フランス内部も混乱を極めていたが、ドイツの国内はさらにその上をいっていた。敵の本拠地に対峙する女王サヤを送り込むべく、情報調整と連絡網とを整え、サヤのアジトとなる場所を準備してきた女がジョエルの元に帰ってきたときには既に三ヶ月以上が過ぎ去っており、彼女はフランスに戻ってはじめてサヤが繭を破り目覚めたばかりであることを知らされた。対なる女王のディーヴァは一ヶ月以上前に目覚め、ドイツの混沌の中にその座を見定めている。
 白い女はすべてに対して言い知れぬ不安と焦りを感じていた。ディーヴァの目覚めとともにドイツでは翼手の数が跳ね上がっていた。だがまだ目覚めから一と月。サヤもそうだが、目覚めたばかりの女王はまだ本格的な活動をしてはいないはずである。ディーヴァへの体勢を整えるのは今このタイミングをおいて他にない。
「一刻も早くベルリンに出発する準備をしなくては。ディーヴァは既に目覚めています。サヤを――」
「なぜそんなに焦っておいでなのです?」
 ジョエルの声の暗さに女は驚いて彼の顔を見つめた。ほんの三ヶ月前に別れたばかりだというのに、なぜだかジョエルの面差しには陰鬱な悦びに満ちた暗い影が見え隠れしている。それが今までになく彼を冷たく見せていた。
「ですがジョエル。ディーヴァはすでにナチスの中心部で活動を始めているのですよ。彼女が混沌の渦中、ヒットラーに近づくのは時間の問題でしょう」
「だがまだです。まだサヤが安定していない」
「安定?」と女は眉を顰めた。嫌な予感は益々強くなっていく。
「ジョエル?」
 深くなっていくジョエルの暗い微笑が益々女を焦らせた。
「私たちの成果をご覧になれば、あなたも驚かれることだろうね」
「どういうことです?」突き上げるような不安が喉元を圧迫している。
「サヤはどこです。まさか・・・・サヤに何かしたのですか?」
「私は武器としてのサヤをできるだけ効率よく研ぎ澄まされた状態で使用したいと申し上げたと思う。そのための手段を持っているならば躊躇いなく使う」
 ジョエルは微笑みながら女に語った。
「サヤはモノではありません」
「だが人間ではない。なぜあなたがそんな風に動揺するのか、私はそちらの方がわからない。サヤはたった一つ、ディーヴァに対等に対向できる私たちの武器。
 さあ。逢いに行かれるがいい。サヤは今地下室にいる」
 今。女は本能のような精神の奥深い所で、何か決定的なことが行われてしまったことを感じていた。自分がサヤを置いてベルリンに旅立ったのは間違っていたのではないか。焦りが不安に変換され、女は予感に震えていた。
(サヤ・・・・)
 師匠が最後まで気にかけていたサヤ。自分がそのためにここに派遣されてきたはずの、その対象としてのサヤ。純粋なる翼手の女王。その待遇と尊厳と、そしてディーヴァが人間と相対する限り、彼女がその防波堤として立っていくことを助けるために自分はここにいるのだと。そのように教え込まれ、自分でもそのように歩いてきた。翼手と人間の間を取り持ち、彼らが人知れずこの世に紛れて生きていけるように。翼手の生態の知識そのものも手土産にして――。それが女のするべき役割だった。それなのにその目覚めの時に、何故自分はここにいなかったのか。何故今この時に自分の予知の能力はこんなにも衰えてしまったのか。女は迫り来る最悪の予感に脅かされながらサヤの元へ向かった。
 サヤが安置されていた古い寺院の地下室は、岩場を掘りぬいて作られている。翼手は夜目が利く。人間の女である彼女は燭台に蝋燭を灯して、一人で部屋に入っていった。だれも目覚めたばかりのサヤのところに入ろうという者はいなかったからである。
