あなたにこの石をあげよう。そう言って彼はウズラの卵ほどの大きさの原石を彼女に手渡した。
彼ほどの富豪になればこんな半貴石など惜しむべくもない。しかし他人から何かを贈られた経験のなかった彼女は目を輝かせてそれを受け取り、そのあとどうしたら良いのか戸惑うように自分の師である盲目の女の顔を伺った。
 彼女の師は手探りでその石に触ると、やがてにっこりと微笑んだ。
「良い石です。いいものをいただきましたね」
 その言葉に少女はほっとしたように微笑んで、嬉しそうに彼を振り返った。
「あなたの目には緑柱石の輝きよりも、この翡翠の柔らかな深みが似合うだろう」
そう言って彼はほほえんだ。そうしてその石は今でも彼女の手元にある。まだ彼女が師の保護下にあった懐かしい思い出の一つだった。




 少女は自分の部屋へ戻ると、机の上に置いてある緑色の石を眺めた。白っぽい緑の中に所々濃い翠が混じっているこの石は、翡翠の原石だと聞いていた。そっとその石を突いてみる。一体ジョエルは何のためにこの石を自分にくれたのだろうか。ご機嫌取りとも思えない。第一、これをもらった時、自分はまだ十になるかならずの時であり、これが何なのか、まだ何もわかっていなかったのだ。
 少女はいつでも飄然とした微笑を浮かべているジョエルの顔を思い浮かべた。あんな風に、いつも微笑んでいるように見えて、実にジョエルはしたたかで、父親が立ち上げたこの『赤い盾』を上手く運営している。それは彼の無尽蔵に見える財力の所以だけではない。巧妙な言葉や、相手をそれと知られないように追い詰めていくやり方。相手の行動を予測して確実に楔を打っていく。そしてそれを半ば楽しみながらやっているのを少女は知っていた。そんな風に自在に行動するには、大掛かりな情報網と、正確な予測能力が必要になってくる。
 情報と予測。――それを行っているのが自分と師匠だということをジョエル以外のほとんど誰も知る者はいなかった。そのためにこの屋敷に連れてこられ、そのために長い期間、ジョエルの客分となっている。ここに呼ばれてきて以来、少女は外に出たことがなかった。ジョエルは自分たちが必要とするものは何でもそろえてくれる。客分として丁重な扱いも受けている。でも自由に外に出て行くことは許されていなかった。それとなくこの屋敷の外へ出てみたいと話してみると、やはり同様にそれとなく断わられるのが常だった。多くの場合、その理由は外の危険だったり、師匠の体調だったりしていた。そんなことが重なると、一人では何もできない少女にとって、縛られているのと同様に感じられても仕方がない。自分たちはジョエルの所有物なのか、と思ったこともあった。しかし、そのたびに彼女の師匠は言うのだった。
「私たちはすべて定められた道に従って歩みを進めていきます。私たちのように『予知』の力を持つ者は余計にそれを感じ取らなくてはなりません。そして・・・。私たちはジョエルに所属しているのではない。私たちの知識がジョエルを動かすのです。それを忘れてはいけません。なぜならば、私たち一族は『目的』のためにジョエルに協力に過ぎないからです。ジョエルが私たちの庇護をしているのではなくて、私たちこそジョエルに力を貸している。この認識こそが、私たちの立脚すべき立場の指標なのですよ」
 少女は確かにジョエルが師匠に対して、時に畏れを、時に敬意を、そして時に庇護欲を表わするのを見つめていた。師匠にとってはジョエルは同志であり、導師であり、対等な立場の者であった。しかし、自分にとって、ジョエルはどうなのだろうか。この、初老と言える紳士。急激な時代の変換期であるにも拘らず、それを上手く乗り越えながら、『赤い盾』を育てているこの紳士の、手腕と胆力に尊敬と気後れを共に覚えているのではないだろうか。――こんな事を考えてはいけない、と少女は思った。自分がこんな風に思っていると知ったら、師匠は悲しむだろう。師匠は決して声を荒げて起こったことなどなかった。ただ、あの優しそうな眉を悲しげに顰めながら、黙ったまま少女の気配を探っている。師匠を失望させたくはなかった。少女は自分に期待されている役割を十分に認識していた。師が辛抱強く教えて諭してくれた、自分たち一族の本当の役割も。
