師匠の遺体は清められ、部屋の中に置かれた棺に納められていた。慣習に従ってその晩は少女が寝ずに師匠の傍らに付く。医師や看護婦たちが頭を下げて引き取った後は、邸内の者もほとんど立ち寄らず、ひどく寂しい通夜の晩となった。
 改めて自分たちがここでは異邦人だと言う事を感じ取って少女は立ち尽くした。異邦人。それでも構わなかった。師匠さえ居てくれれば。今、少女は本当に一人きりになってしまった事を刻み込まれるように感じていた。やがて故郷からもう一人、自分を補佐するための用人が派遣されるだろう。一族は外に出た者に対して、一人だけで行動する事を許さない。一族の未来に対する能力は、一人よりも複数で居る事によって、増幅され調和が保たれるという。殊に、ここには「種族」であるサヤとハジがいるのである。これからの自分のたどるべき道が見えなかった。師匠ではない、他の人間と二人でこの屋敷にいる。そう思っただけで少女の心は重く沈んだ。
 そんな時、不意に部屋の扉が小さく叩かれた。頭の中に小さく明かりが灯る。
「ジョエル?」
 彼の奥方も危篤状態に陥っていると聞いていた。それなのに、そんな時に。だがジョエルはあまりよくない顔色で、この時ばかりは普段の飄然とした雰囲気を収めて、するりと部屋に入ってきた。
「最期のお別れをさせてもらおうと思ってね」
「どうぞ」
 少女が脇にどくと、ジョエルは思い足取りで棺の傍に歩み寄り、白い女の顔をじっと覗き込んだ。そうして長いこと、見つめ続けてからジョエルは右手を上げて、女の小さな手に、今は手袋をしていない華奢な手に触れた。今は氷のように冷たくなっているだろうその手に。それからジョエルの手はそこを離れ、次に女の滑らかな額へと移動した。小さな子供の熱を測る時のように、大きな手で女の額を覆い、さらにやさしい手つきで指先で女の額を撫でた。繰り返し。無心に。それを見て少女はなぜか、師匠が最期に呼んだ名前がジョエルのものであった事を思い出した。何も触れず、何も言わず。二人の間にあったものは一体なんだったのだろうか、と少女は思った。補佐する者とされる者。
 だがすでに師匠の魂は去り、言葉は無為に過ぎない。
 長い時間ジョエルは女の傍らに立ち続けていたが、やがて顔を上げて振り返って少女を見た。その顔ははっとするほど疲れきっており、ジョエルをその年齢よりも老けさせて見えた。
「ありがとう」とジョエルは言った。
 それから一旦目をつぶり、次に目を開けたとき、そこには今迄どおりの飄然とした顔があり、その変化は少女を戸惑わせた。ジョエルはしげしげと言った様子で少女の姿を眺めると言った。
「これからはあなたを頼りにすることになる。あなたの負担も重くなるだろうが。だが我々にはあなた方の能力が必要なのだ。あなたの師匠が必要だったのと同じように。
協力してくれるね」
 それは確認ですらなかった。少女にはその道しか辿るべき道はなく、気おされるようにうなずくと、ジョエルは慰めるようにわずかに微笑んで、少女の肩を叩いた。そして静かに扉を閉めて出て行った。彼には彼の戦いがあるのだ。突然少女はそう思った。ジョエルに対する理解が静かに胸の中に湧いた。師匠がいなくなった今、ジョエルが頼みとするのは自分しかいないことも。それはひどく孤独であり、同時に誇らしい事でもあった。傍らの師匠の亡骸はただ黙して語らず、自分の居場所を見つけたかのような少女を見守っているだけだった。




 それから2日後にジョエルの妻は逝った。ジョエルの妻と、少女の師匠。二人がほぼ同時に逝ったことは何かの示唆のように少女は感じた。ジョエルの家庭、『赤い盾』への助力。彼の力が大きく削がれたのは間違いない。他人が見れば考えすぎだと笑うできごとも、少女のような予知に携わるものから見れば大きな変化を感じずにはいられない。同時にもう一つ変化があったのは、それまで母親についていたか、そうでない時には寮生として寄宿舎に行っていたジョエルの息子が母親の死と同時にこの屋敷に戻ってきたことだった。父親の補佐、あるいは次代への準備。これも今、ジョエルの一族と『赤い盾』が変化していく一つの現れなのかもしれない。
 自分たちから見れば、当然のように思える初代ジョエルの過ちから来る彼ら一族の悔恨と責務の歴史も、代が変わり、時代が下がるに従ってそれぞれの意味が違ってくる。何代も祖先の罪の結果を、責務として負おうとする彼ら一族の覚悟に少女は密かに感嘆していた。そして自分たち一族の存在が、それを彼らに強いるのに一端を担っている事と、それによって自分たち一族もまた、このジョエルの一族の歴史に縛られてしまっているのを感じ取る。自分がその結び目だと少女は思った。この結び目に、ジョエルの息子は何を見るだろうか。あの青い目の色以外、父親に似ていない、ジョエルの息子。彼が間違いなく、次代のジョエルになると言うことを確信を持って少女は感じた。




