あの日以来、少女はゴルトシュミットの運営だけではなく、翼手の探索とシュヴァリエたちの行方把握にも携わるようになった。時折、人々の手に負えない事態が発生する場合、サヤの、あの翼手の女王の唯一の眷属であるハジが派遣される事もあった。それら全ては主に師匠と少女、二人の判断に任されている。少しずつ走査における少女の比重は増えてきて、反対師匠はほぼ全体にわたって少女の補佐にまわってきた。同時に少女が心配したのは、師匠の体力が衰え始めてきたことだった。
 彼女の師匠はいつも背筋を伸ばし、かと言って厳めしさはなく、物静かに穏やかな声で話す。だがそうやってまっすぐに座っている状態でも以前の硬質な動かしがたさが薄れ、代わりに肩の辺りの線が細くなっていくような気がして、少女は時折不安にかられた。
「お師匠様。どこかお加減でもお悪いのですか?」
「どうしてそのようなことを?」
 師匠が振り返ると、その胸元に飾られている琥珀のような大きな石に光が反射した。
「私のことは考えなくても良いのですよ。それよりも自分のことを考えなさい。あなたはまだ若い。いいえ、年齢のことでも経験のことでもありません。予知と現実の均衡を取るのは私以外の一族の補佐が無いあなたにとって、思っている以上の負担になっていることでしょう。あらゆる予兆と自分の感情。そのどちらにも流されてはなりません」
 彼女は自分にも他人にも厳しかった。けれども少女はその声色の中に、まぎれもない優しさと慈しみを感じ取り、それが師匠への大きな信頼の礎になっていた。
「もうすぐジョエルが来ますね」
 少女が顔を上げて告げると、師匠の顔に微かな笑みが宿る。こうして少女の成長を見ることは師である女にとって喜びでもある。果たしてほどなく部屋の扉がたたかれ、ジョエルの到来が告げられた。
「お加減はいかがかな?」
 ここを訪なうとき、ジョエルはいつもにこやかだった。交渉相手あるいは敵に対するときに、その頭の中には次々に打つ手が浮かんでいるのだとは思えないほどに。少し背の高い身体を傾けるようにして椅子に腰を下してこちらが話すのを待ち構える。しかし今回は異なった。
「アンシェルの名を持つ者が現れました」
 ジョエルが普段よりもやや固い声で言った時、少女は師の手が一瞬だけ強く握り締められるのを見た。
「いよいよなのですね」
「怖いのですか」
 あなたが? と問いかけるジョエルに師匠は微笑んだ。
「この齢になると怖いと思うものも段々少なくなってくるものです。――彼はここへやってくるのですか」
「いいえ。ここではあまりに・・・」
「サヤに近すぎる」
 女はジョエルの後を引き継いで言った。
「アンシェルがディーヴァのシュヴァリエであると知った今は恐ろしくて、こんな所では彼をとても迎えられない。たとえサヤが我々の手元にいると知らなかったとしても。あるいは貴女が以前おっしゃったように、たとえディーヴァの意思はサヤを滅することではないのかもしれない。
 しかし、サヤがディーヴァに対するものであり、ディーヴァにとっての危険であるなら、彼が眠りについているサヤを廃しようとするのは想像に難くない」
「ではサヤはここに。守りはハジに」
「そして我々は裸のまま彼の首実験に赴く。貴女の予感では危険は大きいとでも出ているのですか?」
「いいえ。危険は感じません。空手であることが却って安全という事もありえます」
「ではそのように」ジョエルはどこかのピクニックにでも行くような気軽な感じでそう言った。
「日程は一週間後。場所はパリ郊外の私の別荘で。馬車を用意させましょう。行くのは貴女方と私の3人」
 一旦決めるとジョエルの行動は素早い。屋敷内の警備と予定されている別荘の警備に「組織」の人間を充て、準備を整える。
「これで私も初めてアンシェル・ゴールドスミスに逢うかもしれないという訳だ」
 何故か楽しそうにジョエルは言った。以前アンシェル・ゴールドスミスに逢ったのは先代のジョエルだったと言う。歴代のジョエル達は皆このようにしてディーヴァのシュヴァリエに逢うことになるのだろうか。
 しかし少女はそう長いことジョエルに対して心を留めておく事はできなかった。このパリにあるジョエルの屋敷に来て以来、ほとんどこの屋敷の中で過ごすことを強いられてきた少女にとって、今回の郊外への遠出は初めての外出とも言えたのだ。それから何日かして、ジョエルから彼女たちの衣装の手配がなされた時、少女の高揚感はさらに高まった。少女も師匠も常に修道院のお仕着せのような白い衣を纏っていたが、ジョエルはそれを新調させたのだ。師匠は黙ってそれを受け取っただけだったが、少女は幾許かの後ろめたさを感じながらも、特別な時の真新しい衣服の柔らかな風合いを心密かに楽しんだ。師匠がその傍らで柔らかく微笑んでいる。
 しかし、アンシェル・ゴールドスミスと逢うと決まった日から、少女とは反対に師匠は次第に緊張を高めていった。何事も穏やかに受け止める師匠のその様子に、少女も不安を募らせた。
「お師匠様」
「大丈夫」青白い頬に笑みを浮かべて師は優しく言った。
「あなたが心配する事はないのですよ」
 その時の師の様子を長い間少女は忘れる事ができなかった。




