アンシェル・ゴールドスミスの名前はいつの時代もゴルトシュミットにとっては鬼門に近いものであった。そのことを何度も彼らは味わうことになる。しかし物事は往々にしてそのときは隠されているものである。そしてこのときも。アンシェル・ゴールドスミスとの邂逅の後に、彼らはそのことを思い知らされたのであった。




 現当主ジョエル・ゴルトシュミットはその圧倒的な財力と人脈を駆使して、行き先不安な世界情勢の中で自分たちの財を守ろうとしていた。地位ではなく、財力を。それも未だに手を付けられていない鉱山と土地の永代的な所有権。大きな戦争が始まろうとしており、世は不況と戦争景気に徐々に満たされ始めていた。そんな中、ジョエルはその拠点のほとんどをスイスとイギリスに移すことに成功していた。パリの自宅はゴルトシュミットにとって、もはや形骸に過ぎない。
 だが一方でその頃からジョエルの体調に変化が生じた。この『赤い盾』の長官の顔から疲れが消えることがなくなり、動作も微妙に変化している。そのことをジョエルの傍らにいる白い女だけは気が付いていた。
「少しお休みにならなくてはなりません」
 女の進言に既に老境を迎えたジョエルは笑って答えた。
「私にはそんな時間はありませんよ」
 本来、彼女こそが知らなくてはならなかったその言葉に隠された不吉な意味を、女はその時に気がつくことができず、知ったときは既に時期を逸し、女は自らの能力の限界を知ることとなった。ひっそりと女の能力に翳りが生じ始めていた。




 ジョエルが倒れたのは冬枯れの寒い朝だった。彼の息子はその頃は彼のすぐ傍におり、彼の表の仕事と、決して表に現してはならない彼の『赤い盾』当主としての役割の補佐を担っていた。
「ジョエルの容態は・・・。お医者様はなんと?」
 足早に歩くジョエルの息子と並んで歩きながら、女は早口で尋ねた。
「ただの過労だろうと」
「過労?」
 女は眉を顰めた。胸騒ぎがする。直接ジョエルを見舞った女はその姿を一目見て息を呑んだ。ジョエルは今までに見たことが無いくらい、弱々しく生気を失った顔色をしていた。枯れ木のように痩せている手が寝具の上に出ている。いつの間にこんなに痩せてしまったのだろうか。
「ジョエル・・・・」
「ああ。心配をかけたね」
 ジョエルの声だけはいつも通りの軽妙さを含んでいた。
「心配ない。ただの疲れだ。二、三日休めば元通りになると医者も言っていた」
 女は柳眉をひそめた。ジョエルの体調が思わしくないまま、1940年。パリはついにドイツ軍の進軍をその懐に許す事となる。政府はドイツの傀儡となり何とか自国の体勢だけでも保とうとし、もう一方の自尊心と国民性と独立性を重視するものたちは秘かに英国を頼もうとしていた。ジョエルは後者の主な指導者と連絡を取り合い、そのパトロンとなって、英国に仮政府としての拠点を築こうとしていた。もちろんジョエルの背景には秘かに欧州全土に混在しているゴルトシュミットの財力があった。これがあったからこそ、フランスを「敗戦国」として扱おうとする英米と渡り合うだけの力を用意する事ができたのである。
 そして後にゴルトシュミットは、対外的な対応だけでなく、ゴルトシュミットからできるだけ多くを吸い取ろうとするこの政権の指導者とも交渉し、彼を歴史の表舞台に立たせつつも沈黙の一族になっていく。
 だが今はまだすべてが水面下で動いているに過ぎなかった。




