網膜に焼きつくように印象が残る事がある。その少年にとって、それは彼女の事だった。まだ記憶が夢の片隅をたゆたっていた頃、少年は「彼女」に出会った。広い屋敷のどこだったかすでに定かではなかったが、子供心にも彼女の白い髪と物静かな雰囲気が不思議だったのだろう。眩しい日の光の中で、真っ白な彼女の印象だけが目に焼き付いている。
彼女の事だけでは無い。不思議な事はこの館に溢れていた。父親は上手く隠しているつもりだったが、屋敷には剣呑な雰囲気を持った人々が出入りし、彼らはジョエルの子供を見てもその存在を無視するか、あるいは厳しい声色で少年を追い払おうとするのだ。そんな時には優しい父であるジョエルも息子を寄せ付けない雰囲気を醸し出し、彼に部屋に戻ってじっとしているように言いつけるのだった。時折隙間風のように身体の芯を凍らせるような気配がどこからかする時もある。薄く扉の開けられた部屋へ得体の知れないものが運び込まれていくのを見た記憶もある。少年の恐怖に対する怯えは希薄だったが、それでも存在を揺るがすような気分になる事も度々だった。
 屋敷自体にも入ってはならない部屋がいくつもあった。少年が入る事を禁じられているだけではなく、使用人たちの多くもそこには入る事ができない。
 幼い時、少年はそこに潜んでいる影に怯えていた。しかしいくらか大きくなって父親の雰囲気にただならぬものを感じ始めたと同時に、彼は何とかこの屋敷自体が飲み込んでいる大きな謎めいた雰囲気の源を探り出そうと考え始めた。そこには子供らしい好奇心があったのかもしれない。しかしもう一つ、彼の中にあったのは記憶も曖昧だった昔、一度だけ屋敷の中で出会った真っ白な女性に逢ってみたいという思いだった。髪も眉も白いのに年寄りではなく、近づいて触れてみると優しい匂いがした。陽だまりの中に立ち止まっていた彼女の衣も白くてまぶしかった事を憶えている。目の色は憶えていない。あれは誰だったのだろうか。父親に訊いても答えは返ってくることはなく、却って不機嫌になるのが常だった。幼心に触れては駄目な事だと考え、彼は質問する事そのものを忘れたが、その記憶の女性を忘れたわけではなかった。
 父の目を盗んで屋敷の中をうろつき回っているうちに少年は成長していった。父のしている事が危険な事であると直感していた。その事が大きな秘密であるという事も。そして父の背負っている大きなものも。
 彼女を探しているうちに彼女ではなく、ほっそりした黒い髪の男を見かける時もあった。ある時ふと彼が楽器を奏でている場面を見つけ、この屋敷に時折流れる音楽が彼の演奏だと知った。ひどく不思議な雰囲気で、現実に目の前にいるのに現実味を帯びず、現実感から言えば記憶の中の女性の方がよほどしっかりした手触りを持っているように感じられたものだった。髪が黒いのに肌の色が白く、男性なのに透き通るような肌をしている。線が細いのに硬質な感じも併せ持ち、伏せられた目は切れ長だったが優しそうだった。そしてなぜかとても淋しげだった。父親よりもすらりと背が高い。
 その事を父に話した時、父親はひどく狼狽し、そして屋敷の奥まで入り込んだ少年をきつく叱り付けた。そこで少年は屋敷の中で出会ったその人のことを、父のジョエルに話してはならない事も学習した。
 彼がようやく彼女に出会ったのは、冬の陽だまりの中だった。柔らかな冬の日差しに誘い出されたように、彼女は佇んでいる。何年も何年も探し続けて、やっと出会えた。達成感というよりも夢見心地のまま少年は彼女に歩み寄った。微かな衣擦れに彼女の顔が上がる。
「誰?」
 こちら側に向けられた瞼は閉じたまま開かなかった。思っていたよりもずっと若かった。少年の母親よりもまだ若い。少女と言ってもいい位だ。
「目が・・・見えないの?」
 少年の言葉に彼女は小首を傾げると、そのまま肯定するように微笑を浮かべた。
「あなたは、もしかすると・・・・?」
 彼女が呼んだのは彼の名前だった。
「一度、お遭いしていますね。まだあなたが小さい時に」
 驚いた。あの、自分でも夢の中のような出来事を彼女が覚えていてくれたなんて。何となく誇らしく、同時にとても嬉しかった。少年は何の翳りもない笑顔で彼女の所へ歩み寄った。