 部屋の中からは繭の名残も綺麗に取り除かれ、整頓されている。机にある新しい器から微かに血の匂いがしている所を見ると、既に定期的な血液の補給も開始されたようだと女は判断し、正しい対応がなされていることに安堵した。ジョエルを信じたいという心と、ジョエルの目の中の暗い影への予感との板挟みになって女の心を苛まれた。奥の方に人の気配がする。
「サヤ?」
 女は声をかけた。そのとたん。声をかけた当の人影がびくりと震え赤光が走った。女は息を呑んだ。ゆっくりと、ソレが目を開いていく。女は燭台を掲げて少女らしい人影を照らし出した。懐かしい師匠の少女。初めて出会う種族の女王。胸を詰まらせながら、その少女を見つめて。
 聞いていた通りの短い髪。真っ赤な虹彩。朱の唇。少女というよりはあまりに厳しい目の光。
「誰・・・・」
 だがその面差しからは少女のやわらかさは薄れ、代わって若木の少年のようなしなやかな野性的なものが現れていた。着ているものも男物。鋭い視線。そこには少女特有の繊細さはなかった。師匠が語った悲しくて、寂しい運命を背負った少女ではなく、代わりにあったのは偏狭的な意思。
「そんな馬鹿な・・・・」
 女は自分が今観ているものが信じられなかった。これが・・・・これがサヤ。違う。この目の光。この言い知れぬ、歪められた者特有の違和感。少女では無い。これは・・・・。予知の能力が衰えてきている自分にもわかるほどだった。確かにジョエルはサヤを研ぎ澄ますと言った。自分自身を封じられ、ディーヴァを倒すことだけを考える生き物。少女ではなく――。精神に手を加えられ。
 なぜ。ジョエル。女は悲鳴と嗚咽を堪えた。なぜ。あなた方一族が背負ったものをあなたほど知っている者はいないと思っていたのに。これがサヤ。師匠が大切にしていた少女。人格を歪められ、貶められ、性差すらも奪われて。何故こんなことが起こっているのか。
 女は鋭く、サヤの傍らに佇んでいる青年を見つめた。彼の黒衣は燭台の明りの中で影のように黒ずんで闇の中に溶けてしまっているようだった。彼は物音一つ立てずにそこに立ち尽くし、視線を地面に落としてサヤからも女の視線からも目を背けている。
「なぜ。どうしてなのですか、ハジ!」
 女は彼の名前を呼んだ。
「なぜこのようなことが起こってしまったのですか」
 あなたの女王がこんな状態にされたというのに、あなたは何をしていたのか。悲鳴のような女の声だった。女王の記憶は第一騎士に依る。繭から出たばかりの女王は、その記憶は赤子同然のまったくの無垢であるのに。――まさかこのサヤの変化に、第一騎士であるハジが関与しているのだろうか。
 考えられない。考えたくもない。しかし女の予知は既に女を遠く離れ、青年の気配の中には混乱と不安と心配のみが見出されるだけだった。
(道を外れた騎士は。女王の目覚めを守らず、女王の記憶を守らず・・・・)
 古い古い格言が記憶の中から甦る。そんなことが実際に起こるなんて。しかもサヤに。いつか会いたいと思っていた少女に。師匠の少女。サヤ。
「ハジ」女は固い声で言った。
「あなたはシュヴァリエです。シュヴァリエは女王のために在る。その義務を果たさず、女王たるサヤを、サヤの精神を守らなかったあなたの行為は、シュヴァリエとしての道に外れています」
 それは静かな声だったが、深い闇の中から響くような断罪の言葉だった。闇の中で青年がこぶしを固く握り締める。その気配を感じながら、女はそれ以上何も青年に語ることもせずに踵を返した。
「ジョエル」女はつぶやいた。
「ジョエル・ゴルトシュミット。あの人に会わなくては――」
 女は震える足を踏みしめるように、ジョエルが居室にしている部屋へと向かった。暗い地下から明かりの灯る地上へ。だが、女の心は地下にいるよりも更に暗い闇の中に落ち込んでいくような錯覚を憶えていた。
「いらっしゃいましたか」
 女が部屋へと訪ね来ると、予知していたかのようにジョエルは微笑を浮かべて出迎えた。