 パリのジョエル宅も軍に摂取されるところだったが、その一部を提供する事によってかろうじてパリに居場所を確保することができた。女の予見の力はサヤをその前に比較的安全な場所に移すことを可能とし、さらにできるだけ早くドイツ駐留軍が邸宅を強制摂取するようにしむけるが肝心だと結論した。
「フランスは決してドイツの言いなりにならないことを示さなくては。この軍隊の蹂躙は永続的なものではありません。いつかフランスは自由を取り戻します。その時にもゴルトシュミットの力は温存されていなければなりません。そのためには今ナチスに協力するように取られるのは将来的に不利になります」
 女の予見はこの事に関してはまだまだ安定していた。世の中の不安に対応するかのように、その能力は研ぎ澄まされていき、ジョエルの活動は大いにそれに助けられた。逆に不安定になっていったのはサヤに関することだった。しかもアンシェル・ゴールドスミスとの邂逅の後、ますますひどくなってくる。かろうじて分かるのは、サヤが今どこにいるのかということと、彼女が彼女のシュヴァリエに護られて繭のまま無事でいることだけだった。
 サヤの目覚めが近いというのに・・・・。それは女に言い知れぬ不安をもたらした。
「何という顔をしておいでだ」
 ジョエルは青白い顔で床の中から女に声をかけた。
「あなたはこの戦争にもディーヴァのシュヴァリエが関わっていると言った。その活動が大きくなるときは、ディーヴァの目覚めが近いときだとも。それならばサヤの目覚めも近いということではないのかね」
「ええ。ジョエル。それは私の一族から伝えられた事実ですから」
「サヤ・・・・。私は恐れていたのかもしれない。あの翼手の女王に魅せられるかもしれない私自身を。私は、だからこそ彼女達に距離を置こうとしていたし、それは正しい判断だったと今でも思っている。だが――」
 とジョエルは深いため息をついた。
「私の息子。この暗い時代における重い定めを負う息子にとっては、それは必ずしも良いことだったとは思えない」
 ジョエルの身体は見た目以上に弱っており、時折息をつくのに休まなければならないほどだった。
「あれはこの私よりも彼女達を否定している。まるでディーヴァに対するのと同じように、彼女たちの存在を否定する。彼女たちは私たち一族の罪の顕在化されたものだというのに、その罪から目を背けようとして彼女たちにすべてを負わせるかのように」
「ジョエル。それは・・・・」
「ディーヴァを解き放ったのが誰なのか、それは今でもわかっていない。だが解き放たれたモノは、最初のジョエルが自分の手でそうあるように創り出したもの。創造の神秘を弄び、自分の力に驕り禁忌に手を付けた。自分たち人間の神秘に迫り、自分たちの種の何たるかを求め、それ以上の存在を自由にしようとする。その驕慢の罪が産み出した存在なのだ。私たち一族は、だからこそ歴史の表舞台から去り、祖先であるジョエルの罪を解消するためにこの名と財力を傾ける」
「その決意が、あなたの一族にあるからこそ、サヤたちはあなた方の下に留まっているのですし、私たち一族はあなた方に力を貸すのです。翼手が表舞台に立ち人間の歴史を自由にすることも、やはり決してあってはならない事と私たちにはわかっているから」
 だからジョエル。どうぞまだ逝かないで。女は死の色の濃く浮き出ているジョエルの顔を見つめながら、胸のうちでつぶやいた。