 それから少年は度々彼女の部屋を訪れた。彼女はその度に困ったような、嬉しいような微笑を浮かべて彼を迎え入れるのだった。一人で部屋に籠もっているのかと思っていたがそうではなく、大抵彼女の部屋にはもう一人、女性がいた。彼女と同じような真っ白な髪を持ち、目の見えない彼女の傍らで主に彼女の世話をしているようだった。母屋で見かける女中の姿を見ることもあったので、少年は彼女が決して自分の作り出した幻のようなものではなく、屋敷にいる何人かと交流を持った現実なのだと知って嬉しかった。少年はよく、これは本当に現実に存在するものだと確かめるように、彼女の白い手袋をはめた手を握り締めた。すると彼女は驚いたような顔をして、それでも黙って彼の仕種を受け入れてくれる。これはこの部屋にやってくる他の大人たちも同様で、彼がやってくると皆が半分困ったような笑顔になって、それでも焼き菓子やら牛乳やらを出してくれるのだ。
 彼女から少年に話しかけることはほとんどなかったが、少年らしいおしゃべりにはよく耳を傾けてくれた。穏やかな柔らかい時間が流れていく。彼女の目が見えないことも、彼女の世話をしている女性が困惑気味なのも少年には気にならなかった。


 その日も少年は父親の目を盗んで彼女の部屋へ遊びに来ていた。いつものように他愛も無い出来事を話していると時間はどんどん過ぎていく。日差しが傾き始め、うっすらと午後の風が冷たく感じ始めたころ、不意に彼女が背筋をきちんと伸ばし掌を彼の方に向けて彼のおしゃべりを押しとどめた。
「お父様がいらっしゃいます」
 少年は一瞬何を言われたのかわからなかった。その時部屋の扉が重々しい音で叩かれ、彼女の許可の声と共にそれが開く。午後の日差しの中、逆光に訪問者の姿は黒く映った。暖かな光の中に大きな影が差し込んだようだった。
「ジョエル」
彼女が父の名を呼んだ。いつも見ている父親とは別人のように厳めしい印象を纏った父がそこに居た。
彼の父親は一目部屋の中をみるなり、そこに思いもかけないものを見出して一瞬息を呑みこみ、押し殺した声で言葉を吐き出した。
「なんと言うことだ!なぜおまえがここにいる」
 父親の怒りに少年は雷に打たれたように身体を震わせた。
「早すぎる。まだ――」
「ジョエル」
 と静かな優しい声が言った。
「私が招きました」
「なぜです。あなたはご自身でおっしゃったではありませんか。決して自分の姿を他人には見せてくれるな、と」
「どうしたと言うのです? 彼はあなたの息子ではありませんか」
 いずれ私と会う事を決められていた者、それが早くなっただけの事ではありませんか。だがジョエルは激しく首を振った。
「まだ早すぎる!あなたほどの方がなぜそれをおわかりにならない」
 一瞬沈黙した後、彼女は言った。
「心配しているのですね。そして恐れている・・・・。なぜ・・・・」
「あなたにはおわかりにならない。あの時以来ゴルトシュミットの時間は止まりました。私の一族が背負ったものの大きさを、あなたは決して知らないでしょう。あなたもあなたの一族もこの闘いの傍観者にしか過ぎない。血を流し、多くの犠牲を払いながらあの二人を補佐し、翼手と闘っているのは私達なのですよ」
 彼女の顔が悲しく歪んだ。ジョエルは子供をかばうようにして彼女に向き直って言った。
「できるならば私の代で終わりにしたかった。だが祖父が犯した罪を拭うには私の時間は短すぎる」
「翼手の闘いは、人間の一代では決して終わりません。わかっていらっしゃるはずです」 「そして私の息子にまでそれを背負わせる事になる。その事を私は理解していた。理解しているつもりだった。しかし・・・。あの子は祖父の顔さえ知らないのに」
「ジョエル。人間は翼手とは違う。一人の人間が長い時間を渡る事はできません。多くの者がその時間の中で疲れ、悩み、ある時は離れ、また集うでしょう。裏切りもあるでしょう。しかしジョエルの名の下に、『赤い盾』の名の下に、必ず人々は集まる。それは翼手とは別のやり方ではあっても、人間が時間を超える唯一の手段なのです」
 彼女が傍らの少年を振り返った。見えない目が少年の気配を探り、微笑みかける。それは決して優しいだけではなく、多くの含みを孕んだ微笑だった。
「その一つの形がここにあります」
 手招きされなくても、父親の隣をすり抜けて少年は彼女へ引き寄せられるように近づいた。
「いつか、あなたはお父様の跡を継ぐ。跡を継いでジョエルの名を名乗る事になるでしょう」
 それが何を意味するかを悟ることなく、少年はある種の誇らしさに胸を反らせて彼女の右手を握り締める。まるで小さな騎士のように。それが徴だった。




END



2007/12/12