女王の目覚めは血とともに始まり、盲目の女が予知を司る。


 

   ディーヴァの目覚めを正確に予知した女は、サヤの目覚めの時期にも的確に反応した。それを受けて、代替わりしたばかりのジョエル・ゴルトシュミットはその目覚めの準備を整えていった。すなわち、血と場所と。
 サヤの最初の目覚めの準備に、ジョエルはすべてを鋼鉄で覆われた部屋を作らせた。外から閂をかけられるように、だが室内は快適に。普通の部屋と同様の内装を施す。いくつか空気のためと外から観察できるための小さな穴が空けられ、内部にサヤが眠る繭が運び込まれた。そうして整えられた部屋にサヤ唯一の眷属であるハジだけが共に入っていく。
 準備がなされると知った時、女はジョエルのもとを訪ねた。丁度その時屋敷にいたジョエルは飄然と穏やかな顔をして女を出迎えたが、反対に女の顔は微かな不快を表してジョエルの名を継ぐ者たちに向けられている。
「なぜ隔離を・・・? 女王に『目覚めの血』を与えるのは第一騎士の義務であり誉れでもあります。危険はありません。サヤが求めるのはハジの血のみですのに」
「だがあなた方でさえそれを実際に見たものはいない。私は万が一の事も考えなくてはならないのですよ」
 女は眉を顰めたまま、何も言わなかった。かつて幼い頃、彼女は言ったものだった。
「どうして・・・。あなた方は何か動物でもあるように、あの二人を観察するのですか? ジョエル。あなたが?」
 幼いくせにこの盲目の少女は奇妙に大人びた口の利き方をしていた。失望とやるせなさ。そこに怒りの色を載せている。それはこのジョエルの、今は亡き父親に向かって少女が初めて見せた憤りの言葉だった。
「我々には情報が不足している。あなた方の知識は勿論重要です。何度それに助けられてきた事か。だが今、我々が欲しているのはその実証。具体的な記録なのです」
「もしも彼らを傷つけるのなら。そして私たちの知識の提供をないがしろになさるのならば、私たちはいなくても良いものと言う事になります。サヤは確かにディーヴァの姉。しかしディーヴァがあるべき翼手の在り方ではなく、このように本能のみに従って人間を狩るようになったのは、初めのジョエルが彼女に与えたもののせいだと言うことをお忘れになっては困ります。同じ事をあの二人になさるのなら、それなりの事を覚悟されなければなりません」
 それはこの華奢で儚げな少女が語ったただ一度だけの怒りと脅迫の言葉だった。あれからほぼ三十年と言う月日が経った。
今彼女は長い間ジョエルたちの元に留まり、『赤い盾』の一部となり多くのしがらみが出来た。二人の翼手と『赤い盾』の在り方も、互いの関係性も整ってきたと思われたのに。 「服を着替える時に覗き見られることを想像してみてください。不快である筈です。同じ事をあなたがなさるなんて・・・」
「礼節は同じ人間にのみ適用されるべきもの。彼らは人間ではないのですよ」
「その驕りが初めのジョエルが起こした悲劇の根底にあるのだとお考えになりませんか。たとえ人間で無いとしても彼らは高い知能を有し、人間と同じ感情を持ち、人間に寄り添うべく在る存在です。人間がその尊厳を尊ぶべき存在なのです」
「不思議な事をおっしゃる。あなたは翼手の味方なのですか?」
 その時傍らに控えていた若者が口を出した。その言葉の調子に、その背後にある意味に、彼女は一瞬凍りつき、若者は言い過ぎたことを悟った。
「申し訳ありません。言い過ぎました」
「いいえ」すでに落ち着きを取り戻した静かな声が響く。
「けれども勘違いなさってはいけませんよ、デヴィッド。私たちは翼手の脅威から人の世を護るためにここにいるのです。唯一人間の味方である彼らを虐げるためではない」
「勿論、虐げているわけではありません」
「彼らの厚意を曲げてはなりません。『赤い盾』は彼ら無しでは――特にサヤ無しでは存在できないのですから」
「あなたのおっしゃりたい事はわかります」その時ジョエルが言った。彼は父親の後を継いでまだ間もなかった。
「しかし、彼らの厚意にすがってでも我々は情報を得なくてはならない。『彼』は既に承知してくれています」
 女は僅かに眉を顰めて悲しげな顔をした。
「だからこそ私がおりますものを。彼らが危険ならばその危険を知らせ、あなた方を遠ざけていたでしょうに」
「お気を悪くされてしまったのなら謝ります。ただ先ほど申し上げたように、我々は万全に備える義務があるという事はご理解いただきたい」
「ジョエル。確かに翼手の力は脅威です。ですがそれに備えるにもやり方というものがありましょう。あなた方のその考え方が後々大きな過ちを呼ばないように私は祈るだけです」
 その言葉が真実になるのはもう少し後の世の事になる。