 ジョエルの容態が急変したのはその晩だった。フランスに残っていたのはジョエルの息子と数名しかおらず、彼らはジョエルの容態が落ち着いたら、ロンドン郊外に準備してあるゴルトシュミットの住まいに移ろうと準備していたところだった。
「父上・・・・」
 ジョエルの息子が父親に対していかなる感情を抱いていたにしろ、その別離の時間は二人にとって貴重で互いに大切な時間となった。ジョエルという名前の持つ重みは彼らのみが知りえ、余人にはわからない。
「息子よ・・・・」
 ジョエルの声が、こんなに細く響いているのを白い女は哀しみに満ちた心で聞き取った。
「天も知らず、人も知らず。我々はなさねばならない事を為すべき者。定められたように、だが生命を大切にして歩みを進めて行きなさい。おまえを補佐し、導いてくれる者の言葉を決して疎かにしてはいけないよ」
 ジョエルの言葉は私たち一族の言葉のようだ、と女は思った。予知者と共にいることによって、彼も自分たち一族の考え方、感じ方をいつの間にか身に付けたのだろうか。
 その時、息子を見つめていたジョエルの目が、不意に女に向けられた。
「息子を・・・・。どうか頼む。あなたが予言した、次のジョエルだ」
「ええ。わかっています、ジョエル。お約束します。きっとお力になります。お力になることをお約束します」
 いつも何かを考えているようなジョエルの目が、微笑んだかと思うとそのまま閉じられ、二度と開かなかった。ジョエルが逝った。
 大きな星が落ちたと女は思った。暗い時代、暗い未来の幕開けだった。女が思っていた以上に、そしてジョエルが予想していた以上に。
 それからの数日は慌しかった。ジョエルの一族は当主が伏せっていたという理由のみでこのフランスに留まっていたのであり、これ以上ここにいることには何の意味もなくすぐさま英国への移住が決行された。時勢が時勢だけに秘かな旅立ちには神経が使われ、ようやくナチスのパリ駐在部隊の長がこの邸宅に引越ししてくる前日に逃げるように彼らは住み慣れた邸宅を後にした。
 ジョエルの葬儀は質素に行われ、あれだけの大富豪だというのに身内だけのささやかなものとなった。
「母の時も簡単なものでした。こういうところだけ、夫婦揃っているとは、面白いものだと思いませんか」
 新しくジョエルを名乗る事となった青年の呟きが胸に染みる。
「ジョエル」
 新しい名でそっとつぶやいて手を握ると、暖かい手が握り返してくる。
「ありがとう」
 そうして次のジョエルが続いていく。漠然とした不安と共に白い女はそう思った。






 ジョエルの息子がジョエルの名を名乗り始めたのは、ロンドンについてすぐだった。 すべての事象が難しい局面に差し掛かり、そんな折父親と同じジョエルを名乗ることは彼にとって大方が有利に傾いた。ジョエルはその名によって、父親の老獪さと巧みさを盾として、自らの強引さを推進力にして刻々と移り変わる状況に対応していった。戦いは欧州全域に及び、ドイツ軍の靴音のしない所はほとんどない。そんな中で英米諸国の支援者の力を影から補助し、さらにフランス政府としてのイギリス駐在自由政府に豊富な資金を与える。新しいジョエルは父親の後を継いで、この難しい局面に対して次々と乗り越えていった。
「さすがジョエルの名を継ぐだけのお力があります」
「誉められると悪い気はしないものですね」 まだ若いジョエルは女に微笑みかけた。
「だが私たち一族の本来の務めは故国を護るためのものではない。わかっています。今回英国政府への働きかけに対してもゴールドスミスの力を随分借りた。おかしなものです。あなた方一族の情報によるとディーヴァの眷属はドイツ軍の中にもいるはずなのに、敵対する、我々にとっては同盟側とも言える英米陣営の中にも存在する。ゴールドスミスなどその筆頭。しかも我々はその力を借りた」
「ジョエル。私たちの戦いは人間同士の戦いの外にあるものです。ディーヴァの一族はこの世界大戦そのものを自分達の手のひらで転がしていると思っている。あちら側にもこちら側にも、そこここに彼らの息吹がかかっている。だからこそ、それに対抗すべく『赤い盾』は在らねばなりません。
 私には感じられます。戦いは次第に大きな渦を巻くようになってくる。そしてすべてが熟し、熟み爛れるその直前に現れる存在がある」
「それがディーヴァ」
 女が深く頷く。
「本当に我々が戦わなくてはならない存在。だが我々にはサヤがある。いかなる手段を使っても私たちはディーヴァを仕留めなくてはならない。そのためにはサヤを最大の効果で使う。おわかりになるでしょうか。私はサヤを使うことを心待ちにしているのですよ」
 その時浮かべた若いジョエルの微笑みに、なぜかしら女は胸騒ぎにも似たものを感じたのだった。







END



2009/05/14

 いけないと思いつつ段々独自展開になっていく・・・・。連休が終わったとたん、ほっとしてこちらの更新をすっかり忘れきっておりました。まあ、このジョエルの話は、独自妄想展開しててすみません~。と思っている話なので、あまりお薦めできないのが実情。自己満足でこうしてネット上に上げている、純粋に話を創ることを楽しむためのページです。(多分11話までで一応『翡翠』の章は終了する予定です。。。。目指せ毎週更新)