 少女は繭に包まれて地下に眠るもう一人の少女の事を考えた。永遠に歳を取らず、眠り続け、3年間のみ目覚める事を許される少女の事を。サヤと言った。その名前を口に出す時、師匠の顔には柔らかな優しさが浮かび、一方ジョエルの顔には何か受け入れがたい複雑な表情が幾許かの緊張とともに浮かび上がっているのを確かに感じる。師匠の反応はわかる。しかし、ジョエルの反応は。あれは一体何なのだろうか。師匠に質問してみると、彼女は少しだけ悲しそうな表情で答えた。
「ジョエルの反応の方が普通なのでしょう。彼らにとって、種族とは。いえ、翼手とは人間とは違うもの。人間の血を必要とし、歳を取らず、どんな怪我を負っても瞬時に治ってしまう。人間は未知のものに対しては恐れを抱くものですから」
「でも私たちは違う?」
「ええ。私たちは彼ら種族のことを良く知っています」
「私たちの知識はジョエルたちにも伝えられて――」
「知識を得ることが必ずしも知ることとは限りません。ジョエルたちは翼手を知らない。いいえ、知ろうとは思わない。彼らの生態がどんなものか、知ろうとする欲求はあるというのに、その本質を知ろうとしないのです。ですから恐怖はいや増していく」
 ジョエルのことだと言うのに、彼女の師はまるで誰か遠い所にいる人のことを語っているように話していた。まるで夢を見ているように。波を語るように。それが彼女たち予知を行なう一族の特徴なのだろうか。それとも師匠の目はほとんど光を感じていないからだろうか。十になるかならずでここに連れて来られた少女には、故郷の記憶は遠くぼんやりとしか残っていなかった。そのため師のほかに、予知を行なう者の姿を見た記憶も無く、師の目が見えなくても軽やかに歩く足捌きや、不意に立ち止まって何かにじっと耳を済ませている態度に、自分の中の予知の力が揺さぶられ、強められていることにほとんど気がついていなかったし、自分の予知能力がどの程度であるかもわかっていなかった。
「翼手たちの生命の中には常に寂しさが潜んでいます。翼手の女王種たちが常に少女の姿であるのもうなずけます。鋭角的な自我意識とその裏腹に存在している淋しさ。ある種の人間たちはそれらに惹きつけられる。そしてあるものは女王の騎士に。あるものは敵に。そしてあるものは翼手の庇護者になる。けれど今のジョエルはそれらのどちらにも立つ事はせず、二人を保護している。武器として。なんという微妙な均衡。それがあの二人とジョエルの一族の運命なのでしょう。
しかし、いつか。彼らの中に、自分のすべてを引き受け、その上で翼手の事を知るものが現れるとき、その時こそ彼ら一族の負っているものの一部は成就され、長い一幕が終わる事となるでしょう。けれどそれで終わりが訪れる訳ではない。それは翼手が負っている歴史の流れの一部にしか過ぎないのですから」
「お師匠様。それは・・・」
「ええ。そうです。ジョエルにも話したことが無い、でも私たち一族とは関係なく、ジョエルのためだけに行った予言。まだ未来の、一選択にすぎない予兆です」
 白い衣に包まれて、少女の師匠は静かな声で告げた。少女はついに知らなかった。師匠の存在が自分の能力を強めていることと同様に、自分の存在が師匠の力を補佐していることに。
 そしてこの時の師匠の予言も、また遠い未来の約束として、少女が去った後にも余韻としてこの館そのものの内に響いていくと言うことも。




END



2008/08/30

 どうしようかと迷っていましたが。とうとう書き始めてしまいました~~。ジョエル一族の物語。またしばらくお付き合いいただけましたら嬉しいです。
 実はこの「翡翠」の話が中核を担っている話だったりするのですが。本当に書き切れるのか、私。以前の「断章」と異なって、まだきちんと詰めていない部分が多いのも事実。最後は決まっているのですが。とにかく取りあえず頑張ってみる事が目標。
 多分「断章」と同じくらいの長さになる予定です。