「ジョエル。どうして――」
「サヤのことですね」
「なぜです、ジョエル。ジョエル。ご自分のなさったことがわかっていらっしゃるのですか。あなたも知っているはず。わかっているはずです。こんな小細工は意味が無い。サヤは自分の姿を変化させることができません。擬態することを知らないのです。そしてサヤがあの姿のままならば、男でも女でもナチスにとっては変わりない。サヤの外見は東洋人です。東洋人など、彼らにとって中国人も安南人も、日本人も変化なく劣等種に過ぎない。この世界を巻き込んだ大きな闘いの根底には、選民意識。人種差別があるからです」
「そう。あなたのおっしゃるとおり、こんなことは小手先のごまかしに過ぎません。翼手に変身能力があると言うあなた方の言葉が正しければ、本来ならサヤに誰かナチスの要人の血を摂り込ませて、ベルリンの中枢にもぐりこませるのが一番良い方策なのです。だが生憎とサヤも、そしてハジも、そのような能力を出そうとしない。「できない」のではなく、彼らの精神がその能力を拒否するがゆえに、能力が発動しないのだろうというのが専門家の意見だった」
「専門家――」
「精神(こころ)の、ね」
「だから、ですか? だからサヤにあんなことを――」
「催眠療法というのはね。個人差があれ誰でも多少の影響を得るものです。翼手の女王も例外ではなかったということだ」
 これで彼らの精神が人間とほぼ同じ様相であることが証明された。そう嘯くジョエルに女は見知らぬ他人を見る思いだった。
「ジョエル!」
 女の激昂をジョエルは冷ややかな目つきで見つめていた。
「私は武器としてのサヤを、あらゆる意味で完全に研ぎ澄まされたものにしなければならない。できれば今回で、ディーヴァを狩る。そのためにだったら何でもしよう」
 例え魔物に魂を売ったとしても。だが女は激しい調子で首を振った。
「いいえ。ジョエル。あなたは確かに『赤い盾』の長官です。翼手がこの世を脅かすことをあらゆる手段で阻止することを義務付けられている。翼手で命を失った者たちの想いを一身に受けて戦っている。
 でもそれだけではありません。あなたはゴルトシュミットのジョエルです。あなたの一族が背負ったモノはそこだけにあるのではない。あなたの一族、最初のジョエルの本当の罪の意味を、あなたは知っているはず。私たち一族は言ってきたはずです。サヤたちの尊厳を守ってください、と。そのためにあなた方に協力しましょう、と。最初のジョエルの本当の罪は、神の御技を顧みずに自分がみずから神になろうとしたこと。知識に溺れ、希求に溺れ、生命そのものを弄ぼうとしたことにあるのです。その傲慢が『血の日曜日』を、あの惨劇を引き起こした」
 ジョエルの顔からいつの間にか微笑が消えていた。
「サヤを武器として高めるためとおっしゃいましたね。なんのために? ジョエル。何をもってサヤの能力を高めたというのですか。本来の精神を取り戻さずに、ディーヴァが狩れるとお思いですか? あなたは単にあなたの好奇心を満たすためだけにこれをしたにすぎないのです。
 あなたは結局あなた方一族の罪の元である祖先ジョエルと同じ轍を踏んでいる。それになぜ気づかないのですか。それともあえて気づかない振りをしているというのですか」
「あなたにはおわかりにならない」
 暗い声でジョエルは言った。
「我々の一族に科せられたこの重荷。この忌まわしい荷物。私たち一族はあの日曜日の惨劇から未来の道を閉ざされ、ただ自分たちが世に出してしまった災厄を表に出さないことだけを目的として歩みを進めているのです」
「あなた方の重荷など!」
