その後の事を少女は良く憶えていない。ジョエルが苦笑いのような笑みを浮かべて、さりげなくアンシェルの注意を外の馬車に向けさせ、アンシェルの細君に対しては、あまりあのような者をからかわれてはなりません。と冗談めかしてその手を取り、外の馬車へと誘い、完璧な主家の態度で二人を送り出した後、急いでジョエルは邸内に引き返した。
「お師匠様!」
 少女の悲鳴が聞こえた。玄関近くの先ほどまで彼女たちが立っていたそのままの所で、少女の師匠は意識を失って倒れていた。青白い顔。そして呼吸が荒い。
「お師匠様」
「・・・あなたは・・・大丈夫ですね」
 少女の声にわずかに意識を取り戻して師匠は微笑んだ。
「それ以上しゃべってはいけない」
 すぐにジョエルはきびきびと指示を出した。ぐったりとした白い身体が寝室に運ばれ、医者が呼ばれた。消毒薬の匂い。そして陰鬱な医者の言葉。
「全体的に身体が弱っていますね。消耗が激しい。一体何をなさっていたのか」
 医者はその衰弱を昨日今日のものではなく、長年の蓄積によるものだといったが、同時に体質によるものかもしれないと語った。
「こんな風に色素の薄い方は往々にして身体が弱い事がありますから」
 けれども少女にはわかっていた。これはあの、アンシェル・ゴールドスミスとの対面が原因なのだ。
「ではアンシェル・ゴールドスミスと名乗った人物は――」
 ジョエルの問い掛けに少女は頷きかけたが、同時に違和感を感じる。わからない。あの時近くにまで寄ってみて、あのアンシェルには何にも感じられなかった。普通の人間――。いいえ。それも違う。なんだろうか。この違和感は・・・・。あの時の師匠の言葉は。
――触れてはなりません――
 あれは誰に向けられた言葉だったか。
「アンシェルではありません」
 ジョエルと少女の目の前で師匠が身体を起こそうとしていた。
「いけません」
 ジョエルが思わず枯れ木のような女の身体を支えて寝かしつけようとする。その腕を師匠は拒否した。
「どうぞ、このままで。ジョエル。私の身体を起こしてくださいますか」
「だが」
「私は大丈夫です」
 師の青白い顔に浮かんだ微笑に、少女は安堵と心配の両方で、一瞬泣き出しそうになった。師匠が少女に向かって手を差しのばす。手袋のはめられていないそのむき出しの手。
「こちらへ」
 その手を握り締めながら、なんて冷たい手をしているのだろうか、と少女は思った。まるでシュヴァリエの手のようだ。少女の手をしっかりとつかまりながら、師匠は見えない目をジョエルの方に向けた。
「あのアンシェルは翼手ではありません」
「シュヴァリエではない、と?」
「ええ。けれどもディーヴァの第一騎士である人物。彼は確かにあの場にいました」
 師匠は少女の名前を呼んだ。少女の頭の中に徐々に理解が忍び込んでくる。
「まさか・・・」
「そうです。ディーヴァの第一騎士はアンシェルの妻に擬態しているのですよ」
「だって・・・・」
「相手は翼手。人間の理解の範疇を超えた存在です。それに・・・相手からじかに血液を摂りこむことは、彼らにより深く知らしめる。相手のすべてを。記憶も、性格も、そして姿も――
 だからこそ、人間達にとって吸血という行為は、本能的になお一層忌まわしいものとして認識されてきたのです」




 要人の妻とはよく考えたものだ、とジョエルはひとりごちた。直接は表舞台に立たず、だが影響力は大きい。当代のアンシェルはどこまで知っているのか。いや、知らないのかもしれない・・・。そして知らずして妻に操られ、適当なところで成り代わられる。――ある得る事だ、と彼は思った。これからはあの二人の動向に気をつけなくてはならない。
 一度目をつければ、少女達の一族はその能力をあの二人に振り分ける事ができる。あの一族の「予測」と「情報収集」の能力は、精度の高さにおいてもその緻密さにおいても類を見なかった。なぜ自分達の下にあの予知の力を持つ一族がやってきたのかはわからない。彼女たちは翼手のこと以外、自分たちの事は全くと言っていいほど話さなかった。ただ、二人の翼手の女王のうちサヤを選んでやってきたという。
 その選択の根拠すらジョエルは知らない。不思議な事に問いかけようという気持ちにもならなかった。問いかけてしまえばあの翼手の二人。サヤと「彼女に従うもの」と自分たち一族の関係が変化してしまうかもしれない。そして少女たちの一族との関係もそれによって変化するかもしれない。それは避けたかった。ジョエルにとって翼手のこと以外にも、少女の一族の力は大いに活用すべき要素だった。それは幼い時、まだジョエルの名を継ぐ前に出会った頃から変わっていない。いや、あの時はもっと別の感情もあったのかもしれない。もっと純粋で輝かしい感情が。そう思いながらもそのあまりに遠い感触にジョエルは笑った。感傷一体なんの役に立つと言うのか。ジョエルにとってはすべてが漂然と目の前を流れゆく事象に過ぎない。自らの感傷を薄く笑った後、ジョエルは次の手を打つために立ち去った。