 少女が改めてジョエル一族との繫がりを確かめたのと同じように、ジョエルの息子もまた自分の肩に将来かかってくるだろう責務を認識したのだろうか、度々父親と同席する少年の姿を少女は見かけた。子供らしくなくあまり笑いを浮かべない少年が、暗い目をして父親に連れられて、紳士然としている人種とは別種の、戦いに覚悟を決めた人々の間に混じっているのは不思議な光景のだった。まだ年端もいかない少年には強すぎる刺激。少女は眉をしかめたが、しかしジョエルにはまた別の考えがあるようだった。
 父の不在。母親の喪失。少年の心に大きく穿たれた穴を、こうして自分の一族が負っている宿命を見せることで埋めようとでもしているのだろうか。初めて少女はジョエルの一族を痛ましいと思った。自分たち予知を持つ一族の協力を得て、磐石の経済基盤。揺ぎ無い富を得ていると言うのに、彼らの人生は初代ジョエルの引き起こしたディーヴァ一族との因縁に捧げられなければならない。その子供さえも。
 その時、少年の目がじっと自分に注がれているのを少女は感じ取った。好奇心?いや。まるで値踏みしているような、とても子供の目とは思えない目。これがジョエルの血統の目。お師匠様。と少女は思った。一体何がこの一族に起こるのでしょうか。少女の一族からはもうすぐ改めて一人、彼女の元へと派遣される。風が流れていく。世の中が変わっていくように、自分の周囲が変わっていく。変化には良いも悪いも無く、ただ流れゆく事象があるだけ・・・。自分の一族のために。『赤い盾』のために。そして今は翼手と呼ばれているあの種族のために。ジョエルの一族と共に在ること。それが自分に課せられた宿命なのだ、と少女は思った。
 少年の目があまりに影を含んでいたからだろうか。少女はいつの間にかあの子供の姿を目で追うことが癖になっていた。そしてその父親であるジョエルとを。



 少女の故郷から一族の一人が派遣されたのは、その十日後だった。黒塗りの質素な馬車がやってきた時、ジョエルはこれが彼女たち一族が使っているものかと少々意外に思った。彼女たちは欧州の各上流階級に影響力を有していると聞いていたからである。一族が派遣したのは、かつての少女のように幼い娘ではなく、無口な年齢不詳の女だった。影のようにひっそりと、少女の元にやって来た女はやはり影のように、少女と青年の姿をした『赤い盾』の翼手の身の回りの世話を黙って行うようになった。
 しかし一族から新しい一人が派遣されたからと言って、その後の少女の生活に何の変化があるわけではなかった。定期的にジョエルからあるいは『赤い盾』のメンバーから翼手についての報告を聞き、それについて予知を行ない、助言をする。残りの時間は巡る世界の情勢を能力と連動させながら読み解いたり、知らない知識について勉強したり、あるいは思いついたことを調べたりする事に費やされる。
 ただ、盲目だった師匠が居たときとは異なって、知識を読み上げると言う作業だけがなくなった。その時少女は、師匠に読み上げていたことが、実は自分にとっても情報の確認と再判断に大きく役立っていたことを知り、そんなときには師匠の不在が一際寂しいものと感じられた。一族の女は付かず離れず少女に対応し、多くの場合少女を一人にしておいてくれた。親同然の師匠を亡くしたばかりの少女にとっては寂しい反面、その沈黙が暖かく感じる。
 少女はゆっくりと、孤独に慣れていった。ディーヴァが眠っているからだろうか、翼手に関する事柄はあまり多くの情報は寄せられなかった。あるいはきっと英国のどこかにいるであろう、アンシェル・ゴールドスミスの動向も。存在はしていても、掴まえ所の無い霞にようなもののような気がする。師匠が寿命を削がれる原因となったあのディーヴァの騎士は、ディーヴァそのものに近づきたいかのように、女の姿で現れた。師匠ならばそれをどう読み解いていたのか、少女は一度も問いかけなかったことを悔やんでいた。その代わりのように、少女はジョエルによってもたらされる様々な情報を貪欲に吸収する事に勤めた。
 図書室などで少女が一人でいる時、時折ジョエルの息子が迷子の小鹿のように入ってくることもあった。そんな時の彼は一瞬身構えて、それからばつの悪そうな顔をする。それから少女が席を替わろうとする前にそそくさと立ち去っていくのが常だった。
 だから、その時。そのまま立ち去るかと思っていた少年が自分に話しかけてきた時、少女は心のどこかで嬉しいと思ったのだ。
「あの――」
 声を出しにくそうに、少年は話しかけた。
「あなた方の一族は未来がわかるって本当?」
 その問いかけに少女は苦笑した。
「未来がわかる者なんていません。わかるのは未来の可能性だけ。その可能性の中で何が一際大きいのかを拾い出すのが私たちの能力なのです」
「じゃあ。僕がお父様の跡を継いでジョエルになるの?」
 その問いかけに、少女はゆっくりとうなずいた。
「そう。あなたがきっと。ジョエルの名を継ぐことになるのでしょう」

END



2009/04/01

 段々と難しい展開になってきていて気合を入れないとくじけそうです。。
 でも、今年の前半にはこの『翡翠』の章を終了させたいと思ってますので、ちょっと頑張ります。