「私がこれを終わらせなくては、自分の子供に自分の孫に、これが引き継がれる。確実に引き継がれていく怖れと不安と責務の重荷をあなたは決してわからない。これは私たち一族の責務であって、あなた方一族の責務ではないからだ。人間以外を相手にしている怖れ。翼手によって親しい者達を失った『赤い盾』構成員の怒りと悲しみを背負うこと。あなた方は私たちの近くにいても、決して背負えないこれらを私の一族は背負っていくのですよ」
「だからと言ってサヤに何をしていいと言う理由にはなりません。彼らは翼手です。でもディーヴァではない。ディーヴァの一族は人間を闇に導こうとしています。それは最終的には自分たちの破滅だと薄々わかっていても。サヤはそれを留めようと、存在の全てを賭けて戦っているのに。
 私にはわからない。あなたがわからない。あなたも。ハジも。サヤをどうしようというのですか。女王のための行動を取らないシュヴァリエなんて――」
 その時、どうしてだか急に女の脳裡に思い浮かんだのはアンシェル・ゴールドスミスの顔だった。輝かしい騎士。あの声。あの圧倒的な存在感。この愚かしい戦争などとは別次元に在るような存在だった。あれこそ翼手のあるべき姿なのではないか、と女はちらりと考え、人間の存在を貶めようとしている彼らのことを考えてぞっとした。だがジョエルもサヤに対して同じようなことをしているのではないか。女王の精神は純粋であり、その記憶は繊細。その繊細さに付け入ったジョエルの所業を。まるで初代のジョエルを見るかのような、神々の領域を弄ぶようなその仕業を。そのことを女は決して許すことができないと思った。なぜ。一度間違った道を、再び辿ろうとするのか――。
 人間の醜さは際限ない。翼手である彼らはそれに絶望し、人間を隣人ではなくて、捕食されるべきものとして捕らえているのだ。そしてそれを逆説的に自分たちの生きる伝手にしたのだ。人間の戦争すら彼らにとってはゲームに過ぎず。
 ちがう。それでも彼らの取った道は間違っている。だからこそ、自分はジョエルの元に派遣されたのだ。ああ。だがなんのために。ジョエルの道も間違っているというのに・・・・。
「だがあなたの取るべきは私たちを補佐する以外にない」 その時ジョエルが言った。
「あなたの一族があなたをゴルトシュミットに寄越したときから、あなたのなすべき道は決まっているのだ」
「いいえ。ジョエル。私も私の一族もあなたのモノではない。私たちの一族はあなたと契約を結んでいる訳ですらない。あなたの思い違いは、私を、私たちの一族をあなた方の一族が縛っているのだと勘違いをしていること。そしてサヤたちが自分のものだと思い込んでいることです。どちらもあなたのものでも、あなたの自由になるものでもない。どちらもあなたに協力しているに過ぎず、協力は信頼のないところに育たない。
 あなたは私たち一族の信頼を裏切ったのです。私は一族の元へ帰ります」
「サヤは。どうするのです? あなたはサヤをこのままにしておくのですか」
 あなただけが彼女に対して助けを行うことができるのに。だが女は唇を皮肉で歪ませた。
「ジョエル。あなたがサヤの心配ですか?」 今まで見せたことのない口調で彼女は言った。
「あなたにもわからないのですね。もしも私が予知の完全な能力をサヤにはたらかせることができたのならば、とっくの昔にあなたの意図を察してサヤを守っていたでしょう」
「なんと――」
「わかりませんか。私はサヤに関する予知の力を失っているのです。サヤに関する予知だけが私から失われた。それでも私があなたの傍らにいたのは、この欧州を巻き込んだ戦争全体に対する予知ならば可能だったから。それがあなたの助けになり、そしてそのことはすなわちサヤたちの助けになると思っていたからです。でもすべて終わりました。サヤを。私は助けられなかった。
 こうなったからには私は一族の元に帰らなくてはなりません」
「いいえ。まだです。あなたの一族はあなたをジョエル・ゴルトシュミットに託し、まだそれは有効なのですよ。あなたの一族はサヤに対して働かない能力を、この私の役に立たせるようにと考えているに違いないのです。
