それから度々、少女が図書室に行く度にジョエルの息子はいつの間にか少女の近くまで来るようになった。師匠以外の者がこんな風に寄ってくる体験がなかった少女は、戸惑いながらそれでも悪い気はしなかった。成長しながら。時折少年は彼女に質問を投げかけた。彼女の一族の事、ジョエルの事業の事、そして翼手のこと。「ジョエルの日記」には翼手について多くの記述が述べられていたが、それは実際の記録のようなものであって、まだまだ少女たち一族以外には伏せられている事柄も多かったからである。
 少女が師匠との暮らしの穴埋めのように、情報収集と予知に明け暮れたように、ジョエルの息子も母親の存在を埋め尽くすかの勢いで勉学に励んでいた。
「シュヴァリエって、本当に不死身なの?」
 ある時何の気なしにジョエルの息子が訊いてきた。
「そうですね。心臓を抉られても、頭蓋が多少傷ついてもほとんど間をおかずに治ってしまいますものね」
「じゃあ、シュヴァリエ同士の戦いって意味がないんじゃないの?ただ女王がいればいいんでしょ」
「その女王を守るために、シュヴァリエが存在するのです。――ですが。シュヴァリエがシュヴァリエを殺せないわけではありません」
 少年が好奇心にわくわくしながら耳を傾けている。子供が自分の言葉に胸躍らせる様は、彼女自身にも満たされた思いを運んできた。
「それがモノなのか、人なのか、わかりませんが、『騎士殺し』と呼ばれていたものがあったということが伝えられています。実際にそれが何だったのかまでは伝わっていませんが」
「そんなものがあれば・・・」
「昔の話。ただの伝説。言い伝えです。あなたのお父様もおっしゃるはずですよ。そんな小手先のものをどうこうしようと考えるのではなくて、自分の手の中にあるものをしっかりと把握して最大限に活用することを心がけるように、と」
「わかっている」
 不満そうに口を尖らせる様は年齢相応の子供のしぐさで、そんな顔を見せてくれるだけ少年が打ち解けてきてくれたのだと彼女は思った。けれども少年のその目の中にある暗いものがなくなった訳では決してなく、それが彼女の予知に不安定な要素として影を落としていることも彼女は忘れることができなかった。
「翼手を殺すには、首を斬りおとすか、短時間で高温で焼き尽くすか、なのでしょう?」
 またある時、少年はそんなことも訊ねた。
「ええ。でもどちらもとても難しいことです」
「だから、対立する女王の血が必要なんだね。ねえ。翼手の女王って、会った事ある?」
「サヤのことですか? 残念ながら、私がこの屋敷にお世話になったときにはサヤは眠りの時期に入っていましたから。でも私の師匠はお会いしていました。その先代もね」
「どんな・・・その・・・・感じだったんだろう」
「サヤですか・・・。肉体的には翼手の女王。その血がディーヴァの一族にとって毒となることを知っていて、彼女はその目覚めの期間を全力でディーヴァの追討に捧げるでしょう。
 でも彼女の精神はほとんど人間の少女と言って差し支えないと思います」
「人間の少女? 翼手が?」
「私もまだお会いしたことがありませんが、お会いになればわかるでしょう。とても感じやすい人間の少女。そんな外見を持っていると言うことでした。何しろ私の師匠は目が見えませんでしたから、具体的な事はご勘弁ください。ただ、精神はその人物の外見にも多少出てくるものだとも言います」
「でもそれは翼手が、人間を捕食するからでしょう?」
「それだけでは説明付かない点が翼手にはあるのです。シュヴァリエがなぜ人間の男性を基盤としてなされるのか。なぜ彼らは人間の愛情あるいは関係性を求めるのか。人間を捕食すると言っても、彼らが必要とする血液は人間を殺すには至りません」
「でも。彼らは人間の敵だ」
「そうでしょうか? 何が敵で何が味方なのか。それをはっきりと見極められるほどの何をあなたは知っているのですか?
 サヤだけでなく。翼手の精神の基盤は人間のそれとほとんど変わりません。女王も、やはり育てられ方によって人間と変わらない精神を持つようになるということです」
 あなた方の先祖が彼女をそのようにしたのです。とは少女は言わなかった。だが少年は不愉快そうに顔をしかめながら
「だけどディーヴァは違う」
「それは・・・・」
「わかってる。それも惨劇のジョエルがそのように育てたから。でも本当にそうなの? 翼手の本質は、本当はああいう生き物じゃないの?」
「あなたは分かっていらっしゃらない」
 その時の少女の様子を、少年もまた忘れることができなかった。少女はいつの間にか憤りに身体を震わせていた。彼らがサヤではないもう一人の女王に対して行ったことを彼女は聞いて知っていた。
「彼女たちほど繊細なものはいないのです。生態こそ人間の血を必要としていますが、彼女たちは本当の意味で、無垢であり純粋なのです」
「あなただって会ったことがないって言ったのに・・・」
 思わぬ彼女の反撃に弱弱しく反論しながら少年は言った。
「確かにあらゆる意味で、ディーヴァが行ったことは、決して許されることではありません。今は翼手と呼ばれる種族が、そのように強靭な破壊衝動、吸血欲を持っていることも否定はいたしません。人間はその前にひとたまりも無いでしょう。ですが女王の目覚めの一番当初。第一シュヴァリエが血を捧げるまで、彼女たちの精神はまっさらで、赤子のようなもの。凶暴性や吸血衝動が出てくるのはその後。本当に、目覚め当初の時の女王たちほど無垢な存在はないのです。そしてシュヴァリエたちはその女王を奉じる。彼女たちは人間の理から離れているからこそ、雑念に曇ること無きその精神は純度が高い。そして、純粋だからこそ、人間に影響を受けやすいのです。
 あの惨劇・・・。あれはむしろ人間の恐ろしい、残酷な部分が行わせたこと――。
 だからこそ、女王の肉体も、精神も、それを守るためにシュヴァリエが必要とされる。彼女たちの精神は、常に第一シュヴァリエに負っているのです」
「第一シュヴァリエ。サヤにとってのハジ。ディーヴァにとってのアンシェル・ゴールドスミス。」
 少年が口の中でつぶやく。そのつぶやきがひどく暗いと彼女は感じた。




