そのまま女はロンドン郊外に滞在して、折衝を行うジョエルの補佐を行った。サヤとハジは遅れて英国に到着する予定になっている。なぜならば、いよいよサヤの目覚めが近かったからである。輸送の途中で目覚めが始まると、どんなことが起こるかわからないというのがジョエルの考えだったし、確かにその通りだったので女も同意したのだった。ハジがいれば恐らく大丈夫だろうと女は考え、いよいよ比重の大きくなってくる対ドイツに対する連合側の行動予測を測ることに集中することにしたのである。それが、女の能力がサヤとハジに対して異変を起こしている事の現われだとはついに女は気がつくことが無かった。
 ジョエルはたびたび英国から北西アフリカを初めとする各フランス領へも飛び、留守をすることが多くなった。世の中全体が重苦しい世界大戦の重みにきしんでいた。
「サヤは大丈夫なのでしょうか?」
 久々にロンドンの邸内に戻ってきたジョエルに女が声をかけた。
「何がですか?」
「・・・・二人がいるのはドイツの駐留軍がいる北ではなく南部地方ですし、二人だけという訳ではありません」
「それでも。私も残れば良かった。そうすれば・・・・」
「国民党の総統は、あなたのような人材をのどから手が出るほど欲しがっている。今、あなたがあそこに行けばただでは済みますまい」
「いいえ。私には予知の能力があります」
「でも、あの二人は翼手ですよ」
「ジョエル?」
「ただの人間である私やあなたよりもずっと大丈夫です。そうでなくては困る」
 その冷ややかな言葉に女は眉をひそめた。
「ジョエル。あなたはジョエルの名を継いでから変わった。以前はそのような物言いはなさらなかった」
「この厳しい世の中です。変わらなくてはいられないのですよ、適応するには」
 女はジョエルに背を向け、じっと窓の外を眺めた。
「変わるものもある。でも変わってはならないものもあります」
「わかっています。私は私の一族の、ジョエルの名に被せられた義務を一時たりとも忘れたことはありません」
「ディーヴァの目覚めが近いのです」
 女は告げなくてはならないことをジョエルの名を持つものに告げた。今はまだ表には表れていないだろうが、少しずつドイツ軍はほころびを生じ始めている。そのうち連勝とは行かなくなってくるだろう。だが本当の恐怖はそれからだ。自らの万能感を失った政党が自暴自棄になったとき、正常な判断が失われ、混迷が始まる。
「ドイツの中にも混乱と混沌が渦巻き始めています。ディーヴァが生まれるのはその只中」
「ではサヤも?」
「いいえ――。わかりません。ディーヴァとサヤの目覚めは必ずしも一致していない。誤差が生じます。ただ前回眠りについた時間はあまり変わらなかったことから、今回の目覚めはほぼ同じくらいと考えられますが」
「あなたにも予知できないと?」
「ええ」
 陰鬱な気持ちで女はうなずいた。女の能力の衰えに、まだジョエルは気づいていない。その衰えは、ことサヤに関することだけだったからである。
「では準備をしておかなくては」
「こちらに連れてくるのですか?」
「いいえ。ディーヴァはドイツの渦中に生まれ落とされると言われましたね。サヤにもあの地に行ってもらわなくてはなりません。一旦英国に連れ出すのは危険すぎる」
「では私も――」
 その女の顔を、ジョエルは奇妙な目でじっと見ていた。その目の意味するところを気がつかなかったことを女は後々まで後悔することになる。すでに女の予知の力はサヤの元を離れていたからである。
「用意させましょう」
 暗い目でジョエル・ゴルトシュミットはそう囁いた。




