彼女の一族の中でも、この師匠は特別な立場にいた。本来は、今の長さえも凌駕する能力を身につけていながら、いや、身につけていたからこそ、一族を離れてこのジョエルの館に派遣されて。この師匠が先の長の禁じられた婚姻から生じた者だという噂も、一族の中には流れていた。達観したような超然とした雰囲気は出会ったときから身に纏っていたものだった。
「私はあなたの事も心配です」
「お師匠様?」
「あなたはここにいるにはまっすぐすぎる。望む望まぬにかかわらず、運命は向こう側からやってくるもの。その運命があなたにとって、幸いでありますように。そして万が一それが不幸を運んできたとしても、誰も恨んではなりませんよ。自分自身を含めて」
 師の言葉を聴きながら、少女はきっと自分は師匠のようには生きられない、と思った。師匠は自分の言葉どおり、自分自身を律する事で生きる術としてきた。だがそうするには少女の中には不安と恐れが今にも噴き出しそうに潜んでいる。
「お師匠様。それはジョエルのことですか?」
「ジョエルの?」
 意外な事を訊かれたように少女の師は細い眉を上げた。
「時々私はジョエルと言う人がわからなくなります。お師匠様には優しいし、私にも丁寧。でも怖いんです。あの方は飄然としていて、何もかもあの方にとっては一種のゲームに過ぎないような気もして。事業の維持も、赤い盾の運営も、ご家族にさえも、まるで一つの役割を演じているような気がするのです。
 それに・・・あの二人に。眠っているサヤはともかくハジに対してまるでいない人のように振舞っているし、武器だと言い切って憚らない。あの二人は生きているのに。人間じゃないかもしれないけれど、人間と同じように感じているのに。それにあのハジだって・・・。どうして自分がいてもいなくてもどうでもいい人のように振舞えるのか、私にはわからない」
「それだけ、翼手であるということは重荷なのかもしれません。彼らは私たちとは違う。それに、彼の在り方の差もあるかもしれませんね。騎士は己の女王のためだけに存在すると言っても過言ではない。彼にとってはサヤ以外のものは瑣末な事に過ぎません」
 そうだろか、と少女は考える。少女は時折彼が夜の街に一人で出かけていくのを知っていた。翼手である彼が獲物を狩りに行くのではなく、ただ出かけていくのだ。そして彼の靴底だけが磨り減っていく。一晩中歩いているのだろうか。それはひどく孤独なことのように少女には思えた。それからふと、ジョエルについても同様に感じている自分に気がついた。それもジョエルの場合、周りに人を寄せ付けない訳ではない。むしろ社交にしろ、『赤い盾』の活動にしろ、多くの者たちに取り巻かれているのが常だった。だが少女から見ると、ジョエルは決して自分の内側に人を入り込ませるようなことはしなかった。まるで外側の扉は開いているのに、内側の扉は誰も入れないように。だから怖いのかもしれない。
 師匠にそう言うと、彼女はただ薄く笑っただけだった。




