あの短いアンシェル・ゴールドスミスとの邂逅の後、少女の師匠はずっと体調を崩し、起き上がれない日が続いていた。使い慣れた自分の部屋で眠ってばかりいる師匠を少女は不安そうな瞳で見つめる。そうするとその気配を感じ取った師匠は、少女に気がついて片手を上げて手探りして少女にそっと触れてくるのだった。
「お師匠様・・・」
 冷たい師匠の手を握り返しながら、少女が子供のように心細げにつぶやくと、その小さな声を聞いて女は身じろいで聞き返した。
「なにか困った事でもおきましたか?」
「いいえ。ただ不安なのです。とても」
 少女の師である女は少しの間天井の方に視線を止め、それから少女の方に向き直って言った。
「あなたの不安は私への不安。私の死への不安なのですね」
 その一瞬少女は押し黙った。気がついていない訳ではなかった。師匠には日毎に色濃く病魔の影と、そのさらに向こう側に座っている死の影が射し込み始めている。だが少女は認めたくなかった。
「そんな事! お師匠様、どうかしてます。そんな事ある訳ないじゃないですか」
 気がついていない振りをしたかった。
「どんな人間も死を避けることはできない。自分の身体の事は知っています。最初からそんなに長く生きていられない事を知っていました。でもここに連れてこられて、ジョエルのために働いて。私は思った以上に長く生きていられたと思っているのです」
 師匠の言葉は、自分自身についてさえも冷静で正しかった。そのことは師匠が自分の言葉どおり、それからさほど時間を経ずに、さらに体調を悪化させ、やがて危篤状態に陥ったことで図らずも証明された。