 少女と師匠がパリのジョエルの屋敷に戻ったのは、師匠の容態が安定してからだった。医者からは静養を言い渡されていたが、師匠は頑なに自分の居場所に戻る事を譲らなかったし、最初は彼女の身体を案じてこのまま療養させようとしていたジョエルが師匠の言葉に折れたのも、ここに来てシュヴァリエ=アンシェルの所在が明らかになった事と無関係ではなかった。そんな中、少女は出会ったのだ。まだ幼いあの少年に。
 少女と師匠はパリの邸宅の奥まった処に部屋をもらっており、表に出てくる事は少なかった。それはたまたま師匠を診察した医者を送って少女が表の方へ向かっていた時だった。息せき切って走ってきた少年と出会いがしらにぶつかりそうになったのだ。それがジョエルの息子だった。
 その少年を滅多に見た事がなかったのは、彼の母親が病弱だったという理由があった。組織の長としての立場からパリを離れる事がなかったジョエルに代わって、母親の療養に付きそっていると聞いたことがある。まだ10になるかならずの頃だろうか。幼さの残る顔立ちはジョエルに似ているが、線の細さは恐らく母親似なのだろう。ジョエルの瞳に似た青い目。だがその瞳は少女の姿を見とめると、はっとしてから不機嫌そうに避けられた。
 少女とともにいた医者が、彼の名前を呼ぶ前から、少女にはそれがジョエルの息子である事がわかっていた。少年の母親がパリに戻るのに従って、久々に少年はすでに他人の家同様の自宅に戻ったのだ。
 少年は母親が再び倒れたため、邸内にいるという医者を探しに走ってきたのだった。その目の中にあった暗い表情は何のゆえだったのだろうか。




「どうかしましたか?」
 師匠の声に我に返る。少女はずっとあの少年のことを考えていた自分に気が付いて赤面した。
「ジョエルの息子さんに逢いました」
「そう・・・でしたか?あなたの印象は?」
「とても暗い目をした子でした。ジョエルの目にも良く似てました」
 あのくらいの年頃の少年の扱いは難しいのかもしれない。少女はそう思ってため息をついた。
「他には?」
「わかりません」
 師匠は首を傾げると、手探りで少女の手に触れた。そのとたん、様々な心象が少女の脳裏に浮かび上がった。暗い感情。おざなりにされた者達の哀しみ。これは誰の感情なのだろうか。家への誇り。翼を拘束されている鳥のように。寂しい。何かを求めている心。こんな風に心から求めているものが満たされない時、人間はそれを一生もとめ続けるか、いらないものとして忘れるか、あるいは憎むようになるか。だがそのどれもとることができない場合、それは歪んだ影としてその者を縛り続ける。
「お師匠様」
「能力を導くと言うのはこういう本来こんな風にするものです」
「今のは。あの子のものなのですか?」
 師匠はじっと少女の手を握り締めた素肌を確かめながら、慎重に口を開いた。
「いいえ。まだ未分化の少年のものではないでしょう。彼の家族の。また彼の未来の――」
「お師匠様。あの子がジョエルになるのでしょうか?」
「たぶん。今のジョエルには彼しか男子が生まれません」
 あの子が。あんな暗い目をした子供が。あの少年は何不自由ない富豪の家に生まれたにしては陰鬱で内省的だった。その父親が社交的で、どこか人を食ったように飄然としているのと対照的に。
 ジョエル。大財閥ゴルトシュミット家の当主。『赤い盾』の長官。サヤとハジの保護者。そして自分たち一族の協力先。けれども少女は未来はまだ閉ざされたまま、不確実である事を悟らずにはいられなかった。




END



2008/10/19

 進んでいるのかいないのかわからない展開に。そしてしわ寄せがこれ以降に。。。ダメダメです。