 少女から見てもジョエルは実に精力的に仕事をこなしていた。時代の波は刻々と世界全体を覆い始め、その中で生き残りをかけて多くのものがあがいている今、ジョエルは一族の存在基盤――主にそれは経済的なものであったが――を守りつつ、一方で『赤い盾』の存続も視野に入れて行動を起こしていた。ディーヴァと呼ばれる翼手の女王が眠っている現在、『赤い盾』の活動も限られ、来るべき日の準備と情報収集、そして存続そのものに力が使われていた。その多くに自分たちの力が必要とされている。少女はその事に大きな誇りと責任を感じていた。それに。この数年、少女は自分の能力が次第に強くなっていくのを自覚していたのである。
「また能力が伸びましたね」
 師匠はめったに褒めることは無かったが、賞賛の言葉を口にするときは、自分の子供に対するように誇らしく、またある種の安堵を持って語られた。そうすると少女の中にも自信と誇りとが打ち立てられていくのであった。
「これで私も安心できます」
 まだまだ師匠の能力は少女を凌駕するものであったが、このところ彼女は少女を補佐する側にまわることも多く、翼手に関することは以外はほんど一任されていると言ってもよかった。
「ではあなたはもうこちら側の予見はされないのですか」
 それまで黙って彼女たちを見ていたジョエルが、珍しく問いかけた。ジョエルが言っているのは、一族の運営に関することだった。盲目の女はその声の方向に顔を向けた。
「私がいなくても十分この子は予知の力を発揮するでしょう。子供の生育は早く、歳月もまた留まらない」
 私は補佐する側に回るのが良いのです。意外な事にジョエルは残念そうな顔をした。ジョエルがそんな表情をするところを少女は初めて見た。
「ジョエル。私は未だ師の足元にも及ばない者ですが、それでもあなた方を支援するものとして一族からこちらへと使わされた者です。ご心配していただくには及びません」
 一族としての誇りとそして師匠からの信頼が少女に力を与えた。そしてその中に、今までの修練で抑えられてはいるものの、生来の負けん気が見え隠れしている。それら全てをジョエルは一瞬で把握した。
「ではもう準備ができていると考えてよろしいのでは?」
 翼手への対応も。ジョエルの問いかけは少女の師に対してなされた。
「それは・・・」
 師匠が常に無く動揺していることに少女は軽い驚きを覚えた。今日は思わぬ人が思わぬ表情をするものだ。こんな師匠も見たことがない。
「あなたともあろう方が」ジョエルは軽い揶揄を交えて言った。
「何を躊躇っておられる。怖いのですか?」
「ジョエル。私にはあなたの圧力は通じません。わかっていらっしゃるでしょうに・・・」
 師匠の気配が自分を探っている。少女は背筋をまっすぐに伸ばした。
「この子は私の最高傑作。私が私の母にとってそうだったように。でもまだ不安定で脆い。ジョエル。それが未来にどのような影を落とすか、私にもわからないのです。
 それでも私たちは進まなくてはならないのですね」
「それが私たちが選択した道なのですよ」
「わかっています」
 少女にはやってくる運命の足音が聞こえるような気がした。そのために、一族の中からこの館に遣わされ、予知の力を磨いてきた。ディーヴァと呼ばれる翼手の一族との因縁を解消するために。いよいよ彼らの動向を探るべく実際の活動を始めるのだ。これは何代か前のジョエル・ゴルトシュミットから端を発した因縁であり、それを防ぐ事のできなかった自分たち一族の責任でもある。そして、ジョエルの一族は知らないが、自分たち一族の血の中に刻印のように刻まれている運命でもあった。




「ジョエル。ゴールドスミスは着々と足場を固めています」
「ええ。本家であるゴルトシュミットよりも勢力を増し、今や英国財界はおろか新興の経済人として各国財界でも無視できない存在となってます。もっとも彼らが勢力を拡大するとともに、その本家であるゴルトシュミットも影響力拡大するように布石は打ってありますが」
「しかしゴルトシュミットがゴールドスミスより前面に出てはいけません」
「ご心配かな?だが私はこれでもそういう加減の仕方は上手い方なのですよ。影響力と言っても様々なものがある。人を動かすための影響力もあれば、ただ存在するだけの影響力もあります。ゴルトシュミットの名は沈黙とともにある」
「そしてゴールドスミスはアンシェルの名とともに」
「アンシェル・ゴールドスミス。だが今、ゴールドスミスの当主はアンシェルの名を持たぬ者です」
「どのような形になるかわかりません。しかしディーヴァの目覚めの時には必ずアンシェル・ゴールドスミスが当主になっているでしょう。そして。もうすぐアンシェルの名を継ぐ者が現れる」
「あなたがそれを感じとるということは・・・それでは」
「ええ。それまで息を殺して。恐らく別の者に擬態して待っているのでしょう。本来の『彼』の姿に戻れるまでに次の者が成長するのを」
「そして再び現れるのか、『彼』が」
「多分。ディーヴァの第一騎士。アンシェル・ゴールドスミス。彼自身が彼として現れる」
「私たちは確かめなくてはなりません」ジョエルは言った。
「手配しておきましょう。もしもアンシェルの名を持つ者が現れたとき、あなた方が『彼』に会えるように。そして見極めてください。あなた方しか見極められない。『彼』があのアンシェルなのかどうかを」
「ええ。それが私たちの役割なのですから」
 その運命に似た言葉を、少女はかすかに身を震わせて聞いていた。




END



2008/10/03

 いつの間にやら1ヶ月が過ぎ。まずい!と思って慌てて上げました。需要が少ないとわかっているだけに。また、ハジ小夜修行中だけに。こちらを放っておいてしまった。すみません。遅筆なだけに本当は頑張って書かなくてはならないのですが・・・・。
 多分、10話くらいで終了する・・・と思います。