 その夜は一際寒さの厳しい夜だった。夕方に容態を急変させた師匠の枕元には、医者と少女のほかに数名の看護婦とジョエル。それから驚いた事にサヤに従うもの、ハジがやってきていた。一言も口をきかない彼は、本当に影のようだ、と少女は感じた。師匠の荒い息がそれによって翳りを帯びたような気がする。不吉な予感に眉をひそめながら、少女は師匠の手を握り締めた。手袋がはめられていない冷たい手は、そうするとほんの少し暖かくなり、師匠は見えない目で視線を漂わせながら少女の方へとわずかに身体をよじる。
 まだ早いのです。と少女は思った。まだ私は準備が整っていない。覚悟も、なにもかも。どうか、まだ私から師匠を失わせないで下さい。
 自分たちの一族から離れて育てられた少女には祈る神がおらず、ただ師匠だけが彼女をこの世界に結びつける糸だった。
 あの、シュヴァリエと遭ったのがいけなかったのだろうか。少女はサヤ相対する女王のシュヴァリエを思い起こした。でも師匠には私では対応できないことがわかっていた。混乱のうちに少女はどこにどのようにこの感情をぶつけてよいのかわからずに、荒い息をつく師匠と同じように次第に青ざめていった。あまりの苦痛に少女はジョエルも、この館も、『赤い盾』も、自分と師匠のこの運命に対する敵のように感じて呪わしげに目を閉じた。この世にいるのは師匠と自分と二人だけのような気がして、ただ師匠の様子にだけ心をかける。だが、それでも師匠の容態が悪くなる一方だと知ると、今度は少女はこんなにも不安な自分を一人遺して逝こうとしている師匠にすら怒りのようなものを感じずにはいられなくなった。少女の中には素直な従順さや、それと同時に持っている矜持の高さとともに、感じやすく傷つきやすい心も存在しており、それが本来の燃え立つような激しさと渾然となって少女の内面を脅かしている。
 そして少女は気がついた。ハジが、あの『サヤに従う者』、サヤのシュヴァリエが来たということは、師匠の容態がいよいよ危なくなったのだ、ということに。そしてそれに気がついたとたん少女の心には、空気のようにその場に立ちつくしている彼に対しても、一瞬激しい寛恕の念が沸きあがった。自分たちは彼らのためにここにいるというのに、ただ立ち尽くしているだけで何もできない彼に対して。彼らの遠い祖は、ほぼ万能の力を持っていたと伝えられているのに。自分たちがこの世に存在するのは、彼らの存在ゆえだというのに。だが少女にももちろんわかっているのだ。この感情は彼らに対する八つ当たりだと。むしろ、サヤたちを追い詰めてしまったのは、自分たち一族の失策も一因なのである。
 少女はすがりつくように師匠の手を握り返した。その時だった。突然荒々しく部屋の扉が開かれて、慌てた様子でジョエルの息子が飛び込んできた。
「お父様・・・・」
 ジョエルは身振りで静かにするように少年に指図すると穏やかな声でなんだね、と問いただした。ジョエルとは対照的に少年が取り乱した口調で何か言いかけると、ジョエルは僅かに眉を顰めると少年について一旦部屋を出た。そしてすぐに戻ってくると、それまで師匠を看ていた医者に何事かを話すと、医者の方も驚いたように目を見張り、急いで二人して部屋を出て行った。
 少女は師匠の容態の変化に心がついていけず、また彼らがなぜ出て行ったのかも理解できずに、呆然と扉を見つめた。
――何が起こったのだろうか――
 すると師匠の手が僅かに上がって、何か言いかけた。
「お師匠様」
 だが死に臨んでいる女はそれを言葉にすることができずに、その行為はかえって彼女の体力を奪っただけだった。
「ジョエルの奥方の容態が悪いのです」
 その声はあまりにも静かだったので、一瞬少女はそれがこの部屋の誰かから発せられたのだとは理解できなかった。自分自身を立て直す事もできずに、静かな声の持ち主を少女はぼんやりと見つめる。サヤのシュヴァリエ。彼がどうして。それから、彼らの聴覚が常人よりも鋭いことに思い至った。この奥まった部屋よりも、もっと表にあるジョエルの妻の部屋の周辺からあわただしい気配が立ち上っている。予知をする者の常として、少女にもそれらの気配を読む事ができた。こんな状況でも読む事ができる自分の能力にすら少女は嫌悪を感じた。表と奥と。まるでこのジョエルの屋敷全体が病に身を喰い尽されようとして呻いているようだ。濃厚な死の気配が漂っている。
 こんな張り詰めた夜を迎えることは、この館でも絶えてなかった。少女の師は冷え切っていた身体のどこからこんなに熱が出るのかと思うくらい、今度は高熱に苦しめられ、途絶えそうな息はさらに荒くなっていった。まるで生きているうちに全ての熱を全て放出しようとしているようだった。握りこんでいると手がじっとりと湿ってくる。それが師匠の最期の熱だと少女にはわかった。少しでも身体を楽にさせようと氷が用意されたが、女の身体にそれが当てられると普通よりも早い速度で溶けていく。だが少女が細かく砕いた氷を師匠に含ませると、熱にひび割れた唇が少し緩み、ほんのわずかの間だったが師匠の身体からこわばりが抜けた。すぐに溶ける氷を惜しんで、少女は師匠の傍らでひたすら氷を小さく砕く作業に没頭した。