 考えてみられるがいい。あなた一族はなぜ何も言ってこない? あなた方の一族は予知の能力を持っている。あなたが能力を失ったことも、私がサヤに対してしたことも、あなたの一族が知らない訳がない」
「ジョエル。あなたは予知というものを知らない。あなたに私の一族を云々する権利はありません。
 サヤに関しては私に一任されている。サヤに何が起こっているのか私が報告しなければ、今私の故郷にいる者は誰もはっきりしたことはわからないのです」
「だが、あなた自身のことは? あなたの能力の衰えにあなたの一族が気がつかないとでも? 少なくてもあなたの異変に多少は気がついたはずだ。あなたとあなたの一族の連絡がかなり密に取られていたことを私は知っている。それなのになぜ次の手を打ってこない? あなたの言葉を借りるならば、そうすれば私がサヤに行った所業を止められたのではないですか。あなたの一族は何もかも納得づくなのだ。
 疑うというならば、あなたの一族に問い合わせてみるがいい。私の所業もあなたの混乱も、あなたの不満さえ。少なくとも、あなたの一族の長はご存知だ。あなたが話してくれたのだ。あなたの一族の長はすべてを見通す能力を持っている、と。
 知っていて、その上であなたはあなたの一族から私の元にいるようにと命じられたのだ」
「いいえ」
 だが女の声は弱々しかった。ジョエルが口にしたことは、ずっと女の心の奥底にあった疑問でもあった。一族の長は自分の能力の衰えを見通しているのではないか、それなのになぜ未だサヤの傍にいるように命じられているのか。一族の里を離れてあまりにも長い年月が経ってしまっている。もしかすると一族から見捨てられているのではないか。
 ジョエルのこの、間違いを――。
「あなたがご心配することはありません。サヤの状態も一過性のものです。こう考えてはいただけませんか。これはサヤのためなのです。早く事態に適合させるためには仕方のなかった処置なのだと」
「いいえ!ジョエル。あなたは触れてはならないものに触れた。誤魔化さないでください。あなたの本音を私は決して許すことはできません」
「あなたの怒りを買うつもりはなかった。だがあなたのお許しを得るつもりもありません。これは私の戦いなのですから」
 ジョエルの言葉に女は息を詰まらせ、そのまま言葉もなく踵を返してジョエルの部屋を立ち去った。彼女の心は嵐に揺れていた。では自分の一族はサヤにとってなんだったのだろうか。サヤの人格を貶められる行為を阻止することもできず。無力で、それどころかそんな許せない行為を行った当人に力を貸すことしかできない。自分たちは翼手と人間の均衡を護るために存在するのに。そしてそれを許している長。
 女は自分に当てられた部屋に戻るなり、肩で大きく息をついた。机の上に昔、子供の頃に先代のジョエルにもらった翡翠の原石が置かれている。いつも、彼女はこれを肌身離さず持ち歩いていた。先代のジョエルがいて、師匠がいて。緊張しながらも穏やかだったあの時代――。力任せに彼女はそれを固い床の上に投げつけた。翡翠が真っ二つに割れて内臓のように中の縞模様を表に曝す。
 いつの間にか涙を流していた。ジョエルを許せず、自分自身を許すこともできなかった。そしてもう一人、許せないのが。 ハジ。
 本来護るべき女王の人格の崩壊。それを見過ごしたシュヴァリエ。あるべき姿を曲げられて。――曲げられたモノはサヤの人格だけではない、と女は思った。自分たちとゴルトシュミットの、あるいはサヤたち翼手とその保護者たちのこの関係が、この二十年にもわたるすべてが崩れ落ちる。許せない。たとえどうしようもないことだったとしても。なんとかしようと思えばできたはずなのに・・・・。女は自分の怒りのすべてがハジに向かって流れ込んでいくのを自覚していた。それが決して正しいものではないことも。だが止めることが出来なかった。