 彼らが別荘に到着した時、既に邸内は客人を迎える準備が完全に整えられ、ジョエルはその様子を一つ一つ確認しながら最終的に細かい部分を直させたり省いたりして整えていった。郊外とは言え人目につくこの場所でディーヴァの長兄が何かを起こすとは考えられないが、超常の力を持つ翼手がどんな手を出してくるかは予測がつかない。ジョエルがいざと言う時のための退路と、時間稼ぎの武力の確認に特に力を入れていることからもそれがわかった。
「落ち着いて」
 師匠に声をかけられて初めて少女は自分が震えている事に気がついた。時間が経つにしたがって、漠然とした不安と黒雲のような翳りが胸の中を占める割合が大きくなっていく。
 そのとき俄かに表が騒がしくなった。どうやら目当ての客人が到着したようだと少女は気がつき、師匠を振り返るとその気配を感じて師匠は励ますようにうなづいた。こうして一族の者が同時に同じ対象に向かうとき、一族特有の予知の能力は互いの能力を補い合ってより強くなる。
 白い衣を纏った白い髪の女達は白い影のようにジョエルの後ろを歩いた。ジョエル自身は大して緊張もしていない様子で二人に近くの部屋で待つように促して部屋に入ると、自分は悠然と椅子に座って待った。秋風を含んで外は冷え込んでいる。暖炉には焔が燃えていた。
 やがて支度のできた客人が、主人を訪ねて部屋にやってくる。ほう、と珍しい事にジョエルが声を上げた。アンシェル・ゴールドスミスは妻を連れてきていたのである。アンシェルがシュヴァリエであるという前提でこの会見を想定したジョエルは意外な展開を心の中で面白がった。同時に社交の礼儀を考えてやれやれ、と心中で肩をすくめる。
「これはこれは。遠い所を御足労いただいて」
「いいえ。ゴルトシュミットは我らの遠い本家にも当たるお家柄。お呼びいただいて光栄です」
 いつかどこかで聞いたような台詞が二人の間から流れ出す。アンシェル・ゴールドスミスは中年に差し掛かったばかりの紳士然とした人間で、その瞳はジョエルのそれに似て青かった。
「奥様も遠い所を――」
「いいえ。これも是非お目にかかりたいと申しまして。誠に勝手ながら同伴させていただきました」
「いえ。当然のことです。しばらくパリに滞在に?」
「大きな商談がありましてね。その動向がほぼわかりましたらロンドンに帰る予定です」
 男達の会話は当たり障り無く続けられ、やがて食事が供される時間になると促されてそちらに移動された。
「このようなときに家内が居れば細かい所まで行き届くのですが、あいにくと身体を壊しておりまして」
 そうは言いながらもジョエルのもてなしは十分趣味の良いものだった。すっかりくつろいだ様子のアンシェル・ゴールドスミスはやや控えめに
「それで、ご容態は」
と訊いてきた。その様子は気遣わしげで、親しみがこもっており、彼の人格的な素朴さをも表わしていて、一言で言うとひどく人間らしかった。
「大したことはありませんが、あまり身体の丈夫な方ではありませんからね。少し療養させているところです」
 相手はそうですか――とため息をつきながら言って、傍らの細君の姿に目を細めた。
「私などはこれが居てくれる事がどんなに心強い事か。強気な事業展開などと陰で言われているからこそ、あらゆる意味で妻の存在が大きいものです」
 まあ、とアンシェル・ゴールドスミスの妻は長年付き合った夫の言葉に照れたように眉を顰めながらも微笑んでだ。食事の前までにつけていた外出用の帽子は取り払われ、今は夫に似た青い瞳がきらめいてそちらに向けられている。仲睦まじさを見せ付けられるようだった。
「どうぞくれぐれも奥様をお大事に」
 そう言ってくるアンシェルの姿からは翼手であることが想像できない。しかし。ジョエルにはどうしても確認しなければならない事象があった。




 それは彼らが帰る間際だった。アンシェルの細君は到着した時同様古典的なヴェールのついた帽子を被り、夫に腕を取られて馬車へ向かおうとしていた。そのとき、真っ白衣を身に纏った不思議な雰囲気の女性二人がこちらを見つめているのに気がついた。彼女がわずかに身体をひねると、アンシェルもその二人に気がつく。まるで双子のように同じような白い衣。だが一人は若く、一人はその母親かと思うほどの年齢で、若い方の女は翠の瞳をしており、もう一人は瞼を伏せていた。
「アンシェル・ゴールドスミス様」
 若い方の一人が美しい発音でアンシェルの名を呼び、膝を折って礼を正すと彼に向かってまっすぐに進んできた。
「こちらの客分になっている者でございます。本日はゴールドスミス家の方にお目にかかれて大変嬉しゅうございます」
 物怖じしない少女の態度にアンシェルの目が細められた。
「お近づきのしるしに、ひとつ御忠告いたしましょう。大陸からの暗い風はお国にも黒い影をおとす事でしょう。お国は扉を閉め、そうすることによって自分を守ろうとされるでしょう」
「ほう」とアンシェルは言った。
「それは、私から何を期待しての事かね?」
 言いながら、その目はジョエルを見据えている。余興にしては奇妙だった。
「単なる忠告です。私たちは占いを生業にするものですから。お信じになる、ならないは、ご自由に」
「占い――」反応したのはアンシェルの妻だった。面白がっているような、笑っているような。
「まあ、あなたのようなお嬢さんが」
 言いながら彼女はせっかくはめた手袋を取りさり、素手で少女の頬に触れようとする。
「触れてはなりません」
 そのとき厳しい声が飛んだ。その場に居た全員が声の持ち主を振り返る。全身を緊張にこわばらせ、震えながら見えない目でアンシェルの妻に対峙しているその女。それは少女の師匠だった。




END



2008/10/12

 明らかに需要が少ないここのシリーズ。ジョエル中心。オリキャラ目線。そしてハジとサヤはあくまで背景・・・。のつもりなんですが。。。。実は私の中でどこかがこの世界観でもハジとサヤを動かしていたい~~と叫んでいる。
 その自分をぐっと抑えて。取りあえず書ける部分を頑張る事を目的に。