 明けがた近くになって、ようやくジョエルが戻ってきた。医者は連れておらず、だが代わりのように自分の息子を。青い顔をして、目の下にくまを作っている少年を連れていた。その頃になると、師匠の熱がようやく下がり始め、青白い女は青白い息を細く続けて命を繋いでいるのだった。
「容態は?」
 ジョエルの問いかけに少女は黙って首を振った。予知の能力がある者もない者も、既に師匠が半分はこの世から解放される方向に向かっているのは感じ取れるのだろう。ジョエルはそれ以上何も聞かずに少女の傍らに座って、黙って女を見つめた。元々細かった線がさらにか細く、華奢になり、女は呼吸で命を数えている。ジョエルの息子は後ろの方で父親のその様子と、今死んでいこうとしている女とを暗い瞳で見つめていた。
「ジョエル?」
 とその時、女がジョエルの名前を呼んだ。久々に聞く女の澄んだ、よく通る声に少女もジョエルもはっとして息を呑んだ。女はつい先ほどの苦しみが嘘のように穏やかで静かな空気をまとい、少女の不安もジョエルの押し隠した苦しみも、すべて受取っているように微かに口元を緩めた。
「感謝しています」細い小さなよく通る声が響いた。
「こんな身体でも一族の務めの一端を担えた事を、私は感謝します」
 女はほとんど息をしていないようだった。
「私が愛したのはわずかでしたが、私が本当に愛した者達の傍らで過ごす事ができて、幸せでした」
 そう言って女は微笑を浮かべた。
「私の愛した、私の母。サヤ。そして・・・」女の手が宙を探し、少女の手を握りこむ。
「ありがとう。良い人生でした。多分一族の他の者たちが思っている以上に、私の人生は充実していました。私は私の思うとおりに生きてきたのです。だから――」
 握りこまれた手の力が一瞬だけ強まった。
「あなたも、あなたの思うように。自分の人生を生きなさい。私のことを考えず、私の人生から心を解放して」
「お師匠様・・・・」
「これを・・・」
 女はそう言って枕の下を引っかくようにした。少女が介添えるようにその手を導くと、そこからはいつも師匠が身に付けていた琥珀色の大きな石が現れた。
「私の、母の遺したものです。できるなら、いつか、あなたの手で。私達の故郷へ・・・・戻してください」
 それだけ言い終わると女の身体からはすべての力が抜け落ちたかのようにぐったりとなった。
「お師匠様! お師匠様!」
「待ってください」
 その時、少女の傍らにいたジョエルが立ち上がって、女に向かって呼びかけた。
「まだ逝ってはいけません。まだ私は何もあなたに教えてもらっていない」
 この期に及んでまだ師匠に何かを要求しているようなジョエルの言い方に少女は眉を顰めたが、同時にこの何一つ不自由の無い富豪の目の中に、何か必死な想いを見つけてそれを意外に思った。
「ジョエル」
 だが女はジョエルに向かって微笑んだ。それからジョエルの声のした方に顔を向けると、ゆっくりと閉じていた瞼を開いた。瞼が上がりきるとその下の琥珀色の虹彩が部屋の光に煌めく。色彩の薄い目にはほとんどのものが映らないというのに、光だけは感じ取れるその瞳は、まるで見えている人のように綺麗にそろっていた。
 ジョエルが息を呑む気配がする。そうするとそれを合図にしたかのように、師匠の目からはすっと焦点が消え、同時に瞳孔が大きくなったかと思うと静かにその瞼が下りてきた。まるで眠りに就いたようだ、と少女は思った。これが別れだなんて信じない。そのくせ少女の中ではもうどこにも師匠がいないということ。これからはこのジョエルの館に一人きりでいなければならない事をどうしようもない運命として受け入れている自分もいるのだ。




 こうして少女は師匠を失った。そしてそれに遅れる事2日で、ジョエルもその妻を失うことになり、冬のジョエルの館は喪失の帳が色濃く立ち込める場所となった。




END



2008/11/08

 琥珀ちゃん2世の退場。これまでにオリキャラ一族の二人を最後まで書けて一応満足しております。これでやっと一族の半分を描けたことになる。そして『翡翠』の章もようやく半分が終了。こんな感じで少しずつ描けていければいいなあ・・・と思ってます。
 設定しているのにあえてきちんと描いていないところとか、サヤとかハジとかを背景扱いにしてしまって申し訳なく思っているとか、色々と言い訳もあるのですが。
 琥珀の目を持つ女については、本当は3代目ジョエルとの複雑な感情(とはいうものの、女→3代目ジョエルではなくて、ジョエル→女という感じなのですが)を描ければそれで成功だったはずなのですが。今ひとつ。割愛してしまいたいという私の悪い癖が・・。。。すみません。