 サヤの目覚めのための扉が閉められると、女はその扉のすぐ向こうで同じ様に準備に入った。目覚めたサヤの様子を感じ取り、いつ扉を開けるかを判断するためにである。なぜそんなに近くにいなければならないのか、と問う声に彼女は笑って答えた。
「サヤが目覚める時に、私も傍にいたいのです。それにこれは私の役割ですから」
 そう言ってジョエル達の心配を他所に、彼女は頑としてその場を動かなかった。歳をとるに従って堅牢になるその意思力は『赤い盾』に取っても重要な要素のひとつだった。ジョエルが折れるのをわかっているように彼女が微笑を浮かべて腰を下ろすと、やはり微笑を浮かべながら今度はジョエルが彼女に言った。
「それでは私もご一緒しましょう」
「ジョエル?」
「私も『赤い盾』の長官です。私にも彼らを見守る義務がある」
 狼狽する若者らの目の前で男の微笑みは深くなる。
「あなたがそう言うのならば、サヤが危険ではないことを私も信じなければ」
 女は微笑んだままうなづくと、ジョエルが自分の隣に座る気配を受け入れ、他の者たちが扉から離れていく様子を黙って感じ取っていた。彼らは安全なところからこの部屋の中を眺め、サヤの目覚めを観察する事になっている。
「良ろしいのですよ、私に付き合わなくても」
 いいや、と彼は笑った。
「サヤの目覚めは三十年に一度。私としてもこういう機会はありませんから」
「それは興味ですか?」
「純粋な、ね」
 その言葉には恐れも怯えも感じ取れず、かと言って珍しい動物を観察するような偏った視点も感じなかった。どちらかというとそれはこの状況を楽しんでいるような、大人の余裕を感じさせた。
「不思議ですね。最初にジョエルとしていらしたあなたはまるで、この世の秘密を全てご自分の手中に収めているかのような雰囲気でしたのに、今のあなたは違う。
 自分の力を誇示せず、侮らず、どちらかというとこの状況をたのしんでいらっしゃるような気さえする」
 ジョエルは女の言葉には答えず、ただ微笑んで別の事を口にした。
「こうしているとまだ私が幼かった頃、あなたと過ごした時間を思い出します。ジョエルではなかったあの頃の私を」
「・・・」
「ジュエルとして初めてあなたに会った時、私はまだ自分が何者なのか、ジョエルという名前が何を表わしているのか、全くわかっていなかった。あの幼かった頃よりも無知であったとすら言えるでしょう。初代のジョエルが犯した罪が何であったか。私たちジョエルはそれを各々の形で捕らえ、探し、そして償わなければならない。
 この名は翼手に対するだけではなく、人間としてしなければならない事への備えであり、贖いであり、戒めであり、重荷であり、誇りであり、義務なのだと。
私が変わったというのならば、あの時なのでしょう」
「人間としてなさねばならない事・・・」
 女は口の中で呟いた。
「言葉は語られるだけでは軽く、行動は重き頚城に縛られる」
 ジョエル・ゴルトシュミットはその言葉を現実のものとするために長い年月を費やすことになるだろう。未来はまだ定かではなく、多くの苦難がそこに横たわる。
 その時、女が顔を上げた。
「ジョエル」
 雲母が割れるような音が微かに聞こえる。長い眠りの時を終え、サヤがその揺り籠である繭を出ようとしているのだ。目覚めたばかりの無垢な魂を女は思った。はらはらと繭を破る音が次第に大きくなって行く。運命の輪車がめぐる気配がしていた。そしてどさりと何かが落ちる音。
「サヤが目覚めました」
 その言葉にジョエルは立ち上がって、扉に開けられていた小さな穴から中を覗き込んだ。微かな不安と不快感。そのとたん、ジョエルが息を飲み込むのを感じた。
「こんなものだとは・・・」