 それでもジョエルの息子には彼なりの長所があった。それは一度約束したら決して破らないという誠実さであったし、また彼は往々にして頑なであったが、一度心を開けば何事にも辛抱強く向かい合うことができるという一徹さでもあった。父親の持つ華やかさには及ばなかったものの、それは確実に彼の成長と、「赤い盾」次期長官への礎ともなっていった。
 この変動する社会に於いて、それは貴重な資質だった。おりしも欧州では新大陸から端を発した世界恐慌がイギリス、フランスを中心として派生して、経済基盤の崩壊と共に世相そのものも不穏な空気を孕み始めていた時であった。古くからの伝統が大きく崩れ、新興勢力(ブルジョア)達もすらその渦中に巻き込まれ、いつ失墜するかわからない不安定な情勢の時代だった。そしてそんな中、ジョエルは彼女の助力によって、いくばくなりとも政情の先を見越し、自分の資産の多くをスイスの銀行に移そうとしていたし、パリの本宅を絶対的な「赤い盾」の拠点とすることに危惧を感じ、様々な場所に分散させることに力を傾けていた時期でもあった。「赤い盾」そのものの活動は、まだ欧州に留まってはいたが、そのうちに新大陸にも拠点を築かなくてはならなくなるだろう。
 ゴルトシュミットの分家筋――とは言っても既に独立し、ゴルトシュミットがなるべく目立たぬように身を潜める方向に向かっていたのとは反対に、各国軍部との繋がりを密接にして経済的にも大きな力を持つようになっていったが――であるゴールドスミス家が、狭い英国を出て、新大陸へ進出を始めていることも気がかりな点のひとつだった。ゴールドスミスは、あのアンシェルを擁している。一族全体が意識していないだろうが、人間ではなく翼手のための一族と言っても良いのだ。それが人間の自己顕示欲と微妙に相互バランスを取りながら存在している。それがゴールドスミスと言う家だった。翼手がそういう形を取って、この世に出て行くことは許されていない。それが少女が知るこの世の理だった。
 彼女には欧州を中心として世界を覆っている暗い影が見えていた。再び、世界中を巻き込んだ大きな戦争が起こるかもしれない。こうしてジョエルの息子は少しずつ、この暗い世界の中で成長していった。
 とは言え、彼女がジョエルの息子と共にパリの屋敷で暮らしたのはほんの数年だった。その間にジョエル自身は『赤い盾』の拠点ともなっている自宅をもパリからスイスとイギリスに移す準備をし、ジョエルの息子はと言うとその短い少年時代を家庭教師とともに大学進学の準備に費やし、その後ドイツとイギリスの大学で過ごしているということだった。来るべき日の準備のために。