(何を怖がっているのか、私にはわかる。彼は人間でありたいのだ。だからこそ、このジョエルの安寧に身を委ね、女王を護る責任がどういうモノなのか、理解しようとせずにただサヤの、ゴルトシュミットの従者としての立場で行動した。その結果、どうなったか――。シュヴァリエにとって絶対存在であるはずの女王の尊厳を、人格を貶められ、哀れな道具と化すことを許してしまった。彼はその結果を見つめ続けなければならない。そのことこそが道を外れたシュヴァリエの、彼にとっての贖罪のしるし)
 サヤのシュヴァリエであるハジの、つらそうな姿が思い浮かぶ。一言の弁解もせずに目を落とす青年の姿が。その姿すら。そのように何も語らぬ姿すら、彼女にとっては苦痛だった。そんな目をするならば、なぜサヤを護らなかったのか。
 そして女は自分の一族を思った。なぜ。このような状態になる前に一族は動かなかったのか。彼らにとってサヤは取るに足りないものなのか。そして自分は――。女の中で義務が叫ぶ。あの種族の存在。決して人間に知られてはならない種族。私たち一族との関わり。そして護るべき存在。だがもしも一族が、自分を――いや、もしかしてサヤを見放しているのだとしたら・・・・。
 歪んでいく。と女は思った。自分の能力も、あると思っていた自分の居場所も、そして自分自身さえも歪んでいく。女が唯一つ、師匠の形見をもったまま、ひっそりとこの南フランスにあるジョエルの拠点を抜け出したことを誰も知らなかった。




 それから1年ほど後。パリにある元ゴルトシュミットの邸宅に一人の女が姿を現した。女の衣服は埃と汚れでボロボロのただの布の塊となり、白かった髪は灰色にもつれてまるで年老いた乞食だった。南部からどのようにして流れてきたのか。だが女は半分気が狂ったようになりながらも、いつしかここへ引き寄せられるようにたどり着いた。いつの間にか靴を失くした足は罅割れて血がにじんでいたが、その痛みよりもさらに強い感情を込めて女は閉ざされている門の外から中を打ち眺めた。あそこにすべてがあった。師匠がいて、前のジョエルがいて、サヤとハジがいた。
 すでに女が自分の故郷を離れて長い年月が経ち、女にとって故郷とはこのパリのジョエル・ゴルトシュミットの館になっていたのだった。失われた故郷。懐かしい年月。帰りたかったあそこに。たった1年前のことなのに、この門の外と内とは大きな隔たりがあって向こう側に行くこともできない。
 門に沿って歩き始めた乞食女をドイツ兵が声を荒げて追い払おうとした。だが女は門の内側を凝視したまま追い払われては戻り、戻っては追い払われ、その様子に痺れを切らした門兵が持っていた銃の台尻で乱暴に女をこずくとそのまま地面に這い蹲るように倒れ込んだ。女の緑の瞳が遠いものを焦がれる目で、かつてのジョエルの邸、今はドイツ進駐軍の駐留となっている邸宅を見つめている。その女に向かってさらに銃器が振り上げられた時
「待て」
 どこかで聞いたような声だと女は思った。男が一人、立っていた。厳めしい軍服の中で一人だけ、仕立ての良い上着を着込み、そこだけ空気が違っている。
「アンシェル・・・・。アンシェル・ゴールドスミス」
 ひび割れた唇でつむがれた自分の名前に男が一瞬眉を顰め、それから微笑んだ。
「ああ。あなたでしたか」
 ドイツ兵たちは、この大物然とした堂々とした人物が襤褸切れ同然の女の前に片膝をついて手を差し伸べるのを唖然として見つめていた。
「あなたはいつも思いがけない所にいらっしゃる」
 アンシェル。輝かしい女王の騎士。剛直なる意志のもの。女は震えながらディーヴァのシュヴァリエの長を見つめた。低い響きを帯びた声。その声を懐かしいとさえ感じる。