 血の匂いが色濃く漂っている。女にはそれがサヤのシュヴァリエのものであることがわかっていた。
「『目覚めの血』・・・。種族の女王には必ず必要なものです。私には見えませんが」
 滅多に動じないこのジョエルが、僅かに嫌悪と恐れを声ににじませて言った。
「見えなくて幸いです。ああして見ると、サヤが翼手であるということがはっきりとわかる。本能むき出しの、まるで獣のような様相で・・・」
 女は何の表情の変化も見せなかった。ジョエルに説明されなくても、女王が彼女の第一騎士の血を摂取しているのが肌に感じられる。その生態も、不思議な事ではないものとして女は自然に受け入れていた。だがジョエルたちには女のような感覚は備わっていない。そして恐らくそれが人間にとっては自然の事なのだ。翼手にとって、人間とは寄り添い共に生きるべき存在。この世界が人間のものになった今は特に。だが人間にとって、翼手とは捕食者でもあり想像外のモノであり、そしてどうしようもなく惹きつけられる存在。その姿に本能が恐れを感じても不思議ではない。
・・・ハジ・・・・・
 声が聞こえる。それが合図のように女は立ち上がった。
「サヤが正気に戻りました。もう大丈夫。扉を開けてください」
「だが・・・」
「私が危険はないと判断したのです。自分の感覚の責任を担うのは当然ではありませんか」
「我々はあなたを失うわけにはいかないということをわかっていますか?」
 ジョエルですら恐れを感じても不思議は無いのだ。
「大丈夫。私がいなくなっても次があります。私の里は私の次代の者を既に準備しているはずです」女の盲目の瞳にはジョエルの表情は映らなかった。
「ご心配なら私が入ったらすぐに再び閂をかければよいことです」
 女の言葉はゆるぎなく、翻す事は誰にも出来ず、彼は盲目の女が手探りで隔離された部屋へと歩み寄り、その扉を開けるのを見守っていた。
その足取りはこのゴルトシュミットに圧し掛かる重い運命を運んでいる者のように、覚束なく緩やかであり・・・。中に入るとまだ強く血の香りが漂っていた。
扉のすぐ脇の壁を伝い、時には躓きながら、女は確かに一歩一歩サヤへ近づいていく。
「サヤ」
 すると彼女の騎士に支えられながら、サヤがこちらを振り向く気配がした。
「・・・?」
 サヤが口にしたのは彼女の母の名前だった。今更ながら30年と言う歳月が感じられる。それは少女を熟年の女に変え、その姿を母親と似通ったものにした。女はおぼつかない足取りで、手探りをしながらなおもサヤに向かって歩みを進めた。柔らかな少女の匂いがする。女の指先が少女の滑らかな肌に触れる。腕を辿り、そのまま少女の顔をなぞるように撫でた。
 サヤの記憶の中で閃くものがあった。驚きに少女の目が見開かれる。とたんに女は跪いた。女が触れる頬の感触から離れがたく、サヤも崩れるように膝をつく。
 女の顔がすぐ間近にあった。盲目の、線の細い・・・。優しい感触で頬を撫でる・・・。昔そうであったように。そしてその口元が言葉を形作った。
「お帰りなさい。サヤ」




 こうして再びサヤの物語が始まる。そうしてその後、すべてはロシアに流れて動き始める事になる。




END



2008/04/17(拍手SS掲載)
2008/06/20(ジョエル部屋へ格納)

 

   取りあえず終了。サヤが目覚める所で終わる事はずっと決めてました。色々な話で間を埋めていきましたが、ひとまず終わってほっとしてます。翼手に対する知識を持つ、変わった能力の一族のお話・・・になってしまいました。ジョエルの話を書こうと思ったのですが、どうにも書きにくかったので、オリキャラ視点を付け加えたら・・・。思った以上にオリキャラが出張ってしまいました。すみません(平身低頭)。