちつかなげに身体を動かした。
「それでは・・・。いや――」と彼は突然笑い出した。
「止めておきましょう。あなたの占いの腕を信用しないわけではない。しかし、私には占いよりももっと大きなものに我が身を委ねたい、という欲求がある。そう、私は当たり前の信心深さを依然持っているのですよ」
 その言葉にジョエルも当の少女も呆気に取られた。だが悪い気はしない。深い安心感が胸に湧き上がった。彼から翼手の気配は感じられなかった。少女もそっとジョエルに対して頷くと、ほっと緊張を解いて肩の力を抜いた。
「ああ、話が弾んで長居をしてしまいました」
 アンシェル・ゴールドスミスは丁重に詫びの言葉を述べると席の退出を申し出た。
「今後ともまた宜しくお付き合いを願いたいものです」
「いいえ。こちらこそ」
 男性二人が固く握手を交わす傍で少女は首を傾けながら内省を試みていた。奇妙にアンシェル・ゴールドスミスという男に引き寄せられている。色恋とは異なった独特の吸引力が彼の周囲を形作っていた。それは今までに感じた事がないような・・・。だがどこかで似た感覚を知っているような気がする・・・。
 その困惑が少女を油断させていた。
「それではごきげんよう。本日は楽しませていただきました」
 アンシェル・ゴールドスミスがその大きな身体を折るようにして、少女の華奢な、薄手の手袋をした手を取るまで、彼女は彼に気づかなかった。はっとした時には、まるで上流階級の令嬢にするように手の甲に口づけを受けていた。思ってもいない行動に少女の頬が真っ赤に染まる。
――だがその時。
 その少女のむき出しの頬に、アンシェル・ゴールドスミスの手が掠めるように触れていった。その手は頬の線をなぞり顎の下まで来て、彼女の顔を僅かに上げさせるとするりと離れていった。
 一瞬だった。赤かった彼女の頬が瞬時に青くなる。それは見ていたジョエルが声を上げる暇も無いくらい僅かな時間の出来事。少女の顔から表情と言う表情が一気に無くなっている。その様子にジョエルは息を呑んだ。
 じっとりと掌が汗ばんでくる。母様。と少女は胸の内でつぶやいた。どうぞ力を貸して。少女が呆然としていたのはほんの一瞬だけだった。青白い顔のまま彼女はアンシェルに対して微笑んで見せた。少女の右手が何かを掴んでいるように固く握り締められている。
「ごきげんよう。アンシェル・ゴールドスミス様」
 その時、彼の顔に浮かんだ満足げな顔をジョエルは忘れられなかった。そしてアンシェルが去ったそのすぐ後に、ものも言わずに少女は昏倒したのである。
 ジョエルはその直前までアンシェル・ゴールドスミスへ人間的好意を抱いていた。巧みな話題づくり。押し付けがましくなく、さりとて卑屈になってもいない態度。事業への熱意とそのバランス感覚。魅力的な人物だった。最初に疑ったのは自分だというのに、当の相手を気に入ったとはおかしなものだと苦笑していた部分もあった。つい先ほどまでは。それがなぜ。
 まさかと言う思い。なぜと言う疑問。少女の昏倒はすべてを一気に覆すに足る不安材料であった。アンシェルが触れたとたん少女に何が起こったのか。
 それから少女が目覚めるまでの時間はジョエルにとって長いものに感じられた。アンシェル・ゴールドスミスとは一体何者なのか――。翼手なのか、そうではないのか。だが肝心の少女はそれから一昼夜、目覚める事は無かった。時折苦しそうに息をしていると、少女の同族の女が非難の籠もった目でジョエルに告げて言った。まるで彼に責任があるかのように。待つ時間の長さは実際の何倍にも思える。
 しかしジョエルにとってその時間はアンシェル・ゴールドスミスとの邂逅を再び考える時間となっていたのである。
 ゴルトシュミットにとって、傍系であるゴールドスミスの詳細はすぐにわかった。以前調べさせた通り、初代ジョエルの「助手」には子供が無く、ゴールドスミスの家督はその弟が継いでいる。そして現在の家長はその息子に間違いない。つまり今日ここで逢ったあのアンシェル・ゴールドスミスはあの『血の日曜日』には既に生存していた。ジョエルの「助手」の甥として。別々の人間として。それを証言できる者も多数存在するのである。  だが少女が目覚めたと聞いた時、ジョエルは既に答えがわかっているような気がした。まだ幼さが残る小柄な少女は青白い顔のまま、ジョエルが近づく気配を感じ取ると振り切るように寝台から身体を起こした。
「ジョエル――。アンシェル・ゴールドスミスは・・・」
 開口一番、少女は言った。
「翼手なのですね」
 引き受けるようにジョエルが続ける。
「ディーヴァの第一騎士。シュヴァリエです」
「間違いありませんか。私の方でも再調査しました。アンシェル・ゴールドスミスという人物が1883年の時点で二人いたことは確かな事実です。すなわち一人は祖父の助手。そしてもう一人は今日の彼が確かに言っていた通り、その弟の子供に当たる者」
「ジョエル。彼らは自分の思う人物になる事が出来るのです。ある方法によって」
「ある方法?」
「血によって」
 少女の言葉は彼らが血を摂取する種族である、という以上の意味を持っていた。
「彼らにとって血はあらゆる情報の媒介にもなり得ます。すなわち彼らは自分達が吸血した相手に成り代わる事が出来るのです」
 その言葉がジョエルの中にしっかりした認識となるまでしばらくの時間が必要だった。 「だが・・・。ではやはり彼はあの、祖父の助手その人だと?だがもう一人のアンシェルは――」
「ああ。ジョエル。そうなのです」
 少女の言葉は二つの事をジョエルに伝えていた。すなわち、ディーヴァのシュヴァリエの正体がかつてのジョエルの助手である事。そしてそのシュヴァリエが現在のゴールドスミスの家長としておさまっている事。つまり・・・
「自分の甥を――?」
「だから彼は今まで誰にも気がつかれずに行動できていたのです。秘密裡に入れ替わり、そして一方が加齢による自然死とされるならば、誰がその死に気がつきましょうか。ましてや自分の甥。
 ジョエル。既にアンシェルは人間ではありません。私達はその事を十分に肝に銘じなければ・・・」
「人間の則には左右されないと?」
「おそらく。――ゴールドスミス家にはこれから何人ものアンシェルが誕生するでしょう。そのすべてがシュヴァリエ・アンシェルと言う訳ではありません。しかし、その中に必ず一世代に一人。シュヴァリエ・アンシェルがいると考えて良い。用心をしなければなりません。私達がこの事に気がついていることを悟られず、秘かにゴールドスミスを見張らなくてはなりません」
 だが予知の力は現実の頸木に容易にたわめられる。その事をその後ジョエルは幾度も思い知らされる事になるのだった。




END



2008/1/20