「あなたはゴルトシュミットと共におられると思っていたが。このような成りで・・・・」
 揶揄とも憐れみともつかない口調でアンシェル・ゴールドスミスは女に語りかけた。女の緑の瞳が涙にかすんだ目で彼を見返していた。汚れた顔の中で唯一その緑の目だけが女に残されたものだった。それを知ってか知らずか、アンシェルは僅かに感嘆の色を声に込めて言った。
「これは見事だ。その目はまるで緑柱石のように見えるな」
 単なるモノを観察しているような言葉だったが、その言葉は女の中に不思議な穏やかさをもたらした。人間でなければ考えなくても良い。感じなくても良い。ジョエル。この邸の中で、昔のあなたは私の瞳を翡翠のようだとおっしゃった。あのときのジョエルはもういなく、あの時もらった石も砕いて捨てた。
「あなたをゴルトシュミットに還せば、それなりの恩も売れようが」
 女は言葉も無く彼の顔を見つめた。その目の前にアンシェルの、シュヴァリエの手が差し出される。
「あなたは私が何者か、わかっているのだろう。その上で訊く。私と来るかね。あなたに私のディーヴァの栄光をお見せしよう」
 女王の騎士がそこに在った。かく在るべきシュヴァリエの姿が。女は怯えと恍惚とを浮かべてアンシェル・ゴールドスミスを見つめた。この手を取ることも、それによって導かれる未来も自分にはうっすらとわかっているような気がする。それは暗い未来であり、それまでの全てを否定する道であった。流されてしまう。もう、抵抗することもできない。震えながら女は手を差し出した。そこにひとつの光がある。取らずにいられない暗い光が。男の大きな手と女の罅割れてやせ細っている手が重ねられ、男の微笑が深くなった。




 この世はすべて夢と失望と。希望と絶望とが絡み合って存在する。一方の女王にとっての絶望が、もう一人の女王にとっての希望となる。逆もまた然り。そしてやがてそれぞれにもたらされるものの大きさを、その時は誰も知らなかった。




 1944年8月。やがてパリは解放を迎える。







END



2009/05/29

 『翡翠』の章、終了!!!今回はとっても長くてすみません。そしてかなりアレな話になってしまいました~~。懺悔。内容が内容だけに、書き方次第だと思ってたのですが、見事に玉砕。すみません。
 この話、オリキャラによるちゃぶ台ひっくり返しのお話でした~~。こうしてオリキャラ一族は舞台からフェードアウトしていくという。。。
 私はドイツ編の設定が許せません、想像できません。いえ、したくありません~~。という立場なので、その私がその部分に触れようとするとこういう妄想が出来上がる、という部分を書いてみました。ドイツ時代にサヤに何が起こったのか、その時にハジがどうしていたのか、描写を「しない」こと(つまりハジ小夜に関しては説明されていない部分は説明しないままに、できるだけ発表されている部分のみを書こうと思ったのです)を目標に。
 結果は惨敗でもなぜか達成感だけはある。この緑の目の女性の話は自分的にも書くのがきつかったので、(結果はともあれ)解放されて嬉しいです。後は群青の目の女性の話を書けば、この白い一族の話は終了して、純粋なジョエル話になる・・・・筈です。


 これによって、ジョエルの元にサヤとハジがいるということと、翼手というものがどんな生物なのかの知識がディーヴァ側に流れてしまいます。という設定を妄想。このタイミングでディーヴァ側に洩れるというのがポイント。ジョエル一族は書きでがあります。あと、一応言っておきますが、この言いたい放題しているSSの中で、キャラクターが他のキャラクターの事を語っている部分などは、必ずしも私の意見とは一致しておりませんので。念のため。