「ディーヴァの目覚めが迫っています」
 女の言葉をジョエル・ゴルトシュミットは抗いがたい宣託のように聞いた。
「ではサヤもじきに目覚めると?」
「いいえ。確かに二人の女王の目覚めは同調しています。しかしそれは同時という事を意味しているわけではありません」
「では今回はディーヴァの方が先に目覚めると?」
「恐らく」
「まずいですな」
「ええ」
「30年前の『死体が甦る事件』の再来が起こるか・・・」
 『ボルドーの日曜日』の惨劇から30年。あの時まだ20代だったジョエルも既に壮年の盛りを過ぎ、老年期にさしかかろうという年齢だった。年月は容赦なく人々に襲い掛かる。しかし若さと引き換えにして彼は成熟を身に着けてきた。一族の因縁であるディーヴァの目覚めを聞いた時も彼は動揺を見せなかった。むしろサヤの目覚めが遅れるかもしれないという言葉にジョエルは反応した。女の予知が正しければ、野放図に翼手が増える危険が高まる。
 人間を凌駕する存在の誕生。しかし今まで翼手の情報が皆無と言うわけではなかったのだ。ディーヴァの不在にも起こる翼手の出現に女は言ったものだ。
「ディーヴァの血液が何らかの方法で保存されていると見るのが一番近いでしょう。人間が翼手を倒す事は困難を極めます。しかし女王やシュヴァリエなどの生粋の翼手ならばともかく、今起こっている事例ならば倒せないわけではありません。彼らは一見不死身に見えるでしょうが、その知能は元の痕跡を留めない程破壊されています。首から上を潰してしまえば・・・」
 線の細い盲目の女の口から外見に似合わない言葉が毀たれる。
「だが翼手に対抗できる者は数少ない」
「あなたのおっしゃっているのはシュヴァリエの事ですね」
「ディーヴァが眠りについていても我々が安心できないのはシュヴァリエの存在があるからだ。彼が何を考えてディーヴァの眠りの期間を過ごしているのか・・・」
「恐ろしいですか? 本当の事を言えば私も恐ろしい。特にあのシュヴァリエ・・・。でも私は望みを失ってはいません。私たちにはサヤとその眷属であるハジがいる。それに・・・ディーヴァを倒すのに形振り構わないというのならば、本当はまだ取れる手段がありますもの」
 女はやんわりと微笑みながらジョエルに話しかけた。試すような微笑だった。
「それは?」
 好奇心に誘われたようにジョエルが問い返す。
「サヤにシュヴァリエを作らせればいい。ハジ以外にもっと。何人も」
「なんと・・・。恐ろしい事を言う。翼手を増やすと言うのですか」
「いいえ。でも考えたことが無いとは言わせませんよ、ジョエル」
 盲目の女の微笑に男の微笑が淡く重なる。
「でもそれは許されません。私は祖父の過ちを正すために私の生涯を賭けると誓いました。それに叛く事はできない。私はジョエル・ゴルトシュミット。この名を継ぐ者はその責務を負わなくてはならないのです」
「ジョエル――」 と女は微笑んだ。先ほどとは異なり、柔らかな優しい笑みだった。
「安心しました」
「あなたという方は・・・。私を試されましたな」
「お気を悪くなさいましたか?」
 悪戯っぽい表情で見つめる女は線が細く、しかしゴルトシュミットの固い決意を体現しているかのように硬く動かしがたい雰囲気を持っていた。
「でも一方であなた方はサヤの血液を保管している」
「愚かしい事ですよ。我々には血液を永久の保存する技術などまだないのに・・・。しかもあの血液は一定時間経つと何の効果も無くなってしまう」
「ではその技術が出来たら?」 一瞬ジョエルの表情に影がさした。
「あなたはご自分で思っていらっしゃるよりずっとお祖父様によく似ていらっしゃる。あなたの中のどこかでサヤやハジをディーヴァに対する手段としてではなく、実験材料として見ている部分があるのではないですか?あなたのお祖父様と同じように」
 だがその言葉にジョエルは反応した。
「すべては祖父の遺した贖罪のためです。それに、あなたは祖父をご存じない。父にとっては多忙を極める淋しい人間。だが私にとっては優しい祖父でした。あなたの母上にお聞きになった事はないのですか」
「私は母とは違います。母はあなたのお祖父様を止めることができなかった事を後悔し、それでいながらあなたのお祖父様とは人間的な交流を持っていた。友人として。
 確かにおっしゃるとおり、私は直接には動物園のジョエル・ゴルトシュッミットを知らない。でも、だからこそ彼の行為だけで客観的に彼を判断する事ができるのです。あなたの中の衝動のように」
「先ほど申し上げたとおり、それは許されないことです」
 壮年の男がまるで歳若い青年のように固い表情で彼女を見つめている。
「衝動を乗り越える事こそ人間のあるべき姿。私たちの一族は祖父の轍を再び踏む事を決して許さない。私の一族だけではなく、どんな人間に対しても。それがゴルトシュミットが決めた事なのですよ」
「重い、責務ですね」
「ええ。私にとってはすべてがそれに勝ります。例え血の繋がった親族であっても。そして我々にはどうしてもあの二人が必要なのです」
 『赤い盾』と呼ばれる組織を作り上げるまでに、ゴルトシュミットの一族がどのような経緯を辿っていたか、彼女は知っていた。真相は幾重にも隠され、ゴルトシュミットそのものが薄膜の中に身を隠すのと同義に神秘に包まれた存在となっていくだろう未来も彼女にははっきりと読み取れる。
「すべては彼らのために――」
 女の口調に現れた、それまでとは全く異なる疲れたような響きにジョエルは眉を顰めた。
「どうなされた」
「いいえ。私の一族も同様の責務を負っていると申し上げても良ろしいでしょうか。あなたがディーヴァの一族を殲滅する事を役割としたように、私達も翼手がこの世に見表わされる事を防ぐ役割を担っております。それを私の代で終わらせる訳にはいかないのです。 一族は私の後任を考えています。もうすぐここへ、一族の中から一番歳若い者が派遣されてくるでしょう」
「まさか・・・。あなたは退かれるというのではないでしょうね」
「自分の時間が来るまでは、ここでお世話にならせていただきます。それは私の一族の決定でもありますから。そして今度派遣される彼女は・・・私の下についてその能力を調整するのですよ。この環境に、もっと端的に言えば翼手であるサヤとハジの影響に慣れる為に」
「調整・・・ですか。かねがね思っていたのだが、あなたの一族は何なのです? 翼手に対する半端で無い知識。予知の能力」
「人間離れしている、と?」
 ジョエルは息を呑んだ。
「いいえ。私達は人間です。ただ予見の能力を持っていて、そして翼手と呼ばれる種族と浅からぬ因縁を持っている。あなた方一族よりもずっと長い間、私達は彼らを見ていました。いいえ。見ていたと伝えられます。
 彼らはずっと、消滅したと私達は思い込んでおりましたから。あなたのお祖父様がサヤとディーヴァを甦らせた時に、消えていく運命だった私たちの能力が再び甦った。そうして私はここにいるのです。ゴルトシュミットに力を貸すために」


 闇の中で何かが笑ったような気がした。




END



2007/12/17