 逃げ出した時よりも帰還は困難を極めた。フランスの国家は認めていたものの、占領下にあることに変わらないフランス国土ではドイツ軍だけではなくナチス親衛隊の影はどこにもあり、その中をかろうじてジョエルと女は北の小さな飛行場経由でフランスに入ることができた。そこから後はひたすら強行軍だった。目立たぬ車で夜道をひたすらに走りつづける。ジョエルがどこからか入手したフランス在住政府の許可書とそれから女の能力だけが頼りだった。女の力は正確に親衛隊の目の薄いところを読み取り、一路南に向けてひた走った。
 暗い森を抜けて、廃墟のような寺院の跡にたどり着いたのは、まる3日近く車に揺られた後だった。到着するとすぐに女はサヤに、正確に言うとサヤの繭に会いたがった。
「確かめたいのです。サヤを。サヤが無事であるということを」
 サヤの包まれている白い繭は以前見たときよりも鼓動が確かになり、触ってみるといくらかの温かみが感じられる。覚醒が近づいているのだ。女が白い繭を確かめている間、ジョエルはずっとその場所を護っていた『赤い盾』の男たちと話をしていた。ロシアで証明されたように、サヤは彼らにとって唯一の翼手を確実に仕留められる武器であった。ベルリンに放っている諜報員からは翼手らしき存在の目撃情報が届いている。『赤い盾』としては一刻も早くサヤの覚醒が望まれた。
 その時、ジョエルがちらりとサヤが包まれている繭に視線を投げかけた。何とも言えない冷たい笑いを帯びた視線のように感じられ、その様子に女はなぜか嫌な感じを覚え、顔を上げてサヤのシュヴァリエであるハジの姿を求めた。黒髪に黒い衣装を身につけているせいか、このように暗い場所で彼は影の中に溶け込んでしまったように見える。だがその姿は『赤い盾』の面々に触れても特に警戒の色を浮かべていなかったことで、女は幾分ほっとしていた。彼が何も感じていないということは、ここでは特にサヤに危険が迫っていないのだろう。
 そう考えてから、女は自分の予知の能力がそこまで衰えていることと、ジョエルを信じきれなくなっている自分自身に愕然とした。




 ディーヴァがベルリンにいるらしいという情報は『赤い盾』の諜報員からもたらされた。この情報がジョエルの手元にくるまでにどれくらいの犠牲が払われたのかを思うと、心が重くなってくる。女の直感はこの情報が正しいものと判断を下し、ジョエルはそれをもとに未だ眠りに包まれているサヤをベルリンに送り込む準備を始めた。サヤの覚醒も間も無くと判断したからだった。
「できればサヤの覚醒を早めたいところだが」
「無理な覚醒はいけません」
 というのが女の言葉だった。彼女たち一族はみずから翼手と深く関わっていると告げるだけあって、女王とそのシュヴァリエの生態に良く通じているようだった。ジョエルは苦笑しながら旅装している女に向き直った。女がこのように外に向かって行動することも、いつもまとっている尼僧のような服装を脱いで普通の人間のような格好をするのも珍しく、それだけこの状況が深刻なものであることを知らせていた。
「くれぐれもどうぞご用心を。ベルリンはあらゆる意味で敵の本拠地。本来あなたを生かせるような所ではないのです。あなたを失うわけにはいかない」
「ジョエル。私の能力をご存知でしょう。私だからこそ出来ることがあります。私の能力がこれで役に立つのが嬉しいのですよ。遠くにいるよりも対象に近いほうが上手くいきますから。準備を整えて急いで戻って参ります」
 女に課せられたのは、ベルリン郊外にてサヤたちが安全でいられる場所を見つけ出すこと。そしてドイツ総統の正確な居場所の把握だった。もちろんベルリンの情勢もそれに含まれる。ベルリンに跋扈する翼手を確認し、そこからディーヴァへの道を見出す。恐らくロシアの時と同様にドイツ総統近くに身を潜めている可能性は十分あった。ベルリンに到着すればそこから先はサヤの出番のはずだった。
 繭に包まれたサヤ。そしてサヤのシュヴァリエであるハジ。彼らの世話は白い女の元にいる、もう一人の白い一族がすることになっていた。彼女は口を利かず、感情を見せることもなく、ただ淡々と二人の翼手の世話をすることを自分の義務と心得ている。サヤの元にはシュヴァリエと、彼女が居れば安心だと、白い女はそう思っていた。
「では、ジョエル」
「気をつけて」
 それが二人が穏やかな状態で顔を合わせた最後の時になることを、予知の能力を持ちながら女は知ることがなかった。女がすべての準備を整えて、再びフランスに戻ってきた時にはすべてが遅かったのである。







END



2009/05/22

 今回は少し短く。そして、次回で『翡翠』の章を終わります! 今回が長い分だけ次回は多少今までに比べると長めに。この最終話。書くのいやだったんです。でも頭の中に浮かんできて(出来上がって)しまったので、書かなくてはならなくて。
 今更ですが、私は文章書きです。私にとって一応趣味でも、「物語を書く」ということは、浮かんできた物語に対して責任を持つということであって、一旦書き出したからには必ず終わらせます。いかに自分にエネルギーがあろうがなかろうが。たとえ自分がその部分を書くのがつらかろうが。。。。
 でも・・・・・。書くのが気が重いので、多分本当に書かなくてはならない文章密度よりかなり薄め。になるかも。(←超弱気。。。)