ゴールドスミスが新大陸の事業を拡大しているという情報は早い時期から寄せられていた。欧州では新興勢力であったゴールドスミスも、新大陸での成功とともに世界にまたがる一大財閥になりつつある。アメリカの経済恐慌の隙間を上手く利用し、その勢力が塗り替えられる機会を逃さずに一気に力を握る。それは鮮やかな手段だった。それもこれもゴールドスミスがこの前の戦争景気を発端としてその財力、人脈を格段に向上させたことに拠っている。その事実に白い女は人間と翼手の関係の矛盾を感じずにはいられなかった。
 そんな折だった。ゴールドスミスがゴルトシュミットを訪問するという情報がジョエルから寄せられた。
「あの、アンシェル・ゴールドスミスが来るのですよ」
 ジョエルは相変わらず興味を刺激して人を乗せるのが上手かった。ゴルトシュミットは世界中を吹き荒れる恐慌の嵐をできるだけ身を低くして乗り切るつもりだと言った。資源を押さえているというは、この場合彼らの大きな強みだった。一見重要そうなものを手放して、実は本当に必要な部分だけを秘かに握っておく。
「少なくてもあちらはゴルトシュミットに興味津々と言う事が分かる。ゴルトシュミットが持つ財界の影響力を見ているのか、あるいは――」
「『赤い盾』の後ろ盾がゴルトシュミットであるかを探っているのか」
 女が後を引き取った。
「または両方か。どうです、彼がシュヴァリエ・アンシェルかどうか、見てみたくはありませんか」
 彼女は大きく息を吸い込んで、また吐き出した。この日が来るのをずっと前から知っていたし、自分の中で怠り無く準備を整えてきたつもりだった。彼女たち一族の予知の能力はこと翼手に対しては、ひどくブレを生じる。サヤとハジに対しては、幼い頃からこの屋敷にいることによって抵抗力が彼女にはあった。しかしディーヴァの眷属たちに接する事は、一族の優れた資質を持っている彼女にしてみてもどのような状態に陥るか分からない危険があったのだ。
 しかし、自分もあの時の少女ではない。と彼女は思った。既に師匠に代わってこのゴルトシュミットへのたった一人の協力者となっている事を女は自覚していた。この暗い時代においてシュヴァリエ・アンシェルが表立ってこの世界に出ようとしているかどうか、是が非でも確認しなければならない。人間を、餌としか見ることの出来ない翼手の女王・・・・。
「今。この時なのですね」
「ひとつ、考えられるのは先ほど申し上げた通り、『赤い盾』の正体にある程度の目処がついたというところでしょうな。もっともサヤたちの経緯からすれば最初からゴルトシュミットが怪しいとは睨まれているでしょうが」
「ジョエル。まだ、その兆候はありません。ディーヴァのシュヴァリエは『赤い盾』の正体を知ってはいない。けれどもゴールドスミスは前の大戦で力の取っ掛かりを得、今また世界に打って出ようとしています。大きな成長の機会を前にして、不安材料はできるだけ少ない方が良い。だからこのタイミングでアンシェル・ゴールドスミスはゴルトシュミットに食い込もうとしているのでしょう。
 どちらでお会いしますか?」
「やはりここではまずい。実はゴールドスミスにゴルトシュミットから譲って欲しいと言われている館があるのです」
「その要求を呑むおつもりですか」
「相手は軍部との取引を持ち出してきましたよ。軍との取引を紹介するからその仲介料に、というわけです」
「軍。ですか」
「わかってます。あなたがおっしゃったように、できる限り目立たず中庸に。軍部との繋がりはこちらもごめんこうむりたい。せいぜい高い買い物をさせようではありませんか」
「そこで会うのですね。アンシェルに」
 ジョエルは頷いた。自分の『時』がやってくる。女は重い足音を聞いたとでも言うようにわずかに身体を振るわせた。




