水の動きを感じる、と女は思った。久々に屋外に出てみて瞼の裏側に日の暖かさを感じる。それは暖かく柔らかい水のような感触だった。耳元には風の木々を揺らす音、そして遠くにする人の気配。視力の無い自分にも光の恩恵だけは与えられる。その事に感謝してみた。
 この館の中でのほとんどを彼女は一人で過ごしていた。彼女に付いているのは彼女の世話をしに派遣された親戚の女が一人。目が見えなくてもそれで日常生活にはなんら不自由は無い。その女でさえ盲目の彼女に四六時中ついているわけではなかった。無理もない。自分と共に不自由な生活を強いるのは道理にかなった事ではない。彼女は諦めにも似たため息を漏らしてそう思った。
遠くで人の笑いさざめく声が聞こえてきた。複数の大人たち。そして子供達。何をしているのだろうか。楽しそうなその気配を耳にしながら、ふと彼女が感じたのは奇妙な疎外感だった。
 彼女は母親の代からこのゴルトシュミット家に世話になっていた。いや、世話になっているという言い方は正しくない。彼女達の能力をゴルトシュミットの目的に遣う為に派遣されているのだ、彼女の一族によって。彼女は決して自分がゴルトシュミットに利用されているとは考えていなかったし、逆に彼ら一族のある意味制御を担っているとさえ思っていた。しかしこうして一人だけで佇んでいる時、本来彼女自身がいるべき一族から見放されたような不安な気持ちになる時があるのだ。そしてそんな時には自分の母の事が思い出される。
 許して欲しい、と彼女の母は口癖のように言っていた。それが彼女に対してなのか、それとも彼女がそのためにこのゴルトシュミットに赴くことになった、あのサヤに対してなのか、もう彼女には問いかける術はない。母親が鬼籍に入ってしまったのはもう随分前の事になるような気がしている。
 元来彼女の一族は、今は翼手と呼ばれる種族と強い結びつきのある一族だった。それは北方の蛮族達が翼手を祀り上げていたような、そんな類とも異なっており、彼女達の一族において彼ら種族は伝説よりもさらに現実味を帯びた、血肉を持つに等しい存在でもあった。翼手が存在そのものを消してからも彼女の一族は細々と生きながらえ、翼手の存在とその知識を緩やかに、しかし確固たる意義を持って今に伝えてきたのである。
 彼女の母が一族からこのゴルトシュミットに派遣されたのは、先代のジョエル・ゴルトシュミットが一体の翼手の遺体を手に入れたという情報を一族が手にしたからだった。遺体だけなら恐らく単なる奇妙な木乃伊として捨て置かれていただろう。だがその身体は受胎していた。彼女の一族はこれが意味する所を直ちに悟り、彼女の母をジョエル・ゴルトシュミットの元に派遣したのである。翼手と強い結びつきを持っている彼女の一族は、それだからこそ予知の能力を有していたが、その予知の力はなぜか翼手という種族に近づくほど不安定に揺さぶられた。これは一族にとって翼手という個体の持つ影響力があまりにも大きく、一族の力をも時に凌駕するからだと伝えられていた。そのため、翼手の影響よりも純粋で強い能力の持ち主である彼女の母が、幼いながら選ばれて、一人ゴルトシュミットに向かったのである。しかしながら彼女の母親は翼手の木乃伊とその死の匂い、それからジョエル・ゴルトシュミットという人間の精神の影響をもろに被る事になり、その拒否反応によってこの翼手に関しての正確な予知を逃してしまった。サヤとディーヴァ、二人の翼手が誕生し、後の斬劇に通じる火種が投じられたのはこの時だったのである。
 その娘たる彼女は・・・。幼い頃から母親の跡を継ぐべく育てられた。母親が受けてしまった拒否反応を排除するために訓練され、そのための能力――翼手に対する耐性を身に付け、早くから母の元でゴルトシュミットに馴染まされて育てられた。その母が亡くなってからは当然のように母の跡を継いでゴルトシュミットの占い師に納まった。一族の柵から逃れられず、また逃れようとも思っていなかった。それによって翼手から人間を守り、そして人間から翼手を守る。それが彼女に与えられた本当の役割だった。誰にも知られることのない、たった一人の孤独な役割。


 一際歓声が大きくなって彼女の思索を破った。明るい世界が戻ってくる。子供の声は誰の子供のものだろうか。柔らかく下草を踏み敷く音。空気が動いている。彼女はそれを心地よいと感じ、ふと微笑んだ。何かが軽く地面を打つ音共に軽やかに駆けて来る軽い靴音。子供のものだ。彼女の身体の周辺に風が生じていた。
麗らかな太陽の下の笑い声に彼女はこの子供の、まだ人生に何の翳りも無い者特有の明るさを感じ、この子の背後にある暗い背景を考えてその眩さに身を竦ませた。それは自分の中にもある暗さに通じている。
 不意に笑い声が止んだ。息を呑む気配がする。風と共に子供の柔らかな匂いを鼻腔に感じた。
「だあれ?」
 まだたどたどしい声に彼女が戸惑っていると、近づいてくる気配がした。その子供は無垢な、恐れを知らない足取りで彼女に近づくと、そっと彼女の衣服の裾に触れてきた。その有無をも言わせぬ手に引き寄せられて、彼女は膝を折るとその小さな気配に躊躇いがちに手を触れた。目の見えない彼女の唯一の手段。壊れそうな顔に、どこもかしこも柔らかい身体に触れてみる。すると驚いたことに子供は笑い声を上げた。くすぐったかったのだろうと彼女は一瞬思ったが、それだけではない。何故だか自分の権利を主張するような、子供特有の尊大さを併せ持った笑いだった。
 彼女は自分の手を子供の身体から離した。彼が誰だかわかったのだ。この子供は成長する。成長して後にジョエルの名前を継ぐ子供なのだ。だが彼女が手を引っ込めたとたん、思いもかけないことに彼女の頬と身体に柔らかなものが押し付けられた。首の周りに暖かな匂いが回される。子供が自分に抱き付いてきたのだという事を、彼女はしばらくして気がついた。


「ご子息にお会いしました」
 彼女がジョエルに告げた時、隠していても彼の機嫌が悪くなっていくのを彼女は感じた。
「まだ我々はあれには我が家の事を何も話してはいないのです。第一『ジョエル』の名を継ぐかどうか・・・」
 ゴルトシュミットの家督を、ジョエルは『組織』を引き継ぐ者だけに継がせる事を決意していた。彼の跡を継ぐ者は莫大な影響力、財産、ジョエルの名前、そして大きな義務を引き継ぐのである。しかし、いざ自分の子供をいつ果てるか知れない闘いの道へと押しやる事は中々できるものではない。
「ジョエル」
 しかし彼女は静かな動かされない声でジョエル・ゴルトシュミットに言った。 「私はご子息に会いました。そして知ったのです、彼は来るべき日にジョエルの名前を継ぐでしょう」


 その言葉は異国の巫女の言葉のように、抗いがたい響きを持ってジョエルの耳に響いた。




END



2007/12/10