 彼女が久々にジョエルの息子の到来を知らされたのは、その春まだ早い頃だった。久々に会う少年は既に少年とは言えず、彼女よりも大分背の高い青年になっていた。
「お久しぶりです」
 少し照れたように挨拶をする青年は、少年時代の暗い面影をほとんどとどめておらず、父親に似てきたようだった。
「まあ。なんて大きくなって」
 その若さにまぶしそうに目を細めて、白い髪と白い衣の女は大きくなったかつての少年を見上げた。
「ジョエルに似てきましたね」
 そう言った時、一瞬彼の瞳に宿った翳りを彼女は見逃さなかった。
「しばらくぶりですから。少し、お話しませんか?」
 そう言って彼女はジョエルの息子を庭に連れ出した。ジョエルの中庭は主が不在の折でもよく手入れをされていた。
「大学では何をなさっていたのですか?」
「色々です。哲学とか、生物学とか。今は心理学に興味を持ってます」
 生物学と聞いて彼女はやや眉を顰めたが、ジョエルの息子は笑って言った。
「生物学は肌に合いませんでした」
 それからジョエルの息子は、自分の家の庭を眺めて感慨深げにため息をついた。
「ここは変わりませんね」
「そうでもありません。人は代わりました」
 実際世相を反映して、ジョエルの屋敷でもかなりの人数がいなくなっていた。
「だが変わらないものもいる」
 その口調にひやりとしたものを感じて彼女は思わず立ち止まって彼の顔を眺めた。彼が「変わらないもの」と言ったのが、サヤとハジ。二人の事だとわかったのである。探るように彼女はジョエルの息子の目の中を眺めて、そこに表れているものに向かってささやいた。
「あなたのお母様の死は、あの二人のせいではないのですよ」
「ええ。わかっています。あなたの師匠のせいでもないということもね」
 その言葉にとっさに彼女は息を吸い込んだ。彼にとってはジョエルが、自分の父親が、サヤや自分の師匠と深く関わっていたことが今でも許せないのだ。恐らくこの先祖の罪業を自分に伝えたことも、彼には許せないことの一つだったのだと彼女は悟った。
「人にはなさなければならないことがあるのです。それは時としてどうしようもないこととして私たちの前に立ちふさがる・・・」
「ええ。そんなこともわかっています。父が決して私たちをないがしろにしたわけではないことも。よくわかっていますとも。私は『次の』ジョエルなのですから。だからこうして戻ってきた」
 そこには少年期から脱して、大人になろうとしている一人の若者が立っていた。傷つきやすい幼い部分を怜悧な心で包み込んで、一人で立とうとしている人間が。
「次期『赤い盾』の長官として。次のジョエルとして。翼手に対する人間として。だからこそ、私にはあの二人を。サヤとハジを『人間』としては決して見ないでしょう。尊厳を持って接する。確かに。ないがしろにしない。確かに。あの二人は私たちにとって重要な武器。ディーヴァに対する備え。
 だが人間として見ることは――私には無理です」
「では、私たちは?」女が静かに言った。
「あなたはすべての事柄を、サヤたち翼手との因縁として受け止めているのですね。それでは私の一族は?あなた方に協力してきた私たちの一族も・・・・。あなたにとって単なる道具なのではないのですか?」
「それは違います」
 彼は急いで言った。だが女は首を振った。
「確かにあなたの目には私はサヤたちとは違い、人間に映っているのでしょう。ですが私の師匠も私も。あなたにとっては翼手との因縁の一つの象徴に過ぎない。そう。サヤたちと同じように」
「いいえ。違う。あなた方はあなた方の思惑であれ、私たちジョエルの一族に好意以って協力してくれている。それは私にも良くわかっています。だからこそ、安心して私たちはあなた方の協力を受けられる。奉仕ではない、協力を。それだけはこの私にも良くわかっているのです」
 道具なのは彼ら。あの翼手の二人。そう思うことがこのジョエルになるだろう彼にとって必要な事なのだと彼女にはわかった。翼手という人間外のものに対応するには、そう思うしかないのだろうか。あの二人も彼らなりの好意と誠実さによって、この『赤い盾』の元にいるのだ。少なくても当初は。
 風の音が不安な響きを帯びて吹いていた。








END



2009/04/17

 一族って書いていて面白い。先代やら先々代の影響が彼らに無い訳はないですから。それらの考えに同調したり反発したり。一族のすべてが同じ考え方をするわけではなかったり。ただ、彼らはディーヴァを狩ることを当主の定めと義務付けてきた一族ですから、その意義はきちんとわかっている。自分たちの祖先が、ディーヴァという翼手がこの世に解放されて、ワケノワカラナイ翼手を創りだしているという状況の一端を担っている事を自覚していると思いますので、各歴代ジョエルはそれと向き合わなくてはならなかったと。そしてそれの乗り越え方は人それぞれでそのために色々個性的なジョエルが出てくるといいなあ。と思ってます。(本当は6代じゃ足りない!と思うくらいですよ)