 アンシェル・ゴールドスミスは、その年齢には見えないくらい覇気のある人物だった。既に60を過ぎているはずであったが、白髪が増えている事を除けば、15年ほど前に初めて会った時と変わっていない。ただ風貌が。以前のそこはかとなく人の良さそうな風情が影を潜め、代わってその瞳には思慮深さと力強さが得体の知れない自信と渾然となって現れていた。
 目が自然とアンシェル・ゴールドスミスにいく。彼の、奥方はどうしたのだろうか。女は一瞬考えた。
「お久しぶりです」
 こちらも以前とは異なって中年の紳士となっているジョエルがにこやかに出迎えた。飄然と何に対しても動じぬジョエルすらこのアンシェルに対しては色あせて見える。女はいつもの白い衣をまとって、うつむいたまま部屋の片隅からこの二人の会見を見守っていた。ジョエルがいつもよりもよく話をする。どっしりと受けているのはむしろアンシェルの方だろう。そこの知れない威圧感がそこからは感じられた。シュヴァリエなのか、それとも――。
 そのまましばらくは世間話といえるようなものが続いていたが、やがてジョエルが立ち上がり、アンシェル・ゴールドスミスに邸内を案内しようと言い出した。
「これは・・・・ゴルトシュミットのご当主自らとは光栄な」
「いや、わざわざいらしていただくからには当主として当然の礼儀ですよ」
 立ち上がる間際如際無く、ジョエルはアンシェルから見えないように女に向かって目配せした。アンシェルから目を離せず、だが未だに何も感じ取っていない女は軽く首を横に振る。まだもう少し時間が欲しい。女は自分の力がひどく不安定になっているのを感じ取っていた。まるで一枚膜が張ってあるようにアンシェルに対してよく見ることができない。良くない兆候だった。
 女は息を吸い込み、また吐き出した。と、その時、突然後ろを振り向いてアンシェル・ゴールドスミスが女を見つめた。彼の瞳は青かった。見たことのない南洋の海のように。奥深く、底の無い青い青い闇。女は息をすることも忘れてその瞳に見入った。暖かくも冷たくもないその青さに、何も考えられなくなる。
 その青い目が何かをつぶやいた。
(なにを・・・・?)
「どうされました?」
 ジョエルの声で我に返った。彼はアンシェルが女を見つめているのに気がついて、助け舟のように声をかけたのだ。
「いえ、何でも・・・」
 ゴールドスミスの当主は緩やかに頭を振ったが、その時女は確かにアンシェルの口元に笑みを確認したと思った。そしてその微かな唇の歪みが今度こそはっきりと女にその正体を明らかにした。
――シュヴァリエ――
 頭の中にひらめくようなその事実は女にめまいを起こさせ、しばらく女はその場から動けなかった。予知の能力を持つというのに、そしてあらかじめそれを半ば予測していたのに、自分がこれからどうすればいいのか、彼女にはわからなかった。
(お師匠様・・・)
 女は心の中でつぶやいた。だが同時に弱々しいそんな自分に対して激しい怒りも感じる。ジョエルの助けに、いいや、サヤの助けになることが自分に課せられた義務であるというのに、この動揺はなんなんだろうか。そのアンシェルを今ジョエルに示すことがなぜこんなに不安になのだろうか。自分がとても繊細な糸の上に立っているような気がする。彼女はふらつく足で廊下に出たまま、一歩も動く事ができなかった。



 廊下の窓から薄いカーテンごしに差し込んでいた日の光が、いつの間にか赤銅の彩を帯びて西の方から差し込んでいる。
「今日は中々有意義な時間をいただきました。こちらにお伺いするのはいつでも楽しみですよ」
「こちらこそ、お役に立てるようで幸いですな」
 男たちの声が女を現実に引き戻す。あれからどれ位時間が経ったのだろうか。女はかなりの時間、この場に立ち止まり、凍りついたように身体を強張らせている自分に驚いた。気がつくと無理な体勢で身体のあちこちが痛い。ジョエルと目が合ったとき、彼女は追い詰められたような目をして立ち尽くしていた。
「これは・・・・」
 彼女がここに残っているとは予想していなかったのだろう。珍しくジョエルが驚いた顔をしていた。それともそれほどひどい顔をしているのだろうか。ジョエルの後ろからアンシェル・ゴールドスミスが顔を出した。
「『また』お会いいたしましたね。いつもあなたは思いがけないところにおいでになる。もう一人の方は今日は一緒ではないのですね」
 アンシェル・ゴールドスミスの声は実に魅惑的だった。いつまでも聴いていたいと思わせるほどに。深く昏い輝きに満たされて、女は陶然とその声に身を震わせた。
 だが次の瞬間、彼はふっと笑顔を見せて視線をそらせてしまった。一瞬、さし伸ばされた手を離されたような、掴みどころのない不安定さを感じる。
「ではまた後日、契約の書類を作らせましょう」
「よしなに」
 ジョエルの身体が完全に目の前を通り過ぎ、続いてアンシェルが通り。その瞬間、アンシェル・ゴールドドスミスの視線が再び女に留まり、そのままじっと彼女を見つめた。彼の腕が上がり、右手の手袋をはずし始める。――避けることができなかった。アンシェルの手袋をはずした手が、伸ばされたかと思うと彼女の頬に触れた。その瞬間、頭の中を光のような何かが吹き抜けていった。アンシェル・ゴールドスミス。翼手。シュヴァリエ。第一の。ディーヴァゆえに彼が在り、逆にディーヴァも彼の影響下にある。女はふらつきながら、しかし倒れこむことはなかった。手をついて壁にもたれかかる。いつの間にかアンシェルの手がその頬から離れていった事にも気がつかなかった。身体の中をかき乱されるような、無理やり引きずり出されるような感覚だけが残った。だが不快ではなく、その不快でなかったことに対しても女は怯えた。アンシェルがジョエルと共に去っていく。その様子をぼんやりと眺めながら、呆然となって女は考えた。
 今のは――。確かにアンシェルが自分に触れていったとき、何かを感じた。彼が翼手であることも間違いなく確かめた。しかし、それ以上の何かが彼にはある。ディーヴァのシュヴァリエであること以上の何か。サヤに関係があることなのか。それとも、これはサヤにもジョエルにも関係なく、自分だけに起こっている感覚なのだろうか。何という混乱が自分を襲っているのだろう。そもそもなぜこんなにディーヴァのシュヴァリエであるアンシェルが気になるのだろう。サヤに敵対するものであるというのに。
「シュヴァリエ・アンシェル」
 白い女は影のようにひっそりとつぶやいた。






END



2009/04/24

 これからの展開が・・・。あまり書きたくない~という展開なので、本当はもう一編にupしたかったのですが、中々最終話が書けない状態が続いたので、4月に入って一挙にweb上に上げました。6月中にこの『翡翠』の話だけでも